武田氏館跡御城印 春の限定版(大判サイズ)は、もうすぐ配布終了です!

2021-04-21 18:00:24 | 紹介
4月も後半です!

信玄ミュージアムにとって大事な日が二つもある四月、卯月。
それに合わせ、当館では、今春、武田氏館跡御城印、春の限定版を2種類ご用意。

①4月5日のオープン記念の御城印(A5サイズの大判)を、4月限定で。

②4月12日の信玄公のご命日の御城印(通常のA6サイズ)を、
4月から5月にかけて配布中です。

というわけで、配布してきましたが、大判サイズの御城印☟は、そろそろ終了!
大きいので不人気かと思いきや、意外とご所望の方が多く、なくなり次第終わりです。ご容赦ください。
武田氏三代の虎朱印、龍朱印、獅子朱印の3つがそろう、おそらく、またとない限定版✨
ということで、多くの方にお選びいただきました。
この場をお借りし、お礼申し上げます。ありがとうございました!

・・・
あんなに瑞々しく、まぶしかった若葉も、
緑が濃くなって、太陽光をしっかりキャッチ、ばんばん光合成し始めている感じです。
例えて言えば、小学校入りたての子供たちが、気が付けば小学校最終学年(!)のような逞しさ。

武田神社と、武田通りも緑豊かに🍃
今週の、こちらのエリアの光景を画像でお届けいたします📷
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特別展「遺産から語る武田信玄」 第2弾「信玄公の姿」5月1日から開催

2021-04-19 16:23:59 | イベント
今年はあっという間に桜が散り、そして、甲府盆地の春の風物詩、
桃の花畑も終わり、間もなく新緑の5月を迎えます。
今年の秋は、信玄公生誕から500年の節目ということで、
信玄ミュージアムでは、令和3年4月1日から令和4年3月31日まで
信玄公生誕500年記念特別展「遺産から語る武田信玄」を開催しています。
現在、特別展示室宝物展示コーナーにおきまして、「信玄公の本拠」と題して
3点の資料を4月30日まで展示中です。
①躑躅が崎館と城下町絵図(個人蔵)
②武田二十四将画像(個人蔵)
③信玄公屋形之図(個人蔵)
そして、5月からは「信玄公の姿」と題した展示テーマに切り替わり、
信玄公の肖像画が展示される予定です。
本人存命時に描いたとされるものは、今のところ、当館でもパネル展示に
使用させていただいている和歌山県高野山持明院所蔵の絵画、
それともう一つ、信玄の弟の信廉が描いた可能性がある絵画が1点あるだけです。
にもかかわらず、現在伝わっている武田信玄を描いた絵画は数知れず。
これはいったい!?
その答えになるかはわかりませんが、追々展示などを通じてお伝えできればと思います。
「信玄公の姿」で展示予定の資料の第1弾は、甲府市古府中町にあります
大泉寺所蔵の「武田信玄像」です。
大泉寺は、信玄公の父、信虎公の菩提寺で、境内には武田氏三代の供養塔もある由緒ある寺院です。
絵画は、狩野派の絵師によって描かれたもので、「狩野探信」の落款があります。実は、同じ名前の絵師が江戸時代に2名いらして、そのどちらの作かは見学してのお楽しみ。
檀家の方以外にお見せすることはなく、一般には公開していませんので、この機会をお見逃しなく!

明日、20日(火)は休館日ですが、「信玄公の本拠」の展示もあと僅かですので、皆さまのご来館をお待ちしています。


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信玄公生誕500年まであと200日!

2021-04-17 15:57:48 | 紹介
2021年11月3日、信玄公生誕500年まで、あと200日となりました🎉


記念の日まであと200日(!)の、本日4月17日(土)は、
「4(し)(も)1(い)7(な)」で、「下伊那の日」だそうです。

下伊那といえば、信玄公の終焉の地があるとされている土地。
ただ、どこで息を引き取ったかなど、はっきしたことは藪の中。
その死を隠していたわけで、当然の結末なのかもしれませんが。

最期の地は、信州駒場(こまんば)という説が有力のようですが、
その他にも、信玄塚が築かれている場所、
「ここが終焉の地!」と、伝承だけ残されている場所、
いやいや遺言を残した場所と、息を引き取った場所が同じとは限らない(!)など。
説はいくつも飛びかってはおりますが、
それぞれが地元で大切に伝えられている、信玄公終焉の地のお話です。

・・・
下伊那とのご縁、生前の信濃侵攻もあり、色々とあるようなのですが、
実は、信玄公と三条夫人の長女・黄梅院(おうばいいん又はこうばいいん)の
菩提寺として建立されたという寺院も、下伊那に隣接する飯田市に。

天文23年(1554)12月、
12歳で北条氏康の嫡男・氏政の元に嫁いだ、信玄公の長女、後の黄梅院。
もちろんそれは政略結婚で、武田・北条・今川の甲相駿三国同盟のためでした。
信玄公、どうやら、この長女さんがかわいくて仕方なかったようで、
「勝山記」によれば、その輿入れには1万人(!?)ものお供が付いたとか。
また、弘治3年(1557)には、「富士御室浅間神社」に長女さんの安産祈願もしています✨

富士御室浅間神社HP「文化財」

夫婦仲もよく、子宝にも恵まれたようです。
しかし、永禄11年(1568)、信玄公の駿河侵攻により三国同盟は破綻😨
長女さんも甲斐に帰され、失意の中、大泉寺住職を導師に出家、黄梅院に。
ほどなくして、永禄12年6月17日、27歳で亡くなったと言われています。

ただ、長女さんのその後には、別の説もあって・・・
それは、同盟がだめになってしまった後も、
亡くなるまで、小田原城で夫と共に暮らしたのではないか。
一周忌を終えて、お仕えしていた方が甲斐に戻り、その最期を信玄公にお伝えし、
それを聞いた信玄公が、「黄梅院」を現在の甲斐市に建立したのではないか・・という説です。
(黄梅院は明治初期に廃寺になっています。)

戦国きっての大名であった父の終焉地がわからないのですから・・・
その娘の最期がわからなくても致し方ないのかもしれません。

しかし、夫・氏政は、父・氏康の死後、甲相同盟を復活させ、
また、箱根の早雲寺の傍らに黄梅院を建立。妻の分骨を弔ったとも言われています。
それが本当ならば、黄梅院の人生は短くとも、
決して幸薄いものじゃなかったんじゃない(?)と思いますが・・・
いかがでしょうか。

<おまけ😉
飯田市の黄梅院によれば、
飯田城主の命により、黄梅院は甲斐市から飯田市へ移されたようですが、
その理由はよくわかっていないようです。
移転の時期も、黄梅院のHPに従えば、江戸幕府が開かれる少し前か、
幕府が開かれた後、1670年代までの間と考えられます。


ちなみに飯田城は、1554年以降、武田軍の南三河侵攻の拠点の一つとなります。
明治維新後、徹底的に破壊されてはおりますが、武田氏が治めた頃の遺構も残されています。

飯田市HP 飯田城の歴史


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信玄公も奉納した(!?)神楽@武田神社

2021-04-14 12:24:57 | イベント
信玄公のご命日、4月12日。
例年、この日は、武田二十四将騎馬行列が市内を巡り、とてもにぎやか。
残念ながら、引き続き今年も新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止になりましたが、
祭事だけは、神社の方で行われました。

武田菱、風林火山などの旗が掲げられた、武田神社拝殿。

境内にある能舞台「甲陽武能殿」では、午前中から1時半くらいまで、
笛吹市の山梨岡神社に伝わる、県指定無形民俗文化財の太々(だいだい)神楽が奉納されました。
伝承された神楽の多くが神話や、神社の縁起を題材としているとか。

写真は、「天鈿女命の舞」のもの。
舞手の多くは男性のようですが、こちらは女の子が舞いました。
アメノウズメと言えば、「古事記」や「日本書紀」の「岩戸隠れ」のお話に不可欠な登場人物。
弟の須佐之男命のあまりの乱暴ぶりに、天照大御神が天岩戸に隠れてしまい、世界が暗闇になってしまったとき、
さまざまな試みの末に、岩戸の前で踊り、神々を大喜びさせた女神。
その甲斐あって、「なにかしら?」と外の様子を覗いた天照大御神を引っ張り出して、
ついに世界に光が戻った・・・というお話で知られています。



最後に奉納された「四劔(しけん)の舞」
信玄公出陣の時、戦勝祈願の神楽として奉納されたという伝承が残ります。
4人の舞手が剣と鈴を手に舞います。
写真はないので😨、こちらでちらりとどうぞ😉 

太々神楽は、出雲系の神楽。
島根県の佐太(さだ)神社で、天下国家のご祈祷として神楽が舞われ、それが全国に広まったとか。
神事的舞と猿楽の影響を受けた神能で構成されます。

山梨岡神社も、もとをたどれば、
崇神天皇の時、国内に蔓延した疫病や災害を治めるために建立されたと言われています。

信玄公の時代も、そして今も、一筋縄ではいかない感染症の問題。
アマテラスが岩戸から出てきたように・・・とまで行かなくても💦
古来より伝承された神楽の思いが天に届いて、明るい兆し、そろそろ見たいですね。
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信玄公のご命日に思うこと。

2021-04-12 11:39:21 | 紹介
4月12日は、武田信玄公の命日です。

享年53歳。その死因は、ガンだったとも、
山梨県など一部の地域で見られた感染症だったとも言われています。

元亀4年(1573)、足利義昭による「信長包囲網」の中心にいた
信玄公が病に倒れることがなければ、天下は・・と、いまだに推測されたりしますが、
いずれにせよ、「甲斐の虎」、戦国最強とも言われた武将です。
影武者も少なからずいたのではないかと言われたり、
トイレを「山」と敢えて呼び、不意を突かれないように備えていたり、
戦国の世を生きたその他の人々同様、死は常に身近なものだったと想像できます。
もともと結核を患っていたとか、どちらかといえば病弱だったとも言われており、
「死は隣り合わせ」という感覚は人よりも強かったのかもしれません。

けれども、実際に、その死に直面した時の心情はどうだったのでしょうか。
信玄公は若くして亡くなった訳ではありませんが、恐らくは「志半ばの死」であり、
「甲陽軍鑑」に記された遺言からは、自らの死後の憂いがダイレクトに伝わってきます。

いくつかある遺言の中でも、「自分の死は3年間秘すこと」は、多くの方がご存知かと。

それ以外にも、「自分の跡を継ぐのは勝頼の嫡男・信勝であり、
勝頼はあくまでも信勝の後見人」と遺言したとか。

勝頼公は、上杉謙信や織田信長にも、武将として「油断ならぬ相手」として認められており、
新たなお館さまとして遜色なかったはずですが、敢えてスルー。
これって、やっぱり、諏訪家の血を引く勝頼公を当主とは認めない(!)的な、
一部の家臣たちの間に流れる、微妙な空気を感じてのことだったのでしょうか。
遺言は、勝頼公に対するものであると同時に、家臣たちに対して、
「家督は信勝が継ぐようにするから、引き続き武田家を支えてほしい!」という、
お館さまの最期のお願いだったのかも?

・・・
今年3月、信玄公にまつわるニュースが話題になりました。
それは、現在恵林寺(甲州市)に安置される「不動明王坐像」のこと。
この坐像、館内の不動堂に安置するために、信玄公自らをモデルに制作されたと伝えられていて・・・
今回、体内にファイバースコープを入れて調査が行われました。
その結果、鼻と顎の内側に発見された墨書きにより、
伝承によれば、京の仏師・康清(こうせい)に作らせたということでしたが、
実際には、その弟・康住(こうじゅう)が、
信玄公の亡くなる1年前(!)に制作したことが確認されました。

不動堂建立の理由は定かではありませんが、「甲陽軍鑑」よると、
ある時、信玄公は、1569年から1570年にかけて、夜空にでたという
煙の出る星の吉凶を易者に占わせたとか。

占いの結果が、なんと、(近くはないが)日本古来の名族の滅亡😨

そこで、自らの死後も家を守らんと館の北東・鬼門に建立したのが「不動堂」。
大きな鏡も作らせて、自ら、坐像のモデルになったとか。
その胸部には、信玄公の毛髪を混ぜた漆が塗られたとも、
頭髪は、信玄公の毛髪を焼いたもので彩色したとも伝えられています。

亡くなる1年前ですので・・・
そんな予感があったのか、なかったのかは知る由もありません。
ましてや、煙の出る星、彗星(?)のことも、不動堂の存在もはっきりしたことはわかりません。
それでも確かに、戦国において、東日本最大級の館の跡ががここに残され、
「不動明王坐像」は、その菩提寺に安置されています。
甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家という、伝統ある家を背負う者として、
家、領国を何としても守らなければならないという強い思い、・・やっぱり感じずにはいられません。


信玄公、今はこちらのご祭神✨
新緑のきれいな、武田神社拝殿📷

信玄公モデルと言われる「不動明王坐像」をご覧になりたい方に💌
坐像は、山梨県甲州市の恵林寺に安置されておりますが、
現在開催中の、山梨県立博物館の企画展
「生誕500年 武田信玄の生涯」(3月13日~5月10日)
後期展示(4月14日~5月10日)で「不動明王座像」も展示される予定です。
この間、恵林寺をお留守にされますので、どうぞご注意ください。
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