晴れ、ときどき虹。

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命のバトン(その3)

2007-03-09 23:45:24 | 過去日記
時は流れ、10月10日。
破水から始まった私のお産は、分娩台に上がってまでも嘔吐があるという、結局悪阻がひどいまま、妊娠生活も終わりを告げようとしていた。

20時前、息子が生まれた。
亡くなった祖母は「女の子だよ」と言っていたが、生まれたのは男の子だった。

あと、1年、いや10ヶ月早ければ・・・婆ちゃんも、会えたのに・・・。

出産の喜びと同時に、亡き祖母のことを考えた。

退院し、産褥期を実家で過ごす。
祖父宅に行き、息子を連れて、祖母の仏壇にお参りをした。
写真の中の、穏やかな笑顔の祖母は、どう思ったのだろう。


「婆ちゃん、男の子やったよ。私もお母さんになったよ」


祖母がもし今生きていたら、87歳。
最後まで、生まれ故郷の熊本弁で話しをしていた祖母。

なぜか、筑豊弁に混ざって、熊本弁をしゃべる娘は・・・。


命のバトン。


息子が生まれて5年後、娘が生まれた。

その2年後、交通事故で、大好きだった義叔母が亡くなった。
義叔母の葬儀の次の日、娘は2歳になった。

義叔母が亡くなって1年後、義叔母が可愛がっていた飼い犬が、後を追うように死んだ。

時同じくし、義弟夫婦に女の子が生まれた。

その1年後、義妹夫婦にも女の子が生まれた。


消えゆく命もあれば、生まれ育つ新しい命もある。

私も母親になった。
母は祖母になった。

その母が言う。
「りあらが、ゆたかを生んだとき、あの時の婆ちゃんの気持ちがわかったよ」と。

こうやって、命は巡っていく。

死んだ人に恥じないように。
私達は、毎日を精一杯生きていく。

そして、いずれ来るであろう、その日に。
私も誰かに、命のバトンを託したい。



命のバトン(その2)

2007-03-09 23:40:12 | 過去日記
それから数日後、私は地元の産婦人科に行った。
モニターに映し出される、小さな動く鼓動を見ると、何とも言えず複雑な気持ちになる。

飯塚病院に入院していた祖母は、母から私の妊娠の件を聞いており、とても喜んでいたらしい。
お見舞いに行ったら、
「りあらちゃん、女の子が生まれるよ」
そう言っていた。
「○○(祖母の名前)さん、ひ孫さんが秋に生まれるんやね。ちゃんと顔をみれやらなね」
看護師さんも、祖母に声を掛ける。

・・・私が祖母を見た、最後の日になってしまった。


ほどなく、私は、ひどい嘔吐に襲われ、一日中、床に伏せっていた。
そう、悪阻が始まったのだ。
何を食べても、何を飲んでも、身体が全く受け付けない。
みるみるうちに痩せていき、脱水症状を起こした。

一日おきに点滴を打ちに、産婦人科に通った。
自分で運転など出来るはずもなく、母や弟、夫にだいぶ助けてもらった。

そして、3月9日。

朝からまばゆいほどにいい天気。
身体がこんな状態にもかかわらず、私は「今日は日食・・・」とつぶやいていた。
その日食を見ることも出来ず、相変わらず何も食べずに、布団から出られなかった。

父から電話が・・・。

「婆ちゃん、死んだよ」
「うそ・・・・」

しばらくずーっと泣いていた。
気持ち悪いことすら忘れて、ひたすら泣いていた。

何とかして夫に電話を掛けると、夫はすぐに自宅に帰ってきてくれた。

夫は、自分の実家に電話をし、私の祖母が亡くなったことを、義父と義叔母と義妹に伝えていた。


その日の夜、祖母の自宅に電話をし、母と話しをした。
母は涙声だった。
「さっき、Mさん(義叔母)とKさん(義妹)が来てくれたよ。たくさん、鶏飯のおにぎりを持ってきてもらって・・・。立て込んでいたからとてもありがたかったよ。とんさん(夫)に、よろしく言ってね・・・」

ああ、義叔母と義妹、お参りに来てくれたんだ・・・。

通夜と葬儀の日程と場所を聞く。


次の日。

通夜の会場で、たくさんの親戚や老人会や祖母宅の近所の人などに会うが、悪阻がひどくて、結局会場の控え室で寝ていた。

葬儀当日。

義父が参列して下さった。

出棺の前、最後のお別れの時に、初めて祖母の亡骸を見た。
たくさんの花に囲まれた祖母は、安堵した表情だった。
その頬は、氷のように冷たく、もう、亡き人なんだということを、イヤと言うほど感じた。

弟も棺にすがり、母や叔母などの親戚も、みんな涙を流していた。

・・・・長くない。
それはもう、随分前から言われていたし、それなりに覚悟は出来ていた。

でも、いざ、その日が来ると・・・。
「もっと、こうしてやればよかった」
そう、後悔の念に駆られるのだ。

私は祖母に、ひ孫の顔を見せてやらなかったことを、一番悔いた。


火葬場で・・・。
控え室の壁に寄りかかり、ぐったりしている私。
着ていた喪服に、見慣れた茶色い毛がついていた。

「ああ!これ、たろうの毛だ・・・」

1ヶ月前、死んでしまったワンコが、ついてきたのだ。

母と二人で、また泣いた。


それから、数日後、私は40日間の入院生活を送ることになる。

  ・・・続く



命のバトン

2007-03-09 23:34:19 | 過去日記
今日、3月9日は、母方の祖母の命日だ。
亡くなって今年でちょうど10年。

夕食後、娘と実家に。

祖母の仏壇に手を合わせながら、いろんな事を思う・・・。


’97年。
この年は、まさに「命の入れ替わり」の年だった。

1月、父方の祖母が亡くなった。
痴呆症で、長く入院していた父方の祖母は、子供の頃の思い出しかない。
それでも、身近に肉親が亡くなるのは初めての経験で、通夜の席で涙があふれた。

2月11日。
これは、日にちもはっきりと覚えている。

毎月、ほとんど狂うことなく、私は生理が来ていた。
予定の1週間を過ぎても、まだ来ない。
「あ、こりゃ、間違いないな・・・」
思い出したくもないが、確信があったので、妊娠検査役を購入して検査してみた。
・・・見事に陽性。
「ああ、妊娠したんだ・・・。薬も飲んでないし、お酒も飲んでないし、たばこも吸ってないし・・・。今のところ、健康体かな?」
「んー、誰かに電話しよう」
夫と弟(なんで弟なんだろう??)に、電話。

その日の夜。
義妹と弟と私達夫婦で、夕食を食べに行った。
「りあら、おめでとう!」
「今度、産婦人科に行って、ちゃんと検査してもらうから」
とかなんとか盛りあがっていると、母から電話が!

母は泣いていた。

「たろうが・・・たろうが・・・死んじゃった・・・」

明るかった食事中のムードは一転し、静まりかえった。
店を出て、私の実家に(弟は自宅)みんなで向かう。

実家では、ワンコが長年愛用していた毛布の上に横たわっていた。
嗚咽をあげて泣く母と、じっとうつむいたままの父。

「あのね。散歩の途中でね・・。バタンと倒れて、そのまま・・・」
「やっと抱きかかえて、死に水を取ってやった・・・」

母は、必死にワンコの最期を伝えていた。
私も弟もボロボロと泣き出し、ワンコの身体をなでた。

長年犬を飼っている義妹も、涙を浮かべていた。


「あのさ・・・ちょっとこんな時に、なんだけど・・・・」
「どうしたん?」
重い空気を打ち破るように、私が口を開いた。

「あの、私、妊娠したんよ・・・」

両親は驚いて、私を見る。

「そうなん?・・・おめでとう!」
「たろうは、このことが分かっていたのかもしれんね・・・」

私が小学6年生の時に、ワンコがやってきた。
家族はともかく、近所の人も、ワンコをかわいがってくれた。

そのワンコも、14歳になり、今度の誕生日には15歳になるだろうといった時に死んでしまった・・・。

だんだんトイレが間に合わなくなり、ペットシーツを自宅に敷き始めたのが1月。
食も細くなったが、散歩にはいつも行っていた。
その散歩の途中で、こときれた。

りあらに赤ちゃんが生まれたら、お母さんに迷惑が掛かるかも知れない・・・。
ワンコは、そう思ったのだろうか?

ふと「良い知らせ」を確信し、逝ってしまった。

「りあらも、これから身体を大切にせないかんよ」
「たろうのためにもね・・・」
「うん、ありがとう・・・」

そう言って、自宅に戻っていった・・・。


   ・・・続く


成人の日にて

2007-01-08 22:16:21 | 過去日記
成人の日。

私が成人式を迎えたのは、今から16年前だった。
・・・げ!!もうそんな前なのか??

私は、紺の振り袖を着ていった。
きれいな青空で、そこそこ暖かかったと思う。

結婚して、子供がいる同級生もいたが、まだ私は学生だった。

16年前になるのか・・・。

月並みだが、ついこの間のことのようなのに・・・。

新成人が生まれた1986年。
私は、高校1年生だった。
高校1年の時から、もう20年も経っていると言うことが、にわかに信じがたいかもね。

中学が同じだったtaga-mixを始め、たてやかじやYO-NAやこまいぬさん(彼は先輩)と会ったのもこの頃だ。
Yちゃん、Mちゃん、Kちゃん、Fちゃんは、高校2年生の時からだし。
K工房のおやっさんも、1歳下なので、高2からだ。

あの頃と、何も変わってないような感じもするが、自分を取り巻く環境は、この20年で激変した。

高校を卒業して、短大に進学して、臨時採用で勤め始めた。
それから結婚したのが23歳。
26歳の時に、祖母が亡くなった。
27歳で、息子が生まれ、28歳で今の自宅に引っ越し、生協に加入した。
29歳の時に、ホームページを開設(現在閉鎖)。
31歳の時に、娘を出産。

子供達も、それぞれに、幼稚園、小学生と成長していった。

今、36歳。
今年で37歳。

昭和も80年代も、はるか遠くの過去になってしまった。

今からの私は・・・。
昭和よりも長く、平成を生きていく。

20歳の頃は、こんな風に振り返ることよりも、遙か先の自分の長い人生のことを考えていた。
どんな風に生きていくのか、いろいろと考え巡らせた。

今の自分、あの時の自分に、恥ずかしくないかい??

そんなことを思う、成人の日。



昨年の反省、今年の心がけ

2007-01-03 00:38:35 | 過去日記
今更ですが、明けましておめでとうございます。
本年も、ぶちまけ系なんでもありの、日常生活を綴るブログ「晴れ、ときどき虹」をよろしくおねがいします。

昨年は、めちゃくちゃ多忙で、自分で自分の首を絞めるような出来事も、多々あった。
精神的にも、身体的にも辛い日々が、続いたこともあった。


出会いと別れもあった。

3月で、他支部に異動になった支部長。
すごく尊敬していた。
事務所に行ったとき、すごく娘のことをかわいがってくださった。
娘も「支部長、支部長」と、、とても懐いていた。
支部長が異動になると知ったとき、残念という気持ちと寂しいという気持ち、そして、大事なものを失いそうな喪失感で、いっぱいだった。
支部長だけではなく、他の委員さんも卒業した。

ウチの地区でも、たくさんのメンバーが入れ替わった。
みんな新しい場所で、元気に活動しているようで、私はそれがうれしい。

息子の担任も異動。


4月。
新しいメンバーでの常任体制になり、副委員長と常任委員が入れ替わり。
私は地区委員長3年目。

息子もクラス替えがあり、他校から新しく赴任してきた担任に。
娘も幼稚園に入園。
夫は異動はなかったのだが、職員が大幅に入れ替わる。

息子のクラスの学級委員長になり、PTAの役員にも関わることになった2006年。
楽しかったが、相当につらかった。

腰を悪くし(元々良くないみたいで、頻繁に塗り薬を塗っていた)、整骨院に初めて行ったのが5月。
若いが(といっても、私より年上)腕のいい先生に巡り会えた。
そして初めて鍼を打ったのが7月。
まさか、自分が鍼を打つようになるとは、夢にも思わなかった。

秋が死ぬほど忙しいのが分かっていたのに、精神的に苦しんで非常につらかった夏。

それから、恐怖の秋が来て、毎日毎日が目まぐるしく過ぎて行った。
仕事(まぁ生協のことだが)のことと筆頭に、学校や幼稚園のこと、運動会、獅子舞、地域の行事、学級P活動、などなど・・・。
我ながら、よく踏ん張ったなと思う。

そんなとき、夫の職場で大変なことが起き、大々的に報道された。
夫は体調を崩し、帯状疱疹を罹患し、そこから二次感染まで引き起こし、相当大変な状態だった。
・・・夫も大変だったろうが、私も大変だったぞ!

もちろん、いいこともあった。
今年は、ずっと滞っていた日記を、後半はまじめに更新することができた。
シムコミ、宙掲示板は無くなってしまったが、自分が発信できる情報源として、今はこのブログがある。

そして、このブログを通して・・・。
ならやまさん、momomamaさんと、実際にお会いすることができたこと。
私の中で、とても大きな励みになったこと。
この年の中でも、忘れられない大きな出来事になった。

もちろん、ブログを介してでもだが、20年来の友人である昨年末の忘年会のメンバー、そしてブログのことは知らなくともずっと友人である、大連でのメンバー。

そして、近所のみんなに、地区のみんな。

様々な出会いと、たくさんの出来事があった。
嫌なこと、つらいこともたくさんあった。

でも、それが、いつかは私を支えてくれる。

そう思って、今年一年も、頑張って乗り切りたい。


地区委員長4年目になり、今年でいよいよ任期が終了する。(来年3月終了)
PTAの役員も、新しい人が決まり、今年は表だって動かなくてもいい。
もちろん、できる範囲での協力は惜しまない。
やっと軌道に乗ってきたブログも、今年も頑張って更新したい。
たくさんの人、出来事、音楽、絵画に巡り会い、もっと自分を成長させたい。

そして・・・。
子供達が、毎日元気で過ごせるように・・・。
子供にとって「いいお母さん」でありたい。
(今更、いい奥さんにはなれないよ