※記載は14年5月です。自分自身の気持ちの整理と、当時の備忘録的な意味合いをこめて、ブログにします。
やっと祖父のことを書けるようになりました。
便宜上、日付は13年10月にしています。
10月7日早朝、祖父が亡くなった。
お盆前、歯の状態が悪く、口から食べものが摂れなくなり脱水症状になってしまった。
地元の病院に入院して、点滴療養を続けていた。
母から「今年の夏は暑いし、じいちゃん、もう・・・もしかしたら・・・」
今まで大して大きな病気をしなかったので、年齢こそ高いものの、そこまで心配していなかったのだ。
だが、実子である母は、なんとなく感じるものがあったのだろう。
8月下旬から、私は子ども達を連れて、毎週のように祖父を見舞うようにした。
祖父の穏やかな表情はそのままだったが、点滴が痛々しい。
誕生日を迎えることができないかも・・・と心配していたが、9月7日に96歳の誕生日を迎えることが出来た。
その後、9月中旬、母は「最期は住み慣れたホームで迎えさせてやりたい」との強い希望で、そのまま退院した。
病院では死なせたくなかった。
母は、そのことにつよいこだわりを持っていた。
退院してからは、もう点滴もない。
ほとんど食べようとしない祖父は、見舞うたびにやせ細っていった・・・。
それでも祖父は、私たちが来ると「よー来たね」と言ってくれた。
だが、その言葉さえ、だんだんと出ることもなくなった。
見舞ってもずっと目を閉じているような状態で、時折目を開いては、母から水を飲ませてもらっていた。
体温も下がり、温かかったその手は、最後に触った10月5日、びっくりするほど冷たくなっていた。
10月7日早朝、母から電話。
先日、携帯電話をスマフォに機種変更したばかりで、一瞬なにが鳴っているのかわからなかった。
画面を見て、母の名前が。
もうそれですべてを悟ってしまった。
母は泣きながら「じいちゃんが、さっき死んだ」と・・・。
私は「うん」しか言えなかった。
ほかに、どんな言葉を母にかけたらいいのだろう。
ひとまず、夫と子供たちに祖父の件を伝える。
息子は、泣きながら話す私に驚き、表情を曇らせた。
悔しかったのだろう。
夫は義父に電話をかけていた。
3人を送り出し、私も早めに職場に向かう。
忌引きを取るので、事前に自分しかできない仕事を片付けておこうと思ったのだ。
同僚と上司には、先日から祖父の容態の件は伝えていたので、今日も「そうだったんですね・・・」と。
委員会が終わり、職場から葬儀場に向かった。
担当の委員長さんや委員さんから「気をつけてね」と言葉をもらって・・・。
なんとか枕経に間に合った。
祖父は、穏やかな顔をしていた。
元々穏やかな顔立ちだが、なんというか、表情を見てホッとしてしまった。
もちろん亡くなって悲しい。
でも・・・なんというのかな・・・。
夜、息子を連れて、再度葬儀場に。
息子は、通夜には参列するが、葬儀は試験前なので参列はしない。
だまって手を合わせていた。
翌日通夜。
台風が来ている中、娘は運がよかったのかどうか、臨時休校になってしまった。
通夜も葬儀も家族葬で行ったので、実家の両親、弟、おば一家、祖父の弟、私たち一家ぐらいだった。
ただ、10年グループホームに入所していたので、職員さんが時間をずらして全員来てくれた。
「松本さん、松本さん」と、祖父はこのホームの中では、貴重な存在だった。
元々が器用で、専正池坊で華道を学んで、お花の先生をしていたから、ホームの生け花は全部祖父が生けていた。
若かったころは、依頼されて生け花を生けにいったり、週に1度教室を持っていた。
「松本さんがいなくなったら、ここのお花は誰が生けるの?」と、職員は泣いていた。
「今年も生けてもらおうと思って、文化祭に申し込んでいたんですよ・・・」と。
呼吸が止まった祖父を見て、あわてて事務室に駆け込んだ母。
泣きながら看護婦さんと職員がかけつけ、祖父の亡骸の横で母と3人で泣いたそうだ。
祖母が亡くなり、晩年はホームにお世話になったが、穏やかな時間を過ごす事ができたのは、ここのホームのみなさんのおかげだった。
本当にありがたかった。
感謝してもしきれない。
葬儀当日。
台風の影響か、風が強い。
息子は登校し、私と娘と夫は葬儀場へ。
今日は、義父も参列してくれた。
祖父は踊りもしていたので、棺にはそのときの扇子と着物を納めた。
たくさんの花に囲まれて、霊柩車が出発。
火葬場で、祖父の骨を見た時、火葬場の職員が説明してくれた。
「ここが仏様です。仏様が正座しているように見えますよね。きれいに残ってます」と。
・・・・祖母が亡くなった時も、その説明を受けた。
でも、そのときはわからなかったのだ。
頚椎の第二番の骨・・・。
そっか・・・。
小さなお骨になり、祖父が帰ってきた。
実家に祭壇を組み、遺影と位牌、そしてお骨が収められる。
・・・・微笑むその写真は、ホームの職員が撮影したものだった。
「じいちゃんらしい写真やろ?」
母は、この写真を遺影にできたことを、喜んでいた。
96歳で逝った祖父は、お手本のような最期だった。
「人は、あーーっと言って声を上げて生まれて、んーーっと息を引き取るんだよ」
ずいぶん前、そう言った祖父は、大きく吸った息を吐くことなく、まさに息を引き取った。
亡くなった祖父に笑われないような、そんな生き方をしていかなくてはね。
じいちゃん、ありがとう・・・。
※14年5月6日記
やっと祖父のことを書けるようになりました。
便宜上、日付は13年10月にしています。
10月7日早朝、祖父が亡くなった。
お盆前、歯の状態が悪く、口から食べものが摂れなくなり脱水症状になってしまった。
地元の病院に入院して、点滴療養を続けていた。
母から「今年の夏は暑いし、じいちゃん、もう・・・もしかしたら・・・」
今まで大して大きな病気をしなかったので、年齢こそ高いものの、そこまで心配していなかったのだ。
だが、実子である母は、なんとなく感じるものがあったのだろう。
8月下旬から、私は子ども達を連れて、毎週のように祖父を見舞うようにした。
祖父の穏やかな表情はそのままだったが、点滴が痛々しい。
誕生日を迎えることができないかも・・・と心配していたが、9月7日に96歳の誕生日を迎えることが出来た。
その後、9月中旬、母は「最期は住み慣れたホームで迎えさせてやりたい」との強い希望で、そのまま退院した。
病院では死なせたくなかった。
母は、そのことにつよいこだわりを持っていた。
退院してからは、もう点滴もない。
ほとんど食べようとしない祖父は、見舞うたびにやせ細っていった・・・。
それでも祖父は、私たちが来ると「よー来たね」と言ってくれた。
だが、その言葉さえ、だんだんと出ることもなくなった。
見舞ってもずっと目を閉じているような状態で、時折目を開いては、母から水を飲ませてもらっていた。
体温も下がり、温かかったその手は、最後に触った10月5日、びっくりするほど冷たくなっていた。
10月7日早朝、母から電話。
先日、携帯電話をスマフォに機種変更したばかりで、一瞬なにが鳴っているのかわからなかった。
画面を見て、母の名前が。
もうそれですべてを悟ってしまった。
母は泣きながら「じいちゃんが、さっき死んだ」と・・・。
私は「うん」しか言えなかった。
ほかに、どんな言葉を母にかけたらいいのだろう。
ひとまず、夫と子供たちに祖父の件を伝える。
息子は、泣きながら話す私に驚き、表情を曇らせた。
悔しかったのだろう。
夫は義父に電話をかけていた。
3人を送り出し、私も早めに職場に向かう。
忌引きを取るので、事前に自分しかできない仕事を片付けておこうと思ったのだ。
同僚と上司には、先日から祖父の容態の件は伝えていたので、今日も「そうだったんですね・・・」と。
委員会が終わり、職場から葬儀場に向かった。
担当の委員長さんや委員さんから「気をつけてね」と言葉をもらって・・・。
なんとか枕経に間に合った。
祖父は、穏やかな顔をしていた。
元々穏やかな顔立ちだが、なんというか、表情を見てホッとしてしまった。
もちろん亡くなって悲しい。
でも・・・なんというのかな・・・。
夜、息子を連れて、再度葬儀場に。
息子は、通夜には参列するが、葬儀は試験前なので参列はしない。
だまって手を合わせていた。
翌日通夜。
台風が来ている中、娘は運がよかったのかどうか、臨時休校になってしまった。
通夜も葬儀も家族葬で行ったので、実家の両親、弟、おば一家、祖父の弟、私たち一家ぐらいだった。
ただ、10年グループホームに入所していたので、職員さんが時間をずらして全員来てくれた。
「松本さん、松本さん」と、祖父はこのホームの中では、貴重な存在だった。
元々が器用で、専正池坊で華道を学んで、お花の先生をしていたから、ホームの生け花は全部祖父が生けていた。
若かったころは、依頼されて生け花を生けにいったり、週に1度教室を持っていた。
「松本さんがいなくなったら、ここのお花は誰が生けるの?」と、職員は泣いていた。
「今年も生けてもらおうと思って、文化祭に申し込んでいたんですよ・・・」と。
呼吸が止まった祖父を見て、あわてて事務室に駆け込んだ母。
泣きながら看護婦さんと職員がかけつけ、祖父の亡骸の横で母と3人で泣いたそうだ。
祖母が亡くなり、晩年はホームにお世話になったが、穏やかな時間を過ごす事ができたのは、ここのホームのみなさんのおかげだった。
本当にありがたかった。
感謝してもしきれない。
葬儀当日。
台風の影響か、風が強い。
息子は登校し、私と娘と夫は葬儀場へ。
今日は、義父も参列してくれた。
祖父は踊りもしていたので、棺にはそのときの扇子と着物を納めた。
たくさんの花に囲まれて、霊柩車が出発。
火葬場で、祖父の骨を見た時、火葬場の職員が説明してくれた。
「ここが仏様です。仏様が正座しているように見えますよね。きれいに残ってます」と。
・・・・祖母が亡くなった時も、その説明を受けた。
でも、そのときはわからなかったのだ。
頚椎の第二番の骨・・・。
そっか・・・。
小さなお骨になり、祖父が帰ってきた。
実家に祭壇を組み、遺影と位牌、そしてお骨が収められる。
・・・・微笑むその写真は、ホームの職員が撮影したものだった。
「じいちゃんらしい写真やろ?」
母は、この写真を遺影にできたことを、喜んでいた。
96歳で逝った祖父は、お手本のような最期だった。
「人は、あーーっと言って声を上げて生まれて、んーーっと息を引き取るんだよ」
ずいぶん前、そう言った祖父は、大きく吸った息を吐くことなく、まさに息を引き取った。
亡くなった祖父に笑われないような、そんな生き方をしていかなくてはね。
じいちゃん、ありがとう・・・。
※14年5月6日記