晴れ、ときどき虹。

yaplog!から移行しました。

祖父の死

2013-10-09 23:49:32 | 日常生活
※記載は14年5月です。自分自身の気持ちの整理と、当時の備忘録的な意味合いをこめて、ブログにします。
 やっと祖父のことを書けるようになりました。
 便宜上、日付は13年10月にしています。
 




10月7日早朝、祖父が亡くなった。
お盆前、歯の状態が悪く、口から食べものが摂れなくなり脱水症状になってしまった。
地元の病院に入院して、点滴療養を続けていた。

母から「今年の夏は暑いし、じいちゃん、もう・・・もしかしたら・・・」
今まで大して大きな病気をしなかったので、年齢こそ高いものの、そこまで心配していなかったのだ。

だが、実子である母は、なんとなく感じるものがあったのだろう。

8月下旬から、私は子ども達を連れて、毎週のように祖父を見舞うようにした。
祖父の穏やかな表情はそのままだったが、点滴が痛々しい。

誕生日を迎えることができないかも・・・と心配していたが、9月7日に96歳の誕生日を迎えることが出来た。
その後、9月中旬、母は「最期は住み慣れたホームで迎えさせてやりたい」との強い希望で、そのまま退院した。

病院では死なせたくなかった。
母は、そのことにつよいこだわりを持っていた。

退院してからは、もう点滴もない。
ほとんど食べようとしない祖父は、見舞うたびにやせ細っていった・・・。



それでも祖父は、私たちが来ると「よー来たね」と言ってくれた。
だが、その言葉さえ、だんだんと出ることもなくなった。
見舞ってもずっと目を閉じているような状態で、時折目を開いては、母から水を飲ませてもらっていた。

体温も下がり、温かかったその手は、最後に触った10月5日、びっくりするほど冷たくなっていた。


10月7日早朝、母から電話。
先日、携帯電話をスマフォに機種変更したばかりで、一瞬なにが鳴っているのかわからなかった。

画面を見て、母の名前が。
もうそれですべてを悟ってしまった。

母は泣きながら「じいちゃんが、さっき死んだ」と・・・。
私は「うん」しか言えなかった。

ほかに、どんな言葉を母にかけたらいいのだろう。

ひとまず、夫と子供たちに祖父の件を伝える。
息子は、泣きながら話す私に驚き、表情を曇らせた。
悔しかったのだろう。

夫は義父に電話をかけていた。

3人を送り出し、私も早めに職場に向かう。
忌引きを取るので、事前に自分しかできない仕事を片付けておこうと思ったのだ。

同僚と上司には、先日から祖父の容態の件は伝えていたので、今日も「そうだったんですね・・・」と。

委員会が終わり、職場から葬儀場に向かった。
担当の委員長さんや委員さんから「気をつけてね」と言葉をもらって・・・。

なんとか枕経に間に合った。

祖父は、穏やかな顔をしていた。
元々穏やかな顔立ちだが、なんというか、表情を見てホッとしてしまった。
もちろん亡くなって悲しい。
でも・・・なんというのかな・・・。

夜、息子を連れて、再度葬儀場に。
息子は、通夜には参列するが、葬儀は試験前なので参列はしない。

だまって手を合わせていた。

翌日通夜。
台風が来ている中、娘は運がよかったのかどうか、臨時休校になってしまった。
通夜も葬儀も家族葬で行ったので、実家の両親、弟、おば一家、祖父の弟、私たち一家ぐらいだった。

ただ、10年グループホームに入所していたので、職員さんが時間をずらして全員来てくれた。
「松本さん、松本さん」と、祖父はこのホームの中では、貴重な存在だった。
元々が器用で、専正池坊で華道を学んで、お花の先生をしていたから、ホームの生け花は全部祖父が生けていた。
若かったころは、依頼されて生け花を生けにいったり、週に1度教室を持っていた。

「松本さんがいなくなったら、ここのお花は誰が生けるの?」と、職員は泣いていた。
「今年も生けてもらおうと思って、文化祭に申し込んでいたんですよ・・・」と。

呼吸が止まった祖父を見て、あわてて事務室に駆け込んだ母。
泣きながら看護婦さんと職員がかけつけ、祖父の亡骸の横で母と3人で泣いたそうだ。

祖母が亡くなり、晩年はホームにお世話になったが、穏やかな時間を過ごす事ができたのは、ここのホームのみなさんのおかげだった。
本当にありがたかった。
感謝してもしきれない。


葬儀当日。
台風の影響か、風が強い。
息子は登校し、私と娘と夫は葬儀場へ。

今日は、義父も参列してくれた。

祖父は踊りもしていたので、棺にはそのときの扇子と着物を納めた。

たくさんの花に囲まれて、霊柩車が出発。

火葬場で、祖父の骨を見た時、火葬場の職員が説明してくれた。

「ここが仏様です。仏様が正座しているように見えますよね。きれいに残ってます」と。

・・・・祖母が亡くなった時も、その説明を受けた。
でも、そのときはわからなかったのだ。
頚椎の第二番の骨・・・。

そっか・・・。

小さなお骨になり、祖父が帰ってきた。
実家に祭壇を組み、遺影と位牌、そしてお骨が収められる。


・・・・微笑むその写真は、ホームの職員が撮影したものだった。

「じいちゃんらしい写真やろ?」

母は、この写真を遺影にできたことを、喜んでいた。
96歳で逝った祖父は、お手本のような最期だった。

「人は、あーーっと言って声を上げて生まれて、んーーっと息を引き取るんだよ」
ずいぶん前、そう言った祖父は、大きく吸った息を吐くことなく、まさに息を引き取った。

亡くなった祖父に笑われないような、そんな生き方をしていかなくてはね。

じいちゃん、ありがとう・・・。
  
  ※14年5月6日記
 





2013年10月08日のツイート

2013-10-09 00:00:00 | Twitter



  • おはようございます。
    Posted at 07:01 AM




  • 息子送ってきた。
    Posted at 08:32 AM




  • 試験前ということもあるが、学校は通常通り。通夜だろうが、葬儀だろうが、やつは登校。
    Posted at 08:36 AM




  • 台風の中、熊本からお坊さんが来るのだが、大丈夫なのか
    Posted at 12:01 PM




  • 立派な祭壇ができていた。祖父らしい写真が飾られていた。
    Posted at 03:37 PM




  • 帰宅ったー。
    Posted at 09:36 PM




  • 風が強くなる前に帰宅出来て良かった。
    Posted at 09:42 PM




  • 通夜も無事に終わった。
    Posted at 09:42 PM




  • 早く風呂入ろう。
    Posted at 09:55 PM




  • まだまだ明日もある。おやすみなさい。
    Posted at 11:06 PM



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