松ひとり言

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東海道五十三次のゴール地点!三条大橋とその周辺

2014年05月23日 17時50分00秒 | 日記

十返舎一九の「東海道中膝栗毛」はご存知!弥次郎兵衛と喜多八の物語

「栗毛」とは栗色の馬、「膝栗毛」とは自分の膝を馬の代わりに使う徒歩旅行!

江戸を出発して京都のここ三条大橋まで弥次喜多の珍道中が始まる

       

《三条大橋の西南、橋のたもとを少し下がった処に弥次喜多像が》  《立て看板があるが、・・・・・右の画面をクリックして読んでください》

この場所にもう一つ、注目の立て看板があります、橋の西南から二つ目の”ぎぼし”に

刀きずがあり、その傷は池田屋騒動の時に付いたのでは・・・と言われているらしい!

    

《この立て看板が、刀きずの事を説明している》     《大きくしてね~》     《少し黒くなっている所が刀傷なのですが》     《大きくしたらわかる)

この池田屋も石碑となって淋しくたたずんでいるだけ、現在その場所には、居酒屋がありました

    

《幕末の京洛での最大の事件と言っていい池田屋事件の石碑》  《クリックだよ》        《近々に是非行ってみたい海鮮茶屋(池田屋)

さて!資料から、この池田屋が今日に到るまでの経過を辿ってみた、事件後は尊攘派をかくまったとして

主人の池田屋惣兵衛は捕らえられ、獄死しているし、池田屋も七ヶ月の営業停止となり

親類により近くで再開するのだが結局のちに廃業して現存はしていない

元の池田屋は人手に渡り、その後別の経営者が佐々木旅館として営業していた

1960年頃まで当時の建物も少しは残っていたが、テナントビル、パチンコ屋と

めまぐるしく変わり、5年前に居酒屋チェーンが「海鮮茶屋・池田屋 はなの舞」を開業今に到る

「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑は佐々木旅館の縁者ご建立したものとか!

ここまでは、すべてが三条大橋の西詰めになります、いよいよ橋を渡ることに致しましょう

   

《大橋を東へ、”ぎぼし”の向うに京阪三条駅の文字が見えます》    《向うに見える橋が四条大橋です・・次回はこの橋》   《クリックで四条大橋と南座の屋根が》

南側を渡ると、前方にお侍さんが深々と座してお辞儀をしていのが見えます三条大橋と言えば高山彦九郎

    《クリックして見て下さい》 

高山彦九郎は今から267年前に上野の国新田郡細谷村・現在の群馬県太田市に生まれている

13歳で「太平記」を読んだ事がきっかけで、勤皇の志を持ち、18歳のとき遺書を残して家を出て

各地を遊歴して勤皇論を説く、林子平、上杉鷹山、広瀬淡窓、等多くの人達と交友している

この銅像は彦九郎が天皇の居られる御所に向かってお辞儀をしている姿である 

林子平、蒲生君平と共に「寛政の三奇人」と言われている 

多年にわたって日記を残していて、吉田松陰を始めとして幕末の志士たちに多大な影響を与えた

また、二宮尊徳や楠木正成と並んで戦前の終身教育で取り上げられた人物でもある

さて!いよいよ今回の最後は、大橋の東詰めのすぐ北に「駅伝の歴史はここに始まる」の新しい碑があるお話

   

《このような碑が何時出来たかは・・・わかりませんが、京都が駅伝の発祥の地とは》

この碑と同じものが上野公園の不忍池東岸にあるのだそうだが、よく調べてみたら

今から約100年程前の事、大正6年4月27日から29日にかけて行われたのが

「東海道駅伝徒歩競走」と言って、維新から50年目に当たる事を記念して

東京・上野で大博覧会が開かれた、この時読売新聞社が博覧会を盛り上げようと

京都から東京まで継走によるマラソンを企画、京の三条大橋を出発してゴールは

博覧会場のある上野・不忍池である、・・・・・だから同じ碑が三条大橋と不忍池にある

コースの総距離は508キロで23区間に分け、突破記録は41時間44分だったらしい

この大成功が、3年後の箱根駅伝につながっていくとは・・・感激ですね

三条大橋は広重の浮世絵では優雅に描かれているが・・・・・今はその周辺も

情緒も何もありませんが、その歴史は今日まで脈々と続いております・・・・・

京都へお越しの節は・・・・・是非とも三条大橋から四条、五条と歩いて頂きたい

あと!ひと月ちょっとで京では祇園祭が始まります・・・・

どうぞ御揃いで京都へ!・・・お・こ・し・や・す

 

 

 

 

 

 

 

 


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