松ひとり言

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三条大橋から何故か?・・・嵐山の渡月橋に来ました

2014年05月27日 11時33分19秒 | 日記

前回の約束では四条大橋の筈でしたが!周恩来の「雨中嵐山」の詩碑を載せたくて

今日5月28日晴天の嵐山へ観光客の来ない時間にと・・・・・朝の8時過ぎに着きました

渡月橋を渡り、雨中嵐山の詩碑、亀山公園、天竜寺、落柿舎、途中通過した、二尊院

野々宮神社、保津川の少し上流の千鳥が淵の岩のある風景、と約4時間近くカメラ片手に

まずは!渡月橋とその周辺の第一回目は≪亀山公園とその周辺≫です、では渡月橋から

  

《渡月橋の南側、前方の亀の甲羅に似た山(亀山)では橋を渡ります、北に向かって・・渡りきると(大堰川)の文字オオイガワと読みます》 

渡月橋を渡ると、左に回ります、雨中嵐山碑に行くまでに少し寄り道を・・・・・この辺りに高倉天皇から姿を隠した『小督の局』が居りました

  

《振り返ると渡月橋が・・昨年の9月18日には欄干まで水が(今でも信じられません!琴きき橋の案内板があります・・・大きくして読んでね》

ご存知でしょうが・・・小督の局「こごうのつぼね」についてちょっとだけ、お話しましょう

時は平安時代、第80代天皇に即位した時、高倉天皇はわずか十一歳、そこへ平清盛の娘

建礼門院徳子が17歳で輿入れ、まさに政略結婚!その頃高倉天皇は最愛の寵姫を亡くし

悲嘆にくれていた、見かねた中宮徳子が差し出したのが、琴の名手で美人の誉高き!

中納言・藤原成範(しげのり)の娘「小督の局」でした、しかし小督には愛する人が居りました

名前は冷泉隆房、彼には妻がいて、小督は愛人であった、しかもこの妻、清盛の四女だった、

娘二人まで「小督の局」に取られて(心を)しまい、怒り狂った清盛は小督を宮中から追い出す!

小督も清盛の怒りを恐れて、嵯峨野に身を隠します、天皇は嘆き悲しみ,・・・・・秘かに腹心で

笛の名手の源の仲国を噂の嵯峨野路に行かせます、疲れ果てて渡月橋の畔に辿り着き

ひょっとして小督が応えてくれるかも・・・と、得意の笛を吹きだします・・・すると期待通り

見事な≪想夫恋≫の調べが聞こえてくるのでした、一度は宮中に戻りますが再び秘密が漏れ

無理やり出家させられます。話はもう少し続きますが、琴きき橋の説明は是にて・・・小督の墓へ

  

《保津川に沿って亀山公園に向かう途中に小督の局の墓があります、以前はもっと、淋しかったけど、是くらいならまあまあ》 クリックで説明

  

《我が松流の春の会場の(らんざん)の前を通って更に奥へ保津川下りの舟着き場を右に!上の表示「周恩来総理記念詩碑」へ上ります》 

  

《石段を30段程上った処!新緑の茂れる中に堂々とした詩碑が姿を現します・・・下にクリックで大きく見ていただきたくコーナーを設けました》

     

この詩は今から95年前の1919年(大正8年)の4月5日、帰国を前にして

もう一度是非!嵐山に行って見たいと、21歳の留学生【周恩来】は嵐山の

新緑に射す一点の光明に心洗われつつ詠んだのが≪雨中嵐山≫の詩だ

 周恩来京都嵐山にて詠める詩≪雨中嵐山≫~1919・4・5

    雨中二次遊嵐山 両岸蒼松 挟着幾株櫻

   到尽処突見一山高 流出泉水緑如許 繞石照人

   瀟瀟雨 霧濛濃 一線陽光穿雲出 愈見嬌妍

   人間的万象真理 愈求愈模糊

   模糊中偶然見着一点光明 真愈覚嬌妍

    

   雨の中を再び嵐山に遊べば 両岸の蒼き松幾株かの櫻まじえつ

   その尽きる処にわかに見る高き山一つわき出る泉の水は緑にはえ石をめぐりて人をば照らす

   満々たる雨霧朦朧たるに一線の陽光雲をつき出ずればいよいよあでやかなり

   人の間の万象の真理は求むるにいよいよ模糊たり

   模糊たる中に偶然一点の光明を見れば真いよいよあでやかなるを覚ゆ

この訳で12年前に作譜して、雨中嵐山の詩碑の前で吟じた事が懐かしい

その時、周りに中国の観光者が聞いていて、言葉は分からないのに感動してくれた・・・

  

《上の書は平成14年の10月27日に筆ペンで書いたものです》

尚!今回この詩を取り上げたのには、中国に対しての個人的な思いがあるからです

95年前の周恩来は留学生として憧れの日本に来たのである、大きな志を抱いて

祖国の友人からの「帰ってこい!」の手紙で後ろ髪を引かれる思いで帰国の途に着く

1917年9月に天津より船にて日本へ、東京の牛込の家具屋の2階に下宿をして

1919年4月、日本最後の思い出として京都嵐山を訪れ、数日後神戸より帰国

この1年と7ヶ月の日本滞在を私たちは真摯に受け取りたい!・・・しかし!何故

今日の日本に対する底意地の悪い中国になってしまったのか・・・本当に悲しい

李白も阿倍仲麻呂が海に沈んで死んだと聞き、嘆き悲しんで「晁卿衡を哭す」を作詩し、

その李白生誕1300年祭には四川省江油しから丁重な招聘を受けている私松として

今の中国の日本に対しての思想には”李白””周恩来”もほとほとあきれ返り

嘆き悲しんでいる事と思います、どうか李白や周恩来の時代に心を戻して下さい

私は中国が大好きです、歴史的にも日本のお手本的な存在の中国を嫌いにさせないで

これが今回の私の願いなんです・・・・・今でしょう!世界が手を結ぶのは

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 


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