松ひとり言

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京都嵐山・渡月橋とその周辺『第二弾』竹林から天竜寺

2014年05月29日 09時59分57秒 | 日記

周恩来の≪雨中嵐山≫の詩碑に別れを告げて、目指すは【落柿舎】・・・・・

そこまでに竹林の小道を通り、大河内山荘の前を通り、まずは天竜寺へ

 

《何か淋しそうに見えませんか?・・・前回(昨夜ですが・・)中国の事嫌いになりそうと言ったからかな~又来ます!次は左の矢印へGO

角倉了以翁像の方向へ進みます、やはり早く来たのが正解でした・・・

   

《この道の向うに在るらしいのですが、初めて見るので・・これが角倉了以(すみのくらりょうい)の銅像です、業績はクリックで!少し読みずらい》

前々回の三条大橋とその周辺で紹介した高瀬川は、この角倉了以が私財を投げ売って完成させたのです

そう言えばず~と以前に母の知り合いで角倉さんという人がおられた、嵐山の近くに住んでおられて

この角倉了以の子孫であると!母から聞いた事があります、それで私も以前からこの方を身近に感じて居るのかも

さて次に行こうと歩き出したら、隣にもう一つ銅像がありましたのでパチリ

   

《津崎村岡局の銅像とあります・・・・・初めて目にする名前ですので、隣の案内板を読みました!例によって!興味ある方はクリックでどうぞ

津崎村岡局について少し調べてみました、・・・・・見出しには幕末の女性勤王家とあります

地元京都新聞からの切抜きです、・・・・・彼女は1786年に大覚寺宮の家来津崎左京の娘

名前は矩子(のりこ)、12歳で左大臣近衛忠熙に侍女として仕える、後に老女の地位に就き

村岡局と名乗った、近衛忠熙と勤王の志士達の橋渡し役となり、西郷隆盛の相談を受けた事も

しかし安政の大獄により江戸で投獄されているが、その後 北嵯峨にある直指庵(じきしあん)に

隠居して地元住民の教育に尽力して88歳の高齢で亡くなっている、この銅像1928年に

建てられているが、大勢の観光客が散策するが気づく人は少ないらしい

 

《次に大河内山荘を後にして、・・・久し振りなので頂上の展望台に(左側)向かいました・・・・・大河内さん!ちょっと待っててね~》

160メートルとの表示やけど、倍以上に感じたけど頑張って登りきりました

  

    《この坂を登りながら、ふと徳川家康の遺訓を思い出しました・・・・折角やし全文を調べましたのでどうぞ

  人の一生は重き荷を負うて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず

  不自由を 常と思えば 不足なし

  心に望み起こらば 困窮したる時を思い出すべし

  堪忍は無事長久の基

  怒りを敵と思え

  勝つことばかり知りて 負くるを知らざれば 害その身に至る

  己を責めて 人を責むるな

  及ばざるは 過ぎたるに 勝れり

 

      《どうですか・・・頂上の展望は!無理して上がってきた気持ち分かったでしょう》

お待たせ致しました・・・・・いよいよ竹林に向かいましょう

 

 《亀山公園をあとにして!竹林の道・・・奥嵯峨めぐりの中でも最も人気のある場所に入って来ました、左の道を少し行くと大河内山荘の入口》

  

《五十代までの人には、大河内傳次郎と言っても『誰やね!』と言う言葉が返ってくるだけやけど銀幕の大スターやった人の屋敷です》

    

《便利な世の中に相成りました~ネットですぐに出て来ます、大河内傳次郎の在りし日のスチール写真です、最初のが当たり役の丹下左膳》

大河内山荘について調べてみましたので・・・・・ 大河内傳次郎が34歳にとき小倉山に

別荘として造営したのが回遊式庭園の大河内山荘で、何と映画出演料の大半を使い

64歳で亡くなるまでの30年の歳月をかけて、こつこつと作り上げたのだそうである。

約2万平方メートルの当時荒地であった土地を見事な庭園にし、国の文化財にも指定されている

ごめんなさい中には入ってないので・・・これまたネットからその一部を 

   

 《30年ぐらい前に入った事があるのですが、全く覚えておりません、入山料は千円ですがお抹茶と絵葉書が付いているので、高くないとか》

今回はココまでに致します・・・・・次回は天竜寺と落柿舎を予定しています・・・・・

それでは!竹林を眺めて頂きながらのお別れです・・・・・

  

 

  

この竹林の小道の終わりぐらいに天竜寺の裏門からの入り口があります・・・・・では次回まで

 

 

 

 

 

 

 


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