松ひとり言

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天竜寺から落柿舎へ新緑の奥嵯峨めぐり・・・第3弾

2014年05月30日 12時28分24秒 | 日記

  

《竹林を漸く抜けかけた所に天竜寺の裏門?(門はなかった!)の入り口があります、庭園参拝料500円が要りまっせ  いざ入園》

 

《天竜寺は建物の中の見学と庭園の見学と料金は別々で各々”500円なり”で御座いますのでお気を付け下さいませ!入園券とパンフレットです

では・・・お待たせ致しました天竜寺の庭園をお楽しみ下さいませ!

  

 《まずは!こいさんのラブコールから?フランク永井か!」・・・すんまへん お古い話で!この広い池に鯉がいっぱい泳いでました》

    

《残念ながら私の力不足と、カメラの力不足でこの広い庭園全体が写せませんゴメンナサイ・・・・以後ぶつ切りでしか・・この廊下の右が庭園》

  

    《二つ前の廊下が左の建物です・・・・・池の向こうの建物の前から写したのが・・・・上の写真です》

  

               《上の建物から前方の【曹源池】と名付けられた池を部分、部分で写しました》

     

ここでちょっと!天龍寺の歴史を調べてみましたので≪最初のパンフレットを大きくしてね≫

なんと 後醍醐天皇の菩提を弔う為に造ったお寺なんですって!詩吟の世界では芳野と

後醍醐天皇を避けては通れませんし、この話をすると大変長くなります楠正成と太平記!

いやいや詳しくは又に致します・・・・・幕末の王政復古の500年以上前にこの後醍醐天皇が

王政を企てるが失敗して、隠岐の島へ、正成の活躍で脱出して・・結局三種の神器(天皇の象徴)

も持ち出て芳野へ逃れて、朝廷が京都と芳野とに分かれる・・・世に言う南北朝時代が50数年続くのだが

後醍醐天皇は芳野へ逃れわずか2年で亡くなる、・・・・・その菩提を弔う為に足利尊氏が

夢窓国師を開山として建立したとありますが、しかし不思議に思う事は尊氏と後醍醐とは云わば

北と南に分かれた者同士でっせ、そんな後醍醐天皇を弔って尊氏がこんなでっかい寺を建立?

私のような素人には訳分かりませんわ!まあ兎に角1994年には世界遺産に登録されてます

天龍寺にもう一つ、珍しい物がありました、とんでもないぐらい大きな”硯”ですね・・・ではどうぞ

  

《硯の傍に”紫蘭”が可憐な紫の花を咲かせていました・・・これが硯なんですが、説明をよく読んで、なぜ天龍寺にこの様な物が在るのかを!

では次の予定地に足をはこぶ事と致しましょう、五月晴れの嵯峨野路を落柿舎に向けて

  

《まだまだ!竹林が続く中を目的地へ向かって歩いていると・・・トロッコ列車の嵐山駅の前に出てきました、年間100万人って凄い

  《途中に御髪神社の案内板がありましたけど、先を急ぎますのでそれにしてもエエ天気ですわ・・・あれれ・・・瓢箪がいっぱい吊ってある

  

《麦畑?の向うに3・4人の人が(実は修学旅行の学生たちでした)居るところに≪落柿舎≫があります、溝の蓋にはもみじの細工が

   

      

 ≪落柿舎≫の写真を見ていただきながら、今回は此処まででお座りまする

向井去来と芭蕉についての詳しい事は明日の土曜日に載せて日曜日にゆっくり見てもらいます

次回は渡月橋とその周辺の最終回のつもりです・・・

 

 

 

 

 


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