《落柿舎の全景は木々に隠れて無理、これネットから・入り口を入ると(初めて中へ入ります)・門を潜ると料金所!でも200円でした・・ラッキー》
《落柿舎の入場券とパンフレット(クリックで大きくね)です・・・なかなか雰囲気のあるデザインですね~》
~今回右手にカメラ、左手に1000円~で家を出たので、
あと300円しかありません(天龍寺500円・ここ落柿舎が200円)
落柿舎と違って落伍者やがな~(言ってる場合か)
さてここで・・・落柿舎に関する去来と芭蕉の簡単な年譜をどうぞ!
寛永21年(1644) 松尾芭蕉、伊賀上野に生まれる
慶安 4年(1651) 向井去来、長崎に生まれる
萬冶 元年(1658) 向井家、京都に移り住む
貞亨 2年(1685) 去来、この頃嵯峨野に別宅を構える
元禄 2年(1689) 芭蕉、≪奥の細道≫の旅に出る。
去来、秋頃からこの庵を「落柿舎」と称す
12月24日芭蕉は去来と落柿舎で鉢叩きを聞く
元禄 4年(1691) 芭蕉、4月18日から5月4日まで再度”落柿舎”に滞在
『嵯峨日記』を草稿する
元禄 7年(1694) 芭蕉、閏5月22日”落柿舎”を訪れる。
「落柿舎制札」はこの頃に書かれた。
《1694年と言う年は去来の落柿舎にとっても、師匠の芭蕉にとっても忘れられない年なんですね、が「落柿舎制札」です
芭蕉、9月郷里を出立し大阪へ向かう・・・9月10日容態悪化
10月12日午後、病死・・・享年51歳、14日大津膳所の義仲寺境内に埋葬
元禄12年(1699) 去来、3月『旅寝論』を書き終える
元禄15年(1702) 春頃、芭蕉俳諧の真髄を伝える『去来抄』の草稿に着手
宝永 元年(1704) 去来、9月10日朝、聖護院近くの寓居にて病没・・・享年54歳
真如堂にて葬儀、同寺内の向井家墓地に葬られる。
改めて二人の年譜を見てみると、共通のキーワードは9月10日と言う事になる
年代的には全く違うのだけど、詩吟を志している者からしたら、何の躊躇もなく
菅原道真の「九月十日」の詩が浮かんでくる、800年も以前の大宰府での事ですが
もう少し、”落柿舎”の写真を見て頂こう・・・・・玄関を入って、裏に「次庵」がある
《玄関入った「落柿舎制札」やその奥に「落柿舎」の文字のある本庵(右が玄関)・・・その裏にあるのが、「次庵」(句会席)とある、》
《いずれも、門を入って正面にある、”本庵”である、蓑笠が印象的で、ふと!太田道潅が蓑を借りに農家の戸を叩く音が聞こえたような》
そしてこの一角の裏の道を挟んだ所に”去来”の遺髪を収めたと言う墓があります
《ここに!”去来”が眠っているのです・・・・・私も今まで落柿舎について何んにも知りませんでした、ブログのおかげで知ることが出来感謝です》
《奥嵯峨めぐりのコースに入っている、二尊院です・・・名所には人力車が必ず並んでいます・・・嵯峨野路には人力車がよく似合う》
《新撰組と舞妓さんが記念写真に収まって居ました、・・・野宮神社の前を通り過ぎて少し行くと、天龍寺の正面に出てきました》
そして渡月橋のバス停から帰ろうと!バスの時刻表を見たら20分待ち!同じ待つなら・・・・
保津峡の奥へまだ行ったことないので・・・行って来ようと、立ち上がり・・ベンベン(大層な~)
《渡月橋を南へ渡るとバス停があります、小橋を渡りこの川の上流へ、いざ出発~少し行くと岩田山のモンキーパークの入り口があります》
《京都一の絶景の立て看板、千光寺・・て、尾道に有名なのが・・川の向かい側の景色・・最初に行った「雨中嵐山」の詩碑は修学旅行生の上に》
《少しづつ景色が変わり、岩が出てきました・・・この向うに渡月橋がある・・・更に進むとこんな岩場が出てきて・・岩場に座り込む》
《岩場から舟に乗って向う岸に渡る人達、この上流の亀岡からの川下りの舟、そしてあの看板の絶景ポイントはこの上、でも400円(100円不足)
《重い足取りで元のバス停へ、渡月橋が見えてきた!昨年の9月に水浸しになった「花筏」さん店が少し低く・・バスが来ました・・お疲れさま~》
4回に亘りお付き合い下さり、有難う御座いました・・・今度は是非嵯峨野へいらっして
ご自分の心眼でご鑑賞下さいますよう・・・・・お待ち致しております
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます