《細川頼之》 【海南行】の詩
人生五十功無きを愧ず
花木春過ぎて夏己に中ばなり
満室の蒼蠅掃えども去り難し
起って禅榻を尋ねて清風に臥せん
室町幕府の第三代将軍に足利義満が就いたのは、わずか10歳の時であった
身体の弱かった二代将軍足利義詮は、譲ったものの10歳の義満が心配であり
そこで後見として管領に任命したのが細川頼之である、その時頼之39歳
細川頼之の文献を調べていると次のような、父の心ずかいが示された文があった
死期の迫っているのを自覚した二代将軍義詮は息子義満と頼之を呼びます
そして、義満を指して細川頼之に「われ今汝のために一子を与えん」と
次に頼之を指して義満に「汝のために一父を与えん、その教えにたがうなかれ」
足利義満がその後立派に成長して、足利15代将軍の中で最も実力があり
名将軍の誉れも高く、金閣寺を建てたことでも有名な義満を育て上げた細川頼之、
そこには、二代将軍義詮の「われ今汝の・・・・」に誓い、身を賭したからであろう
しかし時代は進み、周囲から頼之の長期管領職をねたみ、失脚させんとする輩どもが、
義満が23歳の時、すなわち頼之が管領職に就いて13年後、【海南行】の転句
~満室の蒼蠅掃えども去り難し~の事態になり、義満も抑え切れなくなり・・・・
結句の~起って禅榻を尋ねて清風に臥せん~と讃岐へ引き上げるのである
将に海の南へと旅立つ・・・・・【海南行】なのである。
タイトルに”人生五十とは”の事を少し話しておくと、この人生五十の言葉
有名なのは織田信長が舞いながら謡う「人間五十、下天の内を比ぶれば、
夢まぼろしのごとくなり」がある、人生でなく人間ではあるが、人生五十である
さて、人生五十という言葉、何時ごろから使われているか調べた人がいる
もちろん、このような言葉はお隣の中国だろうと調べてみると、頼之より
前にはなかった、当然わが国にも、それ以前には見つからない
だから・・・”人生五十”はこの【海南行】から生まれた事になると言うお話!
次の写真は細川頼之が管領職にあった時に再興した≪地蔵院≫昨年の秋に撮る
《地蔵院の正面》 《可愛らしい本堂》 《奥に庭と展示室》
《竹が多く竹の寺とも言われている、今年もこのような紅葉が見られるかな!》
自然石で出来ている頼之の墓が本堂の左奥にあった
《頼之の墓所の掲示板》 《細川頼之の自然石の墓》
【吟道松流の譜面です・・・・・吟じてみて下さい】
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