幸福の科学高知 なかまのぶろぐ

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マスコミが伝えない、オウム真理教を追い詰めた幸福の科学。「宗教のことは、宗教が解決しなければ、宗教そのものが危機になる」

2018-07-07 00:30:42 | マスコミが伝えない情報

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2018年7月6日、麻原彰晃(本名松本智津夫)死刑囚ら、オウム真理教事件関係者7人の死刑執行が行われました。

もうあれから23年。感慨深いものです。

なぜならあのとき、私たち幸福の科学の信者は、オウム真理教を追い詰めるのに、奔走していたのですから。 

 

私は証言します。

幸福の科学は、テロ集団オウム真理教を葬る仕事をしました。

私が生き証人です。

チラシを市中で配り、署名も集めました。

その後、不幸な地下鉄サリン事件が起こり、オウムは強制捜査で一網打尽となったのです。

それは大川隆法総裁による決断でした。

大川隆法総裁曰く。

「宗教のことは、宗教が解決しなければ、宗教そのものが危機になる」 からです。

しかしオウムを葬ることで、日本の平和は保たれましたが、マスコミらは、「宗教」というくくりでの、宗教への偏見を煽る報道を続けたことは残念です。

その後、私たちも、オウムと混同されて、ドえらい迷惑を受け、布教に随分と差しつかえました。

「宗教とテロの区別もつかんのか!」と、正直、当時の私はマスコミに怒っておりました。

嘘をついてごめんなさい。今でも少し怒っています。

宗教とは、神仏の理想や願いを、この地上で実現しようとします。

それが宗教です。

神仏の願いは、人々の幸福です。

なぜならば、神仏は人間にとって、魂の親だからです。

この宇宙のどこに、我が子(人間)を犠牲にして、自らの欲望を実現しようとする親(神)がおりましょうか!

宗教とテロの区別がつかないということは、神と悪魔の区別がついていないということです。

これが現代的知性でしょうか?現代は果たして、進化しているのでしょうか?

退化しているのかも・・・ですよ。

そう、「宗教なんて信じてはいけない」という信仰こそ、もっとも危険な信仰だからです。

それは、共産主義・社会主義(無神論)を是とする中華人民共和国や北朝鮮や、かつてのソビエト連邦などで、数億の人民が、為政者の都合だけで粛清されている歴史的事実が証明しております。

「宗教なんて、戒律やなんやかんやで、不自由じゃないか!」 こういう風潮は間違っております。

神は、人間の自由の庇護者でもあります。

「神からの自由」を、長年叫び続けている存在こそ、悪魔なんです。

しかしその声にだまされ、神からの自由がなれば、悪魔に屈することになるのは明白です。

それを認めなければ、中国や北朝鮮人民らの非人間的な不幸な人生という、歴史的教訓を無駄にすることを意味すると考えます。 

その事実を認めることこそ、現代的知性というものではないでしょうか。

感謝

残念ながら、オウム事件を境に、それ以前よりも、日本人の宗教に対する偏見は強くなりました。

しかしオウム事件のような、宗教を語ったテロ集団の二の舞を防ぐためには、宗教離れを促進することではなないと思います。

なぜならば、オウム事件を起こしたオウム真理教は、当時の日本人に宗教とテロの区別がつくならば、事前に防ぎえたからです。

ですから再発防止には、多くの日本人が、きちんとした宗教的素養と教養を身につけ、社会教育として、「神仏の心とは何か」や「人が神の子として為すべきことは何か」などが、当たり前に議論される、文明社会を構築していく努力こそが必要なのだと私は思います。

本日は経典『沈黙の仏陀』(幸福の科学出版)より、「これぞ仏教」「これぞ無我思想」という一節をご紹介ありがとうございます。

        (ばく)

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オウム事件20年~いま、明かされる地下鉄サリン事件解決の真実~

「決断と実行の勇気」幸福の科学大川隆法総裁御法話抜粋

 https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=178

あなたが、あなた自身だと思っているものは、実は皮袋にしかすぎないのです。皮袋なのです。それをあなたは、あなただと思っているのです。

永遠に尽きることのない、永久の、悠久の大河である神仏のエネルギー、そのなかに生きているものがあなた自身です。

その悠久の大河に、羊の皮袋でもって水をすくい、それをくるんだものを、あなたは自己だと思っている。この皮袋のなかに入った水たまりが自分だと思っている。しかし、それはほんとうのあなたではない。それは皮袋の感覚にしかすぎない。

眼・耳・鼻・舌・身・意というものを否定した、真実の自己というものを見つめなさい。まず、その眼の感覚によって見えるもの、それがほんとうの姿であるかどうかを、もう一度、深く深く考えてみなさい。

たとえば、夏の虫で蛾(が)というものがあります。この蛾は、光を見れば飛んでいきます。それが熱を持っていない灯(あかり)なのか、それとも自分の身を焦がすような炎なのか、その区別さえつきません。彼らは、灯を見ては飛んでいきます。

それが小さな生き物だから、そのように見ることができますが、人間もまた、そのようなものだということを知らなくてはならないのです。あなた方も実は、その灯を求めて飛んでいく蛾のような、愚かな生き方をしているのです。

なぜそうなるのか──。そう、無明(むみょう)だからです。

自分自身が灯のない状態だからです。そして、灯と思うものを求めて飛んでいくのだけれども、それが実は、真実の灯ではなく、身を焦がす蝋燭(ろうそく)の炎であることがよくあるのです。

蛾においては、それは眼の錯覚ですが、人間においても同じことがあります。

眼を通しての錯覚、鼻を通しての錯覚、耳を通しての錯覚もあります。あるいは舌を通しての錯覚、指先、手を通してなどの肉体の感覚、こうしたものの錯覚が、ほんとうはあるのです。それによって、善悪美醜というものを感じとっているのです。

しかし、それらの感覚は、ほんとうは魂から見た善悪美醜とは違ったものに価値を感じていることがあることを、あなた方は知らなければなりません。

肉体を持ってこの世の生活をしていても、そのなかに霊的なる意味合いのあることも、もちろん数多くあります。

それを見抜いていくことこそ、ほんとうの智慧ですが、そうではなく、この世的な価値観に付属した、肉体感覚的な自己像や他人像に狂わされると、蛾のように身を滅ぼしていくことになるということを、繰り返し繰り返し、私はお話ししているのです。
『沈黙の仏陀』(幸福の科学出版)P31~33

 

【睡眠用・瞑想用BGM】水澤有一 RIVER OF MERCY (許しの川)

 


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