『一試合3ラウンド、試合は4回戦・・・4回戦で優勝』と囁きながら直也は自らのプレッシャーに立ち向かっていた。いや、プレッシャー以外にもあったのではないだろうか?直也の純粋な心の中にある『思い』というよりも『世の中への怒り』か『刹那に切ない願い』を抱いていたのかもしれない。しかし『世の中への怒り』が強く抱く直也は『刹那に切ない願い』は心の中に閉じ込め封印していたのかもしれない。試合会場ではサポーター達や観客達の声は大きく響いていた。
『ジャブ、ジャブ、イケーイケー、今だー・・・』
『ジャブだ、ジャブだ、ジャブだ、イケーイケー、今だー・・・あ~』
リング上の試合を見る事もなく応援団サポーター達の声は直也の耳に届く声はなくなっていった。試合は進んでいく中、直也の心の中に映し出されていたものは中学に入ってから幼き頃の過去の出来事だった。直也にとって初出場のプレッシャーだけでなく『怒り』の感情に打ち勝つには過去を思い出す事以外にはなかったのだろう。そして『悲しみ』『苦しみ』『刹那に切ない願い』の感情も含め自分の『心の荒波』と向き合っていたのだ。試合前に出かけた場所では・・・。
直也が遮断機ない踏み切りの前に立ちドリームキャッチャーを握る姿を見ていた『あのヤツ』がいた。直也は、まるで幻覚を見ているかのようだったが一時の幻であった。『直兄ちゃんを守ってね』と『ヤツ』には、久美子の言葉が忘れる事はなかったのだろう。そして『ヤツ』は試合会場の公民館の体育館の壁に寄りかかりボクシングの試合をずっと見つめていた。唯一、一般の観客で直也を見て静かに声を出す事もなく応援していた1人だった。一組目終了、二組目終了、三組目終了、四組目終了・・・優勝候補者の2人は確実に勝ち進んでいた。そして八組目の紹介が始まり直也はフードコートを脱ぎジム関係者に見送られコーチが上がりやすくロープ間を広げ直也はリングに上がった。直也がリングに上がると一瞬周囲は静まり返り、しばらくすると相手選手の名前だけが飛び交った。大島直也の噂は市町村では知られていたが顔や姿を知る者は少なかった。
由子は他の応援団に負けまいと『直也!直也!直也!』と大声を出していた。
会長やコーチやジムの訓練生達も『大島!大島直也!直也!』と大声を出していた。
その大声は徐々に広がり応援団サポーター達の声援は徐々に静かになり小さな声で呟き声があった。
『えっ?大島直也って・・・』
『あの噂の直也って・・・』
『あれが大島直也のか?マジかよ!』
『本当なの?冗談でしょ、想像してたのと全く違うよ』
由子達が大きな声で叫んでいた事で応援団サポーター達や観客達は直也を見つめながら、口を開け驚いた様子だった。市町村の住人では『噂』になっている直也がリング上に立っている事が不思議だったに違いない。水泳大会で優勝に導き不良とは呼ばれていないが喧嘩っ速くも仲間達から慕われる存在というのが直也の噂だった。
それどころかリング上に立つ直也の身長の高さや筋肉のつき方は他の選手とは違う。顔は中学生、体つきは中学生には見えなかったのだろう。
直也は紹介されるとリング下の周囲を見回していた。まるで『俺が、大島直也だ!』と言わんばかりに笑う事なく冷静な目つきで応援団サポーター達や観客達を黙らせていた。試合開始のゴングまでリング下にいる由子を見つめる直也。由子も直也を見つめていると直也は優しい目つきで由子に何かを伝えているかのようだった。由子は『タオルは投げるな、必ず優勝する』と、そんな事を言われたような気がしていた。
『直也は絶対に勝つよね!』と由子は笑顔を見せながら心の中で直也に声をかける。直也は由子の心の声を聴いたかのように由子だけに笑顔を見せた。直也が笑顔を見せた時『カーン!』とゴングが鳴った。
1回戦目、直也は動かず、相手の姿をじっと見つめたまま、パンチを出そうとはしなかった。
『直也!行けー動け!動け!動け!何してる!』と、リングサイドからの声があった。
『ジャブ、ジャブ、ジャブだ!・・・』と言っても直也は相手を見つめ何を考えているのか誰も分からない。
『直也!行けー動けー!動けー!』
会長やコーチは、そのまま動かなければ、身長差があるとはいえ、直也の懐へ入られたら相手の思うつぼになると思っていた。
観客達も大声で応援するのではなく、ざわめきだした、何が起きようとしてるのか誰もわからない。
しかし、相手はパンチを出そうとするが、直也にリーチの差で軽いフットワークでパンチは当たらない。
1ラウンド2分が過ぎた頃、相手は直也の懐へ入り、ボディーを狙ってくる。
しかし、直也へのボディーは、直也の必死の策であった。
相手のボディーを直也は後ろに身を引き、ダメージ最小限に抑えていた。
懐へ入れば、相手はボディーを狙うしかない、これが緊張の中、直也の出した答えだった。
その後すぐに直也は、軽い右フックから左の『ジャブ、ジャブ、ジャブ』の連打から右ストレート。
相手の選手は、リングの中央あたりからロープまで飛ばされ、ダウン!ダウン、そしてカウントナイン。
前回3位の選手は、よろけながらも立ち上がろうとするが、立ち上がる事はできなかった。
試合を見る誰もが自分の目を疑ったであろう。
『マジかよ!』『信じられない』と応援団達サポーター達や観客達の殆どの人が思った事だろう。
直也は冷静に相手がどう動くのかを冷静に見極めていた。
直也はプレッシャーを乗り越えていたのだ。
冷静な直也は、『ヤスシ』とのスパーリングで心理的な作戦をも考えていたのだ。
『え?マジで!1ラウンドで?・・・KOだなんて』
ボクシングを始めて、たった3カ月の直也は、1ラウンド2分30秒で、前回3位の選手からノックアウトKO勝ちをした。
ジムの会長やコーチ、共にジムに通う訓練生達は、直也の運動能力を知った時だった。
サポーターと観客達は、無言で静まり返り、直也はリングから静かに降りて行く。
リングを降りると、由子の前に立ち『勝ったよ』と息切れしながら小さな声で囁き、30分の休憩で控室へ戻っていく。
次は2回戦目、優勝候補者、前回2位の選手である。
控室に戻る時、一瞬だが集中力に欠け疲れかけた直也は『あのヤツ』を見かけたような気がした。
『ヤツ』の姿は幻か?私服でいる『アイツ』じゃないはず・・・。
(幼なじみであり竹馬の友と言ってもいいだろう)
この幻は、幼なじみとの過去を思い出すと直也に何故か『勇気』や『安心感』を与えていた。
『ジャブ、ジャブ、ボディー、ボディー・・・』
試合を振り返りながら控室に戻ると、直也はため息をつき呟き、椅子に座ると由子だけに『怖かったよ』と直也は本音で声をかけた。
控室で休む直也は、由子が今までに見てきた直也ではなくなっていた。
会長やコーチ、ジム関係者は直也に声をかける事はなかった。
直也は『自分というものを見つけ始めたのではないだろうか?』
コーチは会長に話しかけると、会長は直也の前に座り、両手で直也の頬に触れ声をかけた。
『自分を見つけ始めたのなら、自分を信じてみる事も大切な事だ、勝つも負けるも直也!お前しだいだ』
会長は直也に静かな声で言葉をかけると、直也は会長の眼を見つめ笑みを浮かべていた。
自分を信じる事、そう直也が探し求めていたもの、『怒り』や『憎しみ』に囚われていた直也の心の中にある、ぽっかり空いた隙間を埋めていく。
1回戦を勝ち抜いたものは8人の選手、控室は一号室だけになると、フードをかぶりながら直也は控室にいる他の7人の様子を見つめ、相手の体調や自分の体調の状況を冷静に伺い始めていた。
相手を見る直也は、この時『優勝』という言葉が、はっきりとした『本当の決意』となり、直也の心の中に芽生えていた。
1回戦を勝ち抜き、中途半端な決意であった事を直也は気づいていく。
この気づきが直也を変える。
試合を振り返る直也、誰よりも大きな声を出して応援してくれるのは、由子だけである事を知った。
しかし、リングサイドで『ジャブ、ジャブ、ジャブ・・・』とセコンドの会長やコーチの言葉があった事を思い出す。
『俺は一人じゃない、孤独でもない、応援してくれる人はいるんだ』
応援をしてくれる人が1人でもいるのなら、その期待に応えたいと直也は思えるようになる。
『次の相手は、アイツか・・・』と、直也は静かに呟く。
次の試合相手の動きやその周囲にいるセコンド達や応援団サポーター達を見ながら、自ら勝つ為の策を練るようになる。
会長やコーチは、全てを直也に託していた為、何も言わずマッサージを施すだけであった。
1回戦と同じように、しかし1回戦の時は畏怖しながらの策で余裕がなかった。
控室の中、相手の動きを見つめる中で、策を練る事で直也には余裕ができていた。
『そろそろ行くか、直也』と、コーチが直也に声をかけると『はい』と、直也は素直な言葉で余裕のある返事をして控室から試合会場のリングへ向かった。
『どうしたんだろう、直也が違って見えるのはなぜ?』と、直也の後ろについて歩いている時、由子は思った。
試合会場内に入ると観客の熱気に包まれたが、直也は冷静でプレッシャーを感じる事はなかった。
いよいよ2回戦目、次の相手は前回3位の選手、対戦は四組目である。
身長差12センチ、直也よりも背が低く、フットワークに優れている選手で、直也と同じファイティングタイプの選手である。
直也は、いかに次の対戦を勝ち抜くかを考えていた。
『僕は独りじゃないんだ!ヨッシャー』と、直也は静かに心の中で気合を入れた。
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