黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

軍艦島の建築的装飾 #04

2021-08-07 17:39:38 | 軍艦島(端島)
ほとんど建築的な装飾がみあたらない軍艦島の建物の中で、
かろうじて散見する時代を伝える建築装飾を、
シリーズでお送りしています。



前回までお送りしたのは、
炭鉱アパートに残る建築的な装飾でしたが、
今回は炭鉱施設に残る装飾です。



画像は観光上陸の際に、第二見学所の目の前に見える、
1943(昭和18)年築の総合事務所。
手前の煉瓦塀がじゃまになって少し見えづらいですが、
煉瓦塀のおもに左奥に見える、白っぽい壁面の建物が総合事務所です。
その柱の上部をよく見てみると、



前回アップしたのと同様、
柱に長方形の切れ込みを施したフルーティングが見て取れます。
日給社宅の大廊下階段ほどはっきりしていませんが、
それでも明らかに彫り込みの装飾を施した跡が、
昭和初期のモダンデザインを今に伝えています。

またこの総合事務所には、
もう1箇所、昭和モダンなデザインが残っています。



赤い煉瓦塀の左横に見える総合事務所の階段をみると、
半球の形をした三つのレリーフが見て取れますが、
これもまた昭和モダンを象徴する建築的な装飾の一つ。

きわめてシンプルな装飾ですが、
シンプルで簡略化されているからこそ、
この時代、ちょっとした装飾を施すのが、
習慣のようになっていたことの現れだと思います。



なお鉱業所には、総合事務所以外にも戦前の建物がいくつかあり、
最も古いのが、この記事の当初から触れている赤い煉瓦塀の建物です。



明治29年に第三竪坑の巻き上げ機室として建造された建物の内壁で、
オール煉瓦によるアーチ窓が、
明治時代の建築装飾を今に伝えています。
なお、この建物は島内に残る数少ない明治時代の建造物なので、
目に見える世界遺産の対象物件でもあります。





また見学コースからは見えにくいですが、
小中学校の近くにある第四竪坑の巻き上げ機室も大正14年の築で、
こちらは一部を煉瓦貼りにした鉄筋コンクリート造。
ほんの少し、装飾的なアプローチが見られます。



しかし、昭和11年築の仕上工場や昭和13年築の補助扇風機室、
そして昭和15年築の資材倉庫など、
ほかにいくつか残る戦前の建物には、
ほとんど建築的な装飾は見当たりません。

また、それ以外の建物は戦後のもので、
住宅棟と同様、装飾的な要素をみつけることはできませんでした。

そういう意味で、総合事務所に残る昭和モダンな建築的装飾は、
とても貴重な遺産といえるでしょう。

軍艦島の建築的装飾 #03

2021-08-02 16:18:27 | 軍艦島(端島)
ほとんど建築的な装飾がみあたらない軍艦島の建物の中で、
かろうじて散見する時代を伝える建築装飾を、
シリーズでお送りしようと思います。



シリーズの1と2でお送りしたスクラッチ・タイルほどではありませんが、
他の建物にも建築的な装飾を見つけることができます。



画像は日給社宅とよばれる、
1918(大正7)年に最初の工事が完成した集合住宅。
国内初の鉄筋集合住宅「30号棟」の成功を受けて、
その2年後に建設された、より規模の大きな集合住宅で、
最終的には細長い5棟の建物を、
海側の廊下でつないだ、櫛形をした建物です。

9階建は当時国内最高層の鉄筋コンクリート造ビルで、
島民からは「9階建」の愛称で呼ばれていました。

大正時代に完成した居住棟は、
30号棟と同様、特に建築的な装飾はありません。
日給社宅の装飾は5棟をつなぐ大廊下棟の階段に見ることができます。



これが日給社宅大廊下棟の外階段。
当初大廊下棟は抜けがいい開放的な造りでしたが、
各棟の岩礁寄りに施行されていた共同便所が不衛生だったため、
1937(昭和12)年に、大廊下棟に移動します。
この時に、外階段も造り直されたと思われます。







日給社宅外階段の真横からの光景。
親柱にあたる四角いコンクリートの柱に、
細長いくぼみが施されているのがみてとれます。
これはフルーティングという建築技表で、
柱感をより強調するために、古代より行われてきた基本的な装飾ですが、
20世紀の初頭に、そのエッセンスだけが残ったものといえるでしょう。







同時代のフルーティングを2例、アップしておきます。
左は、大正末から昭和初期に竣工した東京の跨線橋「駒込橋」の親柱。
右は、昭和7年に竣工した茨城県の「水戸低区配水塔」の玄関柱。
いずれも、柱に長方形のフルーティングが施され、
この時代特有のデザインを今に伝えています。







大廊下棟への出入用階段は2箇所あり、
これは南寄りの階段です。
造りや装飾は北寄りの階段とほとんど同じで、
その向きが違うだけです。

費用対効果が最も重要視される炭鉱、ひいては資源産業。
およそ無駄な出費は極力避けて運営されていたはずですが、
そんな中、戦前の建物に建築的な装飾が見られるのは、
この階段のような手間のそれほどかからない装飾を施すことが、
根深く浸透していたことの現れでもあると思います。

軍艦島の建築的装飾 #02

2021-07-27 19:10:02 | 軍艦島(端島)
ほとんど建築的な装飾がみあたらない軍艦島の建物の中で、
かろうじて散見する時代を伝える建築装飾を、
シリーズでお送りしようと思います。



前回アップした島内最大の建物、報国寮(65号棟)。
その対面に建つのが今回とりあげる66号棟です。



報国寮(65号棟)と同じコの字型をした66号棟は、
報国寮着工の前年、1940(昭和15)年に竣工。
別名「啓明寮」といいます。
啓明とは明けの明星のことで、
戦局を占う重要な星とされてきました。
日中戦争から大東亜戦争へ突入していく時期に建設された啓明寮もまた、
報国寮と同様に、戦争色の強い建物といえるでしょう。

全体的には他の建物と同じく、
コンクリート打ち放しの外壁ですが、
玄関周りだけ報国寮と同じようなタイルがあしらわれています。



啓明寮の玄関周りを飾るタイルは、
報国寮と同じ釉薬タイルで、色もほとんど同じです。
それから考えると、竣工年はこちらが先なので、
啓明寮の玄関を飾ったタイル会社が、
報国寮のタイルも製造したのだと思います。

ただし報国寮との大きな違いは、
正統的なスクラッチ・タイルであること。



間隔はいささか粗めでですが、
ちゃんと引っ掻き器を用意して引っ掻いた
正統派スクラッチ・タイル。
さらに、引っ掻いた時出るカスを“ゼンマイ”と呼び、
ゼンマイを綺麗に削り落としてしまう場合と、あえて残す場合があり、
この啓明寮のスクラッチ・タイルはご覧のように、
ゼンマイを残した仕上げになっています。
啓明寮、そして報国寮の装飾タイルは特に釉薬の発色が美しく、
戦中に建てられた2棟に、美しいタイルが残っているのは驚かされます。



なお2番目の画像に写る、
玄関の三和土にあたる部分にもタイルが貼られていますが、
こちらは単色の角タイルで、装飾的な印象はありません。

また、タイルということであれば、
啓明寮や報国寮以外にも病院や共同浴場などに使用されていますが、
いずれも水回り処理のためのタイルで、
装飾的な使われ方をしているものは見たことがありません。





もう1点、啓明寮の特徴は、
外観にも建築的装飾を配慮したと思われる部分があることです。
画像は海上から見た啓明寮の外観で、
右寄りに6本の縦長の構造が見えると思います。
これは海側に施行された共同便所のための排便管ですが、
ここまで1本1本を独立させる必要はなく、
全体をまとめて一つの壁状にしても良かったはず。
それをあえて独立し形で仕上げることで、
戦前の建築的装飾感が生まれています。

また少しわかりにくいですが、左上に写る屋上の腰壁には、
等間隔で穴が施され、その上部が欠円アーチ状に処理されています。
これもまた、わざわざ穴を開ける必要もなく、
さらにアーチ状の処理をする必要もない部分なので、
施工者や設計者のささやかな遊び心の現れだと思います。

以上のように、美しいスクラッチ・タイルや、
建築的装飾がいくつか見られる啓明寮は、
軍艦島の炭鉱アパートの中で、
もっとも装飾的な建物といえるでしょう。

軍艦島の建築的装飾 #01

2021-07-24 03:22:21 | 軍艦島(端島)
ほとんど建築的な装飾がみあたらない軍艦島の建物の中で、
かろうじて散見する時代を伝える建築装飾を、
シリーズでお送りしようと思います。



軍艦島に林立する炭鉱アパート群は、
大正時代から昭和45年頃までの、
50年以上にもわたる長い年月の間に建設されました。

国内初の鉄筋コンクリートによる集合住宅をはじめ、
鉄筋と木造を融合した構造や階段室型、そして雁行型など、
その多くが当時最先端の技術で建造されていますが、
かたやデザインや装飾に関してみると、
ほとんど無いといってもいいのが軍艦島の建築の特徴でもあります。



画像は現存する国内初の鉄筋コンクリート造の集合住宅、
1916(大正5)年築の「30号棟」。
内部も含めて、装飾的な要素はいっさい施されてなく、
これは、そのすぐ後に建設された日給社宅も同様です。
初めての試みであると同時に、
第一次大戦の戦時増産に併せた急ピッチでの建設だったからではないでしょうか。





また、画像は島最頂部に建つ3号棟ですが、
やはり内部も含めて装飾的な要素はみあたりません。
3号棟をはじめ、島内に現存する多くの建物は戦後に建設されたもので、
これもまた装飾的な要素がない一因と考えられます。

20世紀の初頭に世界を席巻したモダニズム。
しかし、戦前の日本では一部の先進的な建築家が取り入れただけにとどまり、
当時の多くの建物には、まだなんらかの装飾が施されていました。

戦後になって、ようやくモダニズムの感覚が浸透したのに加えて、
戦後の物資不足が後押しする形で、
日本でもやっとモダニズムが普及していきます。
しかしそれはヨーロッパで誕生した本来のモダニズムではなく、
無装飾の平たい壁に四角い窓と出入口だけという、
モダニズムのエッセンスを“縮小”解釈したものでした。

軍艦島もご多分に洩れず、
戦後に建てられた建物には一切装飾的な要素はなく、
必要最低限の要素だけで構成された、
極めてシンプルなものばかりです。



そんな“味気ない”軍艦島の建築群ですが、
昭和の初期から第二次大戦の頃までの建物には、
かろうじて時代を反映する装飾が施されていました。



まず島内最大の建物である65号棟。
1941(昭和16)年に着工し、第1期工事が敗戦の年に終わった、
別名「報国寮」ともよばれる建物です。
あらゆる物資に乏しかった戦中に、
大量の鉄筋を使用して建造されていることは、
いかに軍艦島の石炭が必要とされていたかを物語るものでしょう。

画像中央に写るのが、昭和20年に完成した、
65号棟のもっとも古い部分で、
軍艦島では珍しい時代を伝える装飾は、
その壁面が出っ張った部分の1階にあります。

当初この出っ張った部分は、
エレベーターを設置する予定だったようですが、
完成間近の戦局悪化により頓挫し、
その後、2階より上は居室に転用されました。
そして1階部分には消防器具室があり、
その腰壁に貼られているのが、なんと!釉薬タイルです。



一見スクラッチタイルに見えますが、
畝幅を微妙に変化させた型を押し付けて作った筋面タイル。
そして綺麗な青緑の釉薬が施され、
さらに焼きムラがとてもいい感じに現れています。
壁面は横並びに、円柱部分は縦並びするなど、
遊び心もある施工です。



こちらは、消防器具室のトイ面にある共同便所入口付近の腰壁。
消防器具室の壁面と同様、釉薬仕上げの筋面タイルが貼られています。

近代建築三代巨匠の一人、フランク・ロイド・ライトが、
旧帝国ホテルの壁面に使用してから普及したスクラッチ系のタイルは、
その多くが戦前に生産され、戦後は下火になります。
敗戦間近の建設なので、スクラッチ系タイルの使用としては遅い方ですが、
それでも丁寧に仕上げられた筋面タイルが、
戦中の建物に使用されていたのには驚かされます。

次回は、もう1棟のスクラッチ・タイルが使われている建物です。

崩壊の進む軍艦島

2021-07-22 01:38:51 | 軍艦島(端島)
最近はSNSにかまけていたので、3年ぶりの投稿。
軍艦島の近況をお伝えします。

現存する国内初の鉄筋コンクリート造のアパートとそて知られる、
1916(大正5)年築の30号棟の崩壊が進行しています。



ここ数年の度々の台風接近によって、
目に見える状態で崩壊していく30号棟。
特に台風の影響を受けやすい南西面が進行しています。







こちらが見学コースからも見ることのできる南面。
建物中央部分の2スパンの床スラブが全て崩落し、
大梁も特に上階を中心に折れまくり。
屋根スラブも、もはや屋根の役割を果たせなくなっています。







こちらは西側面。
大梁は下部が残っているものの、
屋上スラブの崩壊は南面よりも酷く、
小梁に囲まれた部分が全部抜け落ちてしまいました。







しかしこれらの崩壊によって、
余分な負荷ががかからなくなったので、
残存部分は以前より安定した状態になっているとも言えます。
最上階の7階も、特に崩落していない床スラブは、
それほど危険性を感じません。

まもなく築105年を迎える建物。
今日まで残っているのが奇跡ともいえますが、
ひとえに現代とは比べものにならない、
鉄筋の量と数のおかげなのだと思います。







崩壊の進むもう1棟が端島小中学校です。
昨年の基礎部分の修復で安定したものの、
1961(昭和36)年に鉄骨造で増設された最上階はほぼ崩落してしまいました。







3年生の教室に理科室と家庭科室があった7階。
閉山した時に産廃業者の工場になっていたら、
とっくに壊されていたかももしれません。
しかしせっかく残ったのだから、
そろそろ崩壊を止める方法を考える時期になっているのかもしれませんね。