黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

東京貧民窟をゆく~内藤新宿南町

2016-05-28 00:23:30 | ・貧民窟
東京貧民窟の今を歩くシリーズの最後は、
新宿駅の南西に広がっていた内藤新宿南町の貧民窟です。

これまでアップして来た、
四谷鮫河橋、浜新網町、上野万年町の三大貧民窟に劣らず、
多くの貧民が集住した街。
内藤新宿南町は、その後旭町(あさひまち)となり、
現在では新宿4丁目という住所にあたるエリアです。

江戸の中期から岡場所として発展した内藤新宿にほど近いことから、
日雇いや車夫のほかに、辻芸人なども暮らしていたといいます。

■概略地図■


横線のエリアがかつての貧民窟。
付近の google map はこちら


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エリアを斜めに分断する明治通りの西側は、
現在では小洒落た店が建ち並び、
新宿の新しいファッション街となりつつあります。
この場所に、かつて貧民窟があったとは、
とても想像のできない光景です。(概略地図:1)






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それに対して明治通の東側の一帯は、
木賃宿が軒を連ねる「新宿4丁目ビジネ旅館街」(概略地図:2)
1887年(明治22年)の「宿屋営業取締規則」によって、
木賃宿営業許可地域に指定された場所で、
今もその名残が色濃く残っていまっす。
この法令は、三大貧民窟をはじめとした都心部の貧民を、
周辺地域へ拡散させるための措置だったといわれる法令ともいわれます。
三大貧民窟に暮らした人々の多くが間借りだったの対して、
この地域では、木賃宿を常宿として暮らす人が多いのが特徴でした。






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新宿4丁目ビジネ旅館街の中で、ひときわ目を惹くのが、
二階部分を上下に二分し、玄関横に飾り窓のある老舗の旅館中田家です。(概略地図:3)
この平成の世に一泊1800円、個室でも2200円という看板をかかげ、
界隈でも群を抜いて時が止まった空間を演出しています。






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他の宿も小綺麗に改装されてはいるものの、
1泊4,000円前後の2階建てないし3階建ての宿が並ぶ街並には、
かつての木賃宿の名残がみてとれます。
また、以前にホテルだった建物が、
外観をそのままに、現在ではマンションとして使われている建物もあります。
画像は約10年前のもので、当時はホテルでしたが、
現在ではマンションとして使われているようです。(概略地図:4)






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また宿名を横文字にして小綺麗に改装し、
ドミトリーとして営業しているものもあります。(概略地図:5)






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かつて南町の真ん中に位置した天龍寺は、江戸時代の初めに移転開山した寺で、
一説には江戸の裏鬼門鎮護の役割を担っていたともいわれます。
まさに貧民街の歴史をつぶさに見てきた寺ですが、
併設する墓所の奥にドコモビルが聳える光景は、
隔世の感がいなめません。(概略地図:6)
また、天龍寺の境内は湧水が豊富で、渋谷川の源流のひとつとなっています。
水源と寺といえば、以前にアップした四谷の鮫河橋を思い出します。
この二つの要素は、貧民窟を生み出す大きな要因だったのかもしれませんね。






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ちなみに、エリアの一画に建つ雷電稲荷神社は、
源義家の目の前で雷雨がたちどころに止んだ白狐の伝説に因む神社。
1928年(昭和3年)に歌舞伎町の花園神社へ合祀されたものの、
跡地に鳥居や祠が再建され、旧地を示すものとして現存しています。(概略地図:7)



厚生労働省が発表した2015年(平成27年)のホームレスの数は、
全国で約6,500人、東京では市部を併せて約1,500人。
ちなみに国連人権委員会による2013年(平成25年)の報告では、
東京23区のホームレスは約5,000人だとしています。
この差は、調査方法の違いによるのでしょうが、
いずれにせよ、この数の中に、
いわゆるネットカフェ難民と呼ばれる人々は、
ほとんどカウントされていません。

事実、ネットカフェの利用者の中から、
家がある人かそうでない人かを判別するのは極めて困難であり、
また、ネットカフェ業界からも、難民ありきでの調査方法への反発から、
正確な調査は行われていないようです。

また、シングルマザーとなった女性が、
年収100万円に満たない貧困者になる確率は、
実に30パーセントを越えるともいわれています。

もはや貧民窟は過去の話、と笑ってはいられない時代です。



東京貧民窟に関して、紙面でご覧になりたい方はこちらをどうぞ。



『実話裏歴史 SPECIAL vol.32』 (ミリオンムック)
ミリオン出版/600円

東京貧民窟をゆく~上野万年町

2016-05-26 03:31:45 | ・貧民窟
東京貧民窟の今を歩くシリーズの第三弾は、
上野駅からほど近いエリアにあった、下谷万年町(したやまんねんちょう)の貧民窟です。

四谷の鮫河橋、そして浜松町の新網町の貧民が、
軍の学校から出る残飯を目当てに集住したエリアだったのに対し、
こちらは繁華街である上野の残飯を目当てに集まった人たちでした。

またこのエリアに集住した貧民の職業を見ると、
これまでの日雇人足や車夫とともに屑拾いが多数いたのも、
繁華街に隣接していたからでしょうか。

万年町は三大貧民窟の中で最も狭く、
その面積は鮫河橋と比べると約5分の1程度でした。
しかし、人口は日清戦争後で3,800余人もいたというので、
密度は鮫河橋の約4倍。
極端な集住ゆえ、街の様相も前述の二箇所に比べて、
はなはだひどい有様だったようです。

■概略地図■


横線のエリアがかつての貧民窟。
付近の google map はこちら


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現在、エリアの南半分である万年町1丁目界隈は東上野1丁目という住所となり、
そのほとんどが東京メトロの上野検車区となっています。(概略地図:1)
1927年(昭和2年)、国内初の地下鉄を運行した東京地下鉄道が、
関東大震災で壊滅した貧民窟の跡地に、
上野電車庫として発足した場所でした。






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検車区の線路沿いにある昭和まっしぐらな居酒屋の入居する建物は、
側面まで施工された、ちょっと変わった看板建築です。(概略地図:2)






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検車区の塀はかなり長く、その規模が想像できますが、
高さがあるので、検車区の中を見ることはできません。(概略地図:3)
塀越しに写る上野学園は、もともと上野桜木町にあった女学校で、
戦後初の学内ストライキを行い、
大学民主化運動の契機となった大学だそうです。






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検車区の塀伝いに北へ進むと、
万年町の中央を横断する道へと突き当たります。
おそらくこの付近が貧民窟時代の中心地だった、
万年町2丁目(現在の北上野4丁目)でしょう。
現在では、道沿いにこぢんまりとした商店街があり、
道の先には、聳え立つスカイツリーが見えます。(概略地図:4)






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道を渡ると、特に醜穢を極めたというかつての万年町2丁目へ入りますが、
小規模な会社や一般住宅が建ち並ぶ普通の街角からは、
当時の面影を偲ぶべくもありません。
ところどころ長屋風情の一画が残るものの、
もちろん大正時代のものではないでしょう。(概略地図:5)






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古い建家の解体現場を見ては、(概略地図:6)
当時に想いを馳せるのが関の山です。






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解体現場のすぐ近くには、
古色蒼然とした壊れかけの祠がありました。
背面の制作年を確認することはできませんでしたが、
その雰囲気から、もしかしたら貧民窟の時代を見てきたお地蔵さんかも知れません。



これで、かつて東京にあった三大貧民窟の探訪は終わりです。
次回は、もう一箇所、新宿にあった貧民窟を訪れます。

東京貧民窟をゆく~浜新網町

2016-05-20 02:49:53 | ・貧民窟
東京貧民窟の今を歩くシリーズの第二弾は、
浜松町駅からほど近いエリアにあった、浜新網町の貧民窟です。

四谷の鮫河橋のエリアの貧民が、
陸軍士官学校からでる残飯を目当てに集住したエリアだったのに対し、
こちらは築地の海軍兵学校からでる残飯を目当てに集まった人々でした。

この一帯は、元来江戸時代からの埋立地で、
道も碁盤の目のように造られていたので、
現在の垂直に交わる道に関しては、
江戸時代からそれほど変わっていないと考えていいかもしれません。

輪河橋に住んだ人々の職業は、おもに日雇人足や車夫でしたが、
このエリアには、それに加えて大道芸人が多かったそうです。
横山源之助の『日本の下層社会』に記された新網町の特徴として、
「表面に媚を湛えて傍らに向いてぺろり舌を出す輩多く」
とあるのは、これら大道芸人のトリッキーな行動を表した物だと思います。
それでは、現在の浜新網町を歩いてみようと思います。

■概略地図■


横線のエリアがかつての貧民窟。
付近の google map はこちら


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JR浜松町の南口の階段を降りて、目の前に広がるエリアが
かつて貧民窟があった場所になります。(概略地図:1)
ご覧のように、現在では中小の会社と飲食店が入居する雑居ビルが建ち並び、
かつて都内屈指の貧民窟があった場所とは、想像だにできません。






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しばらくエリアを歩くと、
正面に世界貿易センタービルが見えるます。(概略地図:2)
国内で2番目に建造された高層ビルは、今も健在。
江戸時代、貿易センターをはじめとした周辺の地域は武家屋敷が建ち並び、
そのはずれにあったのが新網町でした。
新網の名は、幕府から与えられた網干場の地を、
漁夫の住宅街としたことに由来するようです。






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貿易センターの見える辻から東へ進むと、
JR線を越える架道橋があります。(概略地図:3)
車両は通れない、歩行専用のガード。
横には時代を感じさせるお地蔵様がいますが、
礎石の刻印を見ると、昭和二十六年とあるので、
戦後のお地蔵さんですね。






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鉄骨補強された架道の先には、
かつての紀伊徳川家の浜御殿があった、
旧芝離宮恩師公園があります。






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線路沿いに浜松r町の駅のほうへ戻る途中、
細い路地から西の方を見た光景。(概略地図:4)
こういった細路地ですら、昭和の香りを嗅ぎ取れるくらいで、
決して貧民窟だったそぶりはどこにもみあたりません。






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エリアのほぼ中央には讃岐小白(こはく)稲荷神社(概略地図:5)は、
江戸の文政年間に、隣接する松平家の下屋敷に創建された讃岐社を明治以降一般に開放し、
その後、古川沿い(概略地図下方)にあった小白社を合祀した神社のようです。
エリアで唯一、貧民窟の記憶を留める神社といえるでしょう。



浜新網町の貧民窟は、エリアが狭く、
現在も、なんら特徴のない街角なので、
これで終わりです。
次回は三大貧民窟の最後の一つ、
上野万年町を訪れます。

東京貧民窟をゆく~四谷鮫河橋05

2016-05-18 02:49:29 | ・貧民窟
かつて東京にあった3大スラムを歩くシリーズ。
前回に引き続き、四谷にあった鮫河橋(さめがはし)の貧民窟です。

常に飢えと伝染病、そして強盗におびえながら暮らしていた貧民窟での唯一の救いは、
貧民窟の住民が思いのほか人情に厚かったことでしょうか。
明治30年代に貧民窟の窮状を記した横山源之助の『日本の下層社会』には、
近隣に葬式があると、生活の困窮も顧みず仕事を休んで参列して、
悲しみを分かち合う様子が描かれています。

■概略地図■


横線のエリアがかつての貧民窟。
付近の google map はこちら
前回は概略地図中央周辺の暗渠道界隈を歩きました。
今回は、メイン通りへ戻ってから若葉の北部地区を歩き、
靖国通りへと抜けます。


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道は商店街の北端から西側へ蛇行していきます。
道沿いに幾つもある細道の一つを奥へ進むと、
高い石垣に行く手を阻まれた袋小路。(概略地図:19)
この付近の路地は、いずれも行き止まりです。






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袋小路の突き当たりには、
石の構造物の上に設置された小さな祠がありました。
すでにご神体が遷座されて長く経つのでしょうか。
扉も壊れかけの廃墟状態です。






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暫く進むと道の両側に坂のある十字路へでます。
進行方向右側の坂は、隣接する寺院に因む東福院坂。
また東福院坂の反対側は、暫く谷底の平坦な道が続き、
やがて高い階段に突き当たります。
階段の上から谷底と東福院坂を眺めると、
鮫河橋の谷がいかに深いかがよくわかります。(概略地図:20)






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階段を登った先にあるのは須賀神社。
江戸時代の初期、寛永年間に赤坂から遷座したと伝えられる神社で、
これまでアップしてきた貧民窟のエリアはもとより、
靖国通りを挟んで四谷四丁目から四谷駅、北は荒木町一帯までの総鎮守様です。
対面する谷頭に並ぶ寺とともに、
貧民窟の時代を見て来た神社といえるでしょう。
石段のほぼ終点、神社の境内へ入る直前の石垣に、
「四ッ谷鮫河橋 揔(=惣)氏子中」と掘られた石盤が埋め込まれていました。
神社に由来をたずねるも、はっきりしたことはわからないとそっけない返答なので、
神社のウェブサイトを見たところ、
東京大空襲の折りに失われた部分を、戦後、氏子崇拝者が復興させたとあります。
その時の記念として残したものでしょうか。






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須賀神社から戻り、再びメインの通りを北上すると、
左手に現れるのが日蓮宗の日宗寺。(概略地図:21)
このエリアにある寺は、そのほとんどが丘の上にありますが、
この寺だけはは谷底にあるのが特徴です。






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寺に隣接した空地の隅に、
貧民窟に並走していた桜川の、もう一つの源流がありました。
こちらも若葉公園の源流とおなじく、
ほとんど生活排水路の様相ながら、
その水流は澄んでいて綺麗です。






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日宗寺の先は円通寺坂へ通じます。(概略地図:22)
既に、東福院坂の麓から日宗寺にかけて緩やかな登り道だったので、
谷底からいくぶんか高い位置へ来ていたのでしょう。
円通寺坂はそれほど傾斜もきつくなく、距離もそれほどありません。
鮫河橋の中では、もっとも緩やかな傾斜地です。
坂を登りきると靖国通り新宿通り。
※DEC. 20, 2017 : unknownさんのご指摘で修正
通りには多くの車が往来し、歩道にもたくさんの人が行き交います。
そこには、慣れ親しんだ東新宿の光景がありました。



東京23区のほぼド真ん中に位置する深い谷。
かつてそこにあった都内最大の貧民窟の現在を歩きました。
次回は、三大貧民窟の二つ目、浜新網町へ行きます。

東京貧民窟をゆく~四谷鮫河橋04

2016-05-17 01:04:24 | ・貧民窟
かつて東京にあった3大スラムを歩くシリーズ。
前回に引き続き、四谷にあった鮫河橋(さめがはし)の貧民窟です。

明治30年代に、自ら残飯屋の下男として働いて貧民窟の実態を記録した、
ルポライターの松原岩五郎は、その著書『最暗黒の東京』で、
「残飯がない時は、捨てられた生ゴミや豚の飼料、
そして肥料用のジャガイモをもらって、それを貧民に売った」
と記しています。
貧しい食事と不衛生で悪臭に満ちた環境は、病気と犯罪の温床でもあり、
貧民窟の人々は、常に飢えと伝染病、そして強盗におびえながら暮らしていたのです。

■概略地図■


横線のエリアがかつての貧民窟。
付近の google map はこちら
前回は地図中央界隈を南北に歩きました。
今回は、戒行寺坂を登った寺通りから暗闇坂を下り、
若葉公園から暗渠を東へ進んで商店街へ戻るコースを見ていきます。


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若葉二丁目商店会の北外れに位置する戒行寺坂を登ると、
その上のエリアは、たくさんの寺が建ち並ぶ寺通りです。
これらの寺は、そのほとんどが江戸時代からこの地にある寺で、
今でも谷底を睥睨するように現存しています。(概略地図:14)






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寺通りの途中にある闇坂(くらやみざか)から、再び谷へ下ります。
かつて坂の両側に建つ松厳寺と永心寺(一つ前の画像)の茂みによって、
昼なお暗かったことからそう呼ばれるようになった坂。
距離が短いだけ、急峻な勾配の坂です。(概略地図:15)






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闇坂を下った地点にあるのが若葉公園。(概略地図:16)
公園の中央には、人工的に造られた水路があり、
わずかながら水流を確認できます。
これは以前の記事でも触れた、
貧民窟のエリアを流れていた桜川の源流水のひとつとなります。






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公園の一画には、少量ながら湧水が見られ、
公園内の人工水路を流れて、公園のへりから暗渠へと流れ込んでいます。
都内の暗渠の面白さの一つは、
その殆どの流域が暗渠になっている水流でも、
源流部分は開渠となっていることが多いことですね。






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若葉公園に端を発する暗渠路地の狭さは、
その道が、上流の暗渠であることを物語っています。(概略地図:17)
かつてはこの細流沿いにも、
多くの細民長屋が建ち並んでいたのでしょうか。
およそ消防車など入れない、細い路地の両側に密集する木造住宅を見ると、
震災時の非難などが心配になります。






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前回アップした三叉路の少し手前にあるマンション「ライフコート四谷」の前庭に、
変わった形の井戸ポンプがありました。(概略地図:18)
日さくという会社のベローナという井戸ポンプのようです。
すぐ脇に掲げられた解説板を見ると、井戸は防災施設の一部で、
画像には写ってませんが、井戸の左隣にあるベンチは、
非常時にかまどとして使えるベンチだそうです。
それ以外にもソーラーによる街灯やトイレ用マンホールなどが施工され、
災害時に形を変えて利用できる隠れた施設が集まる一画を形成しています。
こんな形の防災システムがあるなんて、全然知りませんでした。

続く

東京貧民窟をゆく~四谷鮫河橋03

2016-05-16 00:10:46 | ・貧民窟
かつて東京にあった3大スラムを歩くシリーズ。
前回に引き続き、四谷にあった鮫河橋(さめがはし)の貧民窟です。

明治の中期には、貧民窟の実情を伝える小説やルポがたくさん発表されました。
1895年(明治28年)に出版された泉鏡花の『貧民倶楽部』は、
貧民を束ねる女乞食の丹が、華族の女たちを懲らしめてゆくストーリーで、
当時の様子が克明に記されています。
「鮫ヶ橋界隈の裏長屋は、人を入れる家というよりは棺桶のようだ。
土間、天井、襖、障子すべて無く、隣とは壁一枚で、
道路とも扉一枚で分つ。三畳ないし五、六畳の一室のみ。」

■概略地図■


横線のエリアがかつての貧民窟。
付近の google map はこちら
前回は地図下辺中央の、出羽坂付近を歩きました。
今回は、若葉地区をさらに北上し、
貧民窟の中心部を見ていきます。


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若葉地区を蛇行しながら縦断する道沿からは、
幾筋もの細い道が分岐しています。(概略地図:9)
道幅の狭さは当時から受け継がれたものでしょうが、
周囲に建ち並ぶ建物は、木造が多いながらも小綺麗で、
かつての貧民窟を連想させるものはなにもありません。






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やがて商店が軒を連ねる三叉路へでます。(概略地図:10)
江戸時代の地図を見ると、すでに同じ場所に三叉路があったようで、
どうやら道筋に関しては、江戸の頃よりそれほど変わっていないようです。
広場を兼ねた三叉路の造りを見ると、
その昔から寄り合いの場所として機能してきたのかもしれません。






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さらに北へ進むと、こじんまりとした商店街があります。(概略地図:11)
名称を掲げたアーチも、電柱から吊るされた表示板も無く、
見渡した限りでは、名前の無い商店街です。
眠そうな商店街ですが、
新宿に拠点を持つ丸正スーパーや個人商店など、
意外と、ほとんどの店が営業をしています。
※当初「名前の無い商店街」と書きましたが、
調べてみると「若葉二丁目商店会」という名前がありました。
商店街の方、失礼しました。
ただし、目立たないことは事実です。






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中には、こんな細長い仕舞屋があったり。
また昭和な商店にまぎれて包丁研ぎの店などがあるのを見ると、
江戸時代、多くの職人が住んでいた場所だったことを思い出します。






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商店街の東には鉄砲坂があります。(概略地図:12)
江戸時代、この界隈には、
将軍護衛の鉄砲隊である「御持組(おもちぐみ)」の屋敷が集住し、
鉄砲の練習場もあったことからそう呼ばれるようになった坂です。
こちらの坂も、急坂で、距離も長めです。






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また商店街の西には戒行寺坂があります。(概略地図:13)
坂の上にある戒行寺に因む坂は、別名「油揚坂」とも呼ばれ、
かつて坂の中腹にあった、良質な豆腐屋に由来していたそうです。

続く

東京貧民窟をゆく~四谷鮫河橋02

2016-05-15 01:33:34 | ・貧民窟
かつて東京にあった3大スラムを歩くシリーズ。
前回に引き続き、四谷にあった鮫河橋(さめがはし)の貧民窟です。

■概略地図■


横線のエリアがかつての貧民窟。
付近の google map はこちら
前回は地図下辺寄りの、信濃町からJR線沿いに歩きました。
今回は、JR線の下を越えて寺が密集する地域へ北上し、
もう一つの横線のエリアである若葉地区を見ていきます。

地図に点線で記入した道は、坂道を表しています。
前回アップした左下の千日坂をはじめ、
鮫ヶ橋のエリアには多くの坂が点在し、
その谷底に貧民窟が広がっていたのがわかります。
また、地図の右下にあるように、
貧民窟は東宮御所に隣接もしていました。


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首都高新宿線とJR線の架道橋のすぐ近くには、せきとめ神社があります。
かつて川筋があった時代、川に流れるゴミをこの場所で除去して、
綺麗な水を東宮御所へ通水するための沈殿池に因んだ神社です。(概略地図:4)
境内(というほどの規模ではありませんが)には、
鮫河橋の地名発祥の石碑と鮫河橋せきとめ神の石碑があり、
隣接する子育て地蔵尊を祀った、これまた猫の額ほどの境内には、
鮫河橋界隈の由来を記した雑誌や季刊誌の切り抜きが掲示されています。
そもそも、若葉といわれる土地が、なぜ鮫河橋と呼ばれたのでしょうか。






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『江戸名所図絵』にも描かれている鮫河橋は、
かつて東京湾の入江が深かった頃、
この付近でも鮫が遡上するのを見られたことや、
目が青白い魚目馬(さめうま)が死んだことなど、
その由来は、はっきりしていません。
「鮫ヶ橋」や「鮫馬が橋」と書かれることもありますが、
いずれにせよ、せきとめ神の付近に橋があったことは確からしく、
界隈を流れていた桜川に掛かっていた橋の名称に由来するようです。






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現在、行政上の地域区分に鮫河橋の名はなく、
上記の鮫河橋名称由来の碑やJRの架道橋(概略地図:5)などに、
その名称の名残を見るだけです。






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JRの架道橋を超えて北へ進むと、
すぎに出羽坂の麓へと出ます。(概略地図:6)
千日坂に比べると、傾斜は緩やかな坂ですが、
それだけ距離が長いので、
結果として、千日坂と同じくらいに高低差があるのでしょう。






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鮫河橋の地域には、江戸中期の頃、
すでに多くの人が住んでいましたが、その多くが間借りによる職人で、
夜ともなれば夜鷹をはじめとした地位の低い私娼が徘徊する岡場所でもありました。
(概略地図:8)
元々そういった磁場を持つ土地だったうえに、
明治の中期から多くの貧民が集住したのには、
靖国通りを挟んで北側にあった、
陸軍士官学校(現防衛省)に負うところが大きかったようです。

士官学校から出る残飯を貰い受けて販売する残飯屋があり、
貧民窟の人々は、ひがな残飯を食べて、食いつないでいたといいます。






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出羽坂の麓には二葉南元(ふたばなんげん)保育園があります。(概略地図:7)
1900年(明治33年)の開園当時は「二葉貧民幼稚園」といい、
貧民窟に住む人々を、幼児の教育によって救済しようとした、
東京で最初の私立幼稚園でした。
どん底の貧民窟にあって、唯一の希望の光だったかもしれませんね。
鮫河橋で唯一貧民窟の記憶を今に伝える施設です。

続く

東京貧民窟をゆく~四谷鮫河橋01

2016-05-13 03:54:20 | ・貧民窟
随分と更新をしてませんでした。
告知記事はアップしたものの、記事らしい記事はいつかと見ると、
なんと1年半前(ヒーーーーーッ)
ということで、再び、ぼちぼちとアップしていきたいと思いま~す!



かつて東京にあった3大スラムを歩きました。
スラム。。。およそ平成の世には似つかわしくない響き。
しかし、江戸の中期から先の大戦後まで、
東京にはいたるところにスラム、すなわち貧民窟が点在していました。

全盛期は明治の中期から昭和初期の頃。
すなわち日清戦争から始まる、
帝国ニッポンが戦争の時代へ突入していった時代です。
戦争によって国力を増強していった日本でしたが、
その裏に激しい貧富の差を生み出し、
都内の各所に貧民窟をうみだすこととなります。

最も規模の大きかった貧民窟は、現在の新宿区の南東にありました。
かつて鮫河橋(あめがはし)と呼ばれた、
現在の若葉1~2丁目、および南元町の界隈で、
駅でいうと、JRの信濃町と四谷、
および地下鉄の四谷三丁目に囲まれたエリアです。

■概略地図■


横線のエリアがかつての貧民窟。
付近の google map はこちら
それでは信濃町駅界隈かスタートし、
まずは南元町のエリアから見ていきます。


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信濃町駅の南東、
外苑東通りに隣接して下る坂道があります。
ご覧のように、坂上からたもとが見えないほど急峻な坂です。
なだらかな傾斜の多い東京にあって、
かなり深い谷となっているのがわかります。(概略地図:1)






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坂のたもとへ降りると、千日坂と書かれた碑が立っています。
谷底にあった一行院千日寺に由来する坂道で、
元来あった千日坂は1906年(明治39年)の新道造成の時になくなり、
現在の坂道は、その時にできた、いわば新千日坂となります。
坂のたもとまで来ると、
隣接する外苑東通りや首都高新宿線の喧噪もあまり聞こえません。
それだけこの谷が深いのだと思います。(概略地図:1)






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千日坂を降りた地点から、
東へ向って緩やかな蛇行をしながら続く道。
この道の両側に、かつて多くの細民長屋が建ち並び、
多くの貧民が暮らしていたといいます。

現在では公明党本部をはじめとした党の関連施設や、
創価学会の関連施設が密集し、
いわば“池田村”を形成していますが、
それ以外は、なんの変哲もない住宅街で、
かつて都内きっての貧民窟があった場所とは、
想像もできません。(概略地図:2)






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JR線および首都高新宿線の南側にそって、
ゆるやかに蛇行する道を東へ進むと、やがて香蓮寺に辿り着きます。
香蓮寺の門前には、地中に埋まった石橋が。
そう、谷といえば川筋ですね。
信濃町から千日谷を下って歩いて来た道沿いには、
かつて、千日谷の谷頭付近に端を発する細流がありました。
この石橋はその名残です。(概略地図:3)






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細流には、さらに細い川筋が流れ込んでいたようで、
道沿いには幾つもの暗渠跡が確認できます。
付近には、戦後の頃に建てられたと思われる木造住宅も散見しますが、
もはや貧民窟があった名残はどこにも見つけることはできません。(概略地図:3)

続く