東京貧民窟の今を歩くシリーズの最後は、
新宿駅の南西に広がっていた内藤新宿南町の貧民窟です。
これまでアップして来た、
四谷鮫河橋、浜新網町、上野万年町の三大貧民窟に劣らず、
多くの貧民が集住した街。
内藤新宿南町は、その後旭町(あさひまち)となり、
現在では新宿4丁目という住所にあたるエリアです。
江戸の中期から岡場所として発展した内藤新宿にほど近いことから、
日雇いや車夫のほかに、辻芸人なども暮らしていたといいます。
■概略地図■
横線のエリアがかつての貧民窟。
付近の google map はこちら
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エリアを斜めに分断する明治通りの西側は、
現在では小洒落た店が建ち並び、
新宿の新しいファッション街となりつつあります。
この場所に、かつて貧民窟があったとは、
とても想像のできない光景です。(概略地図:1)
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それに対して明治通の東側の一帯は、
木賃宿が軒を連ねる「新宿4丁目ビジネ旅館街」(概略地図:2)
1887年(明治22年)の「宿屋営業取締規則」によって、
木賃宿営業許可地域に指定された場所で、
今もその名残が色濃く残っていまっす。
この法令は、三大貧民窟をはじめとした都心部の貧民を、
周辺地域へ拡散させるための措置だったといわれる法令ともいわれます。
三大貧民窟に暮らした人々の多くが間借りだったの対して、
この地域では、木賃宿を常宿として暮らす人が多いのが特徴でした。
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新宿4丁目ビジネ旅館街の中で、ひときわ目を惹くのが、
二階部分を上下に二分し、玄関横に飾り窓のある老舗の旅館中田家です。(概略地図:3)
この平成の世に一泊1800円、個室でも2200円という看板をかかげ、
界隈でも群を抜いて時が止まった空間を演出しています。
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他の宿も小綺麗に改装されてはいるものの、
1泊4,000円前後の2階建てないし3階建ての宿が並ぶ街並には、
かつての木賃宿の名残がみてとれます。
また、以前にホテルだった建物が、
外観をそのままに、現在ではマンションとして使われている建物もあります。
画像は約10年前のもので、当時はホテルでしたが、
現在ではマンションとして使われているようです。(概略地図:4)
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また宿名を横文字にして小綺麗に改装し、
ドミトリーとして営業しているものもあります。(概略地図:5)
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かつて南町の真ん中に位置した天龍寺は、江戸時代の初めに移転開山した寺で、
一説には江戸の裏鬼門鎮護の役割を担っていたともいわれます。
まさに貧民街の歴史をつぶさに見てきた寺ですが、
併設する墓所の奥にドコモビルが聳える光景は、
隔世の感がいなめません。(概略地図:6)
また、天龍寺の境内は湧水が豊富で、渋谷川の源流のひとつとなっています。
水源と寺といえば、以前にアップした四谷の鮫河橋を思い出します。
この二つの要素は、貧民窟を生み出す大きな要因だったのかもしれませんね。
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ちなみに、エリアの一画に建つ雷電稲荷神社は、
源義家の目の前で雷雨がたちどころに止んだ白狐の伝説に因む神社。
1928年(昭和3年)に歌舞伎町の花園神社へ合祀されたものの、
跡地に鳥居や祠が再建され、旧地を示すものとして現存しています。(概略地図:7)
■
厚生労働省が発表した2015年(平成27年)のホームレスの数は、
全国で約6,500人、東京では市部を併せて約1,500人。
ちなみに国連人権委員会による2013年(平成25年)の報告では、
東京23区のホームレスは約5,000人だとしています。
この差は、調査方法の違いによるのでしょうが、
いずれにせよ、この数の中に、
いわゆるネットカフェ難民と呼ばれる人々は、
ほとんどカウントされていません。
事実、ネットカフェの利用者の中から、
家がある人かそうでない人かを判別するのは極めて困難であり、
また、ネットカフェ業界からも、難民ありきでの調査方法への反発から、
正確な調査は行われていないようです。
また、シングルマザーとなった女性が、
年収100万円に満たない貧困者になる確率は、
実に30パーセントを越えるともいわれています。
もはや貧民窟は過去の話、と笑ってはいられない時代です。
■
東京貧民窟に関して、紙面でご覧になりたい方はこちらをどうぞ。
『実話裏歴史 SPECIAL vol.32』 (ミリオンムック)
ミリオン出版/600円
新宿駅の南西に広がっていた内藤新宿南町の貧民窟です。
これまでアップして来た、
四谷鮫河橋、浜新網町、上野万年町の三大貧民窟に劣らず、
多くの貧民が集住した街。
内藤新宿南町は、その後旭町(あさひまち)となり、
現在では新宿4丁目という住所にあたるエリアです。
江戸の中期から岡場所として発展した内藤新宿にほど近いことから、
日雇いや車夫のほかに、辻芸人なども暮らしていたといいます。
■概略地図■
横線のエリアがかつての貧民窟。
付近の google map はこちら
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エリアを斜めに分断する明治通りの西側は、
現在では小洒落た店が建ち並び、
新宿の新しいファッション街となりつつあります。
この場所に、かつて貧民窟があったとは、
とても想像のできない光景です。(概略地図:1)
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それに対して明治通の東側の一帯は、
木賃宿が軒を連ねる「新宿4丁目ビジネ旅館街」(概略地図:2)
1887年(明治22年)の「宿屋営業取締規則」によって、
木賃宿営業許可地域に指定された場所で、
今もその名残が色濃く残っていまっす。
この法令は、三大貧民窟をはじめとした都心部の貧民を、
周辺地域へ拡散させるための措置だったといわれる法令ともいわれます。
三大貧民窟に暮らした人々の多くが間借りだったの対して、
この地域では、木賃宿を常宿として暮らす人が多いのが特徴でした。
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新宿4丁目ビジネ旅館街の中で、ひときわ目を惹くのが、
二階部分を上下に二分し、玄関横に飾り窓のある老舗の旅館中田家です。(概略地図:3)
この平成の世に一泊1800円、個室でも2200円という看板をかかげ、
界隈でも群を抜いて時が止まった空間を演出しています。
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他の宿も小綺麗に改装されてはいるものの、
1泊4,000円前後の2階建てないし3階建ての宿が並ぶ街並には、
かつての木賃宿の名残がみてとれます。
また、以前にホテルだった建物が、
外観をそのままに、現在ではマンションとして使われている建物もあります。
画像は約10年前のもので、当時はホテルでしたが、
現在ではマンションとして使われているようです。(概略地図:4)
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また宿名を横文字にして小綺麗に改装し、
ドミトリーとして営業しているものもあります。(概略地図:5)
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かつて南町の真ん中に位置した天龍寺は、江戸時代の初めに移転開山した寺で、
一説には江戸の裏鬼門鎮護の役割を担っていたともいわれます。
まさに貧民街の歴史をつぶさに見てきた寺ですが、
併設する墓所の奥にドコモビルが聳える光景は、
隔世の感がいなめません。(概略地図:6)
また、天龍寺の境内は湧水が豊富で、渋谷川の源流のひとつとなっています。
水源と寺といえば、以前にアップした四谷の鮫河橋を思い出します。
この二つの要素は、貧民窟を生み出す大きな要因だったのかもしれませんね。
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ちなみに、エリアの一画に建つ雷電稲荷神社は、
源義家の目の前で雷雨がたちどころに止んだ白狐の伝説に因む神社。
1928年(昭和3年)に歌舞伎町の花園神社へ合祀されたものの、
跡地に鳥居や祠が再建され、旧地を示すものとして現存しています。(概略地図:7)
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厚生労働省が発表した2015年(平成27年)のホームレスの数は、
全国で約6,500人、東京では市部を併せて約1,500人。
ちなみに国連人権委員会による2013年(平成25年)の報告では、
東京23区のホームレスは約5,000人だとしています。
この差は、調査方法の違いによるのでしょうが、
いずれにせよ、この数の中に、
いわゆるネットカフェ難民と呼ばれる人々は、
ほとんどカウントされていません。
事実、ネットカフェの利用者の中から、
家がある人かそうでない人かを判別するのは極めて困難であり、
また、ネットカフェ業界からも、難民ありきでの調査方法への反発から、
正確な調査は行われていないようです。
また、シングルマザーとなった女性が、
年収100万円に満たない貧困者になる確率は、
実に30パーセントを越えるともいわれています。
もはや貧民窟は過去の話、と笑ってはいられない時代です。
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東京貧民窟に関して、紙面でご覧になりたい方はこちらをどうぞ。
『実話裏歴史 SPECIAL vol.32』 (ミリオンムック)
ミリオン出版/600円