黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

長崎さるく #65 長崎の食、あれこれ

2011-09-19 00:11:06 | 長崎さるく
長崎さるくの第三シリーズ。
今日は長崎の色々な食。



雲龍亭の一口餃子。
長崎のソウルフードと長崎人から聞いた餃子です。
メニューも餃子のバリエーションと、
キモの卵とじやステーキなど、のみ。
なかなか他では味わえない独特な餃子です。









長崎市役所地下 ル・シェフの龍馬伝説カレー。
2010年の大河ドラマで一気に上がった熱も、もう冷めてしまいましたが、
もともと龍馬には縁の深い街。
そんな龍馬に因んで市役所食堂のシェフが創作したカレー。
カレーはチーズや珈琲等も入った奥深い味。
ライスはサフランライスで、
デミソースのフィレステーキやベーコン等も添えられて、
なんと500円。









銅八銭のトルコライス。
戦後食料事情が良くなかった時に、
あるレストランがまかないで出した、
ご飯の上にシシカバブーを乗せた料理がトルコライスの発祥。
それをメニュー化する時に、親交のあったトルコの名前を採って
『トルコライス』となった。とは銅八銭オーナーの談。
なので、現在市内で食べられるトルコライスは、
殆どが原型をとどめない形に変形したもの、ということですね。
でも、焦がしの効いたカレーご飯が美味しい、
銅八銭のトルコライスはお薦めです。










カフェキッチンこっとんの伊勢海老軍艦島カレー。
あまり知られていませんが、
長崎南部は伊勢海老でも有名な所。
その伊勢海老を一尾ドカ~ンと乗せたカレーライス。
お店のオリジナル型で作られた軍艦島の形のライスと一緒に、
軍艦島の見えるガーデンで食べるカレーは格別。
※伊勢海老軍艦島カレーは夏季限定









小川水産のからすみ。
<日本一のからすみ>とも言われる小川水産のからすみ。
一度食べた事がありますが、その差は歴然!
これからが季節なので、一度ご賞味あれ。

からすみ本舗 小川水産
住所:長崎県長崎市野母崎樺島町393
電話:095-893-0507

電話で受け付けてくれます。

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長崎さるく #64 長崎の街、あれこれ

2011-09-17 00:36:56 | 長崎さるく
長崎さるくの第三シリーズの続き。
今日は街の色々な風景。



長崎と言えば路面電車。
というわけでもないですね。
国内にはまだまだ路面電車の走る都市もけっこうあるんで。
この色、この形がいいですね。







長崎駅のすぐ近くにある大波止の鉄玉、通称『鉄砲ん玉』は、
長崎の七不思議の一つに数えられる謎の鉄玉。
1750年頃からこの付近にあったらしいというだけで、
誰が何のために作ったのかは全て不明な、
オーパーツの様な鉄の玉です。
ちなみに過去にアップした大徳寺丸山なども七不思議の一つですが、
それぞれ寺が無いのに大徳寺、山が無いのに丸山、
など面白みに欠ける不思議物件の中、
この鉄砲ん玉は不思議の称号に十分答える物件だと思います。







新大工町という路面電車の駅の目の前には、
往年の百貨店の姿を今に留める『玉屋』。
その3階になんと、回転するお菓子の量り売り機。
こんなところに昭和遺産が。
そういえばこの時代って、回転展望レストランとか、
回るのが好きだったんだな~







夜の眼鏡橋をまだアップしてなかったんで1枚。
水位が低いんで超縦長の眼鏡に。







真ん中の橋脚から外へはみ出した部分を橋の上から見ると、
無数の硬貨がのっているではありませんか。
願いを込めて投げ込み、見事乗っかると願いが叶う、
という習わしだそうですが、
メダル落としゲーム機に見えたり。

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長崎さるく #63 長崎の猫

2011-09-16 04:03:35 | 長崎さるく
暫くお休みしていた長崎さるくの第三シリーズの続き。
久々なんで今日は長崎の街の猫。
このシリーズの最初の頃にアップした『思案橋』など、
猫は時々アップして来ましたが、
長崎の猫は全体的にショボ可愛い印象です。



大浦天主堂の前にいた子猫。
涼を採るためか、排水溝のスリットの上に佇んでいました。







この猫も確か大浦天主堂の近くにいた、
石畳の真ん中で、往来を気にする事なく身繕いをする猫。
グラバー園周りの猫は、けっこう人なつこい猫が多い。







この猫は長崎市の北端寄りにある池島の猫。
炭鉱が閉山した島に生きる猫たちは、
生活も大変そう。







同じく池島の猫。
石枕は首が痛そう。







最期は亀山社中の近くにいた武士猫。
百戦錬磨の風格を漂わす猫でした。

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長崎さるく #62 崇福寺・蘭盆勝会

2010-11-28 04:42:01 | 長崎さるく
長崎さるくの第三シリーズ。
以前にアップした長崎4大唐寺の一つ崇福寺で、
「蘭盆勝会」という、中国暦のお盆が行なわれていました。



以前の記事にもアップした様に、
ただでさえ中国情緒溢れるお寺ですが、
こうしてお盆の装いになると、一段と中国感が増します。







某国民的ドラマでも、後半の長崎の話で、
最初の頃に登場した崇福寺は、
この中国盆のように赤い提灯が沢山つるされていました。







このお寺の中国盆は、
長崎市内はもちろん、全国から中国系の人が集まって、
お盆を祝うのだそうです。







金山・銀山と呼ばれる、
紙で作られた1.5mくらいの高さの飾り付け。
お盆は9/4~9/6まで行なわれ、
9/6の夜にはこれらが燃やされるそうですが、
残念ながら6日の夜はいなかったので、
みることが出来ませんでした。







お供物。







境内にはピンク色の太く長い線香が炊かれ、
むせ返る程の香りと紫煙が立ちこめます。







上から2枚目と3枚目の画像に映る門は、
国宝の第一峰門ですが、
その入口に奇妙な彫像が置かれていました。
なんだろうと気になってとりあえずウェブサーチ。
するとこちらのサイトに詳しい説明がありました。

七爺八爺(ちーやぱーや)といって、
人間の魂を冥土につれて行く役目の神様

だそうです。

長崎んことばかたらんば』さん、ありがとうございます。

でも、そんな大役、大丈夫か?
と不安になるルックスでした。

※NOV. 29, 2010 リンク切れ修整しました

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長崎さるく #61 三菱重工長崎造船所史料館2

2010-11-24 00:48:28 | 長崎さるく
長崎さるくの第三シリーズ。
前回に引き続き、長崎という街を明治以降大きく支えて来た、
三菱重工長崎造船所の史料館です。



長崎造船所の前身、長崎鎔鉄所(ようてつじょ)は、
幕末の文久元(1861)年に完成した、
国内初の洋式工場で、重工業の発祥でもあり、
そして長崎造船の起源でもある、
「すごい」ところです。





そして長崎鎔鉄所の竣工に大きく関わったのが、
すでに過去の記事でも何度も触れている、
オランダ海軍将校のハルデス。
工場の完成を早める為に、
乾燥時間を短くするよう薄く造った煉瓦が、
蒟蒻煉瓦の発祥でもあり、
また鎔鉄所は、
国内初の赤煉瓦の建物でもあったわけですね。





煉瓦の横に展示されている、
ハルデス専用の小さな手焙火鉢。
胴回りには右書きカタカナで「ハルデス」
幕末から明治初期に来日したヨーロッパ人の多くは、
鎖国によって熟成していた日本独自の文化に感動し、
それを守りたいと思ったと聞きます。
ハルデスもまたその中の一人だったのかもしれませんね。





官営期の展示の次は明治初期の、
三菱重工創業期の展示に移りますが、
目に入るのは社船「夕顔丸」の模型です。
明治20(1887)年浸水の夕顔丸は国内でも最初期の鉄船。
後に長崎港と軍艦島を結び、
沢山の人を運んだ船です。





ちなみに画像は高島の石炭史料館に展示されている夕顔丸ですが、
そのディテールが随分違いますね。
稼働していた時の夕顔丸の写真を見る限り、
どう見ても石炭史料館の模型の方が忠実のような気がしますが、
史料館にある模型がなぜここまで、
実際の夕顔丸と違う造りにしてるのかは謎です。





模型の横には夕顔丸の操舵輪。
かなりの大きさがあります。
ちなみに「夕顔丸」という命名は、
船中八策が書かれた船、
土佐藩の汽船「夕顔」にちなんだものですね。





史料館の外には夕顔丸の予備錨も展示されています。





夕顔丸の乗船券。
軍艦島で働く人たちの中で、
職員や鉱員などは社割りで乗船出来ましたが、
食堂等の一般業者として島で働いた人たちは、
船賃も正規料金を払わなくてはなりませんでした。
軍艦島で食堂をされていた木元さんの、
「軍艦島には士農工商があって、
商人は船賃も正規料金、家賃も光熱も、
全部正規料金で払わなくてはならなかった」
というお話を思い出しました。

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長崎さるく #60 三菱重工長崎造船所史料館1

2010-11-23 04:28:26 | 長崎さるく
長崎さるくの第三シリーズです。
今回は長崎という街を明治以降大きく支えて来た、
三菱重工長崎造船所の史料館です。



三菱造船の錚々たる足跡が眠る建物は、
もともと木型場として実際に使われていた、
造船所内で最も古い建物。





その外観は窓の形とあいまって、
ヨーロッパの街に残る煉瓦工場の雰囲気もあります。





入口の上部に燦然と輝くスリーダイアモンドと、
右書き文字の明治三十一年。
なお、史料館の後方約1/4くらいは大正時代の増築だそうです。





館内に入って最初にあるのが「泳気鐘」
4.5tの鉄の塊の中が空洞になっていて、
上部から空気チューブを通し、
空気圧で鐘内の気圧を保ち、
海中の調査や作業を行った装置。
説明板の図解を観ると、
どうやら着衣のまま入っていたようですね。





その次に並ぶのが、国内最古の工作機械。
あまりにもでかい!
銘盤には「1856」の文字が。
約160年前のものなんですね。





奥へ進むと破損した巨大なタービンが展示されています。
昭和45(1970)年に起きたタービンの大破損事故の残骸です。
50tもある巨大タービンは真4つに破壊し、
それぞれ地面、上空、山の方、海の方へ飛んだそうで、
これは海中に飛んだものを回収した物だそうです。





これは何の機械だったか忘れましたが、
(後で調べておきま~す)
あまりにもカッコ良すぎる。。。





館内も重厚な雰囲気が漂います。

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長崎さるく #59 蒟蒻煉瓦

2010-11-20 01:07:00 | 長崎さるく
シリーズでお送りしている長崎さるくの第三弾。

今回は、以前からことあるごとに触れて来た蒟蒻煉瓦を、
まとめてみようと思います。

まずは以前にもアップした、グラバー邸の厨房。
国民的ドラマで一躍知名度を上げたグラバー。
彼の関わった施設には、
蒟蒻煉瓦が特におおく使われていますが、
なにかこだわりがあったのでしょうか。



この厨房を出た中庭の花壇の柵にも、
蒟蒻煉瓦が使われています。



グラバー邸といえば、
以前訪れた時に時間がなく観る事ができなかった、
高島のグラバー別邸の蒟蒻煉瓦も、
今回はチェックして来ました。



敷地のほんの一部ですが、
確かに蒟蒻煉瓦が地中に埋まっています。
平置きの煉瓦もあるものの、
グラバー邸の厨房同様、縦置きの煉瓦もあり、
敷地の位置から考えて、
こちらも厨房の床として使われていたんでは。。。





高島と言えば、かつての町役場の近くにも、
蒟蒻煉瓦の擁壁の跡。





蒟蒻煉瓦を使った建物で、最も奇麗な形で残っているのは、
なんと言ってもそろばんドッグと呼ばれる、
小菅修船場跡の捲上小屋。
こじんまりとしていながらも、
近代化産業遺産の風格を備えた、
秀逸な一品ですね。
ちなみにこちらもグラバーさんが大きく関わっています。





すこし南には、小ヶ倉の国際海底電線陸揚庫。
国内初を総なめにする長崎にあって、
これもまた国内初の国際電線を陸揚げした小屋の跡。
半分蒟蒻煉瓦、半分石造りという変則的な造りの建物。





また以前にもアップした、
大浦天主堂の隣に建つ羅典神学校もまた、
木骨煉瓦造りで、その煉瓦は蒟蒻煉瓦と言われていますが、
確認出来る露出部分がなく、
かろうじて地下へ続く通路に、
蒟蒻煉瓦が使われています。





こちらも以前にアップした、
長崎4大唐寺の一つ、聖福寺の境内にある、
金炉「惜字亭」の内部に確認出来る蒟蒻煉瓦。
蒟蒻煉瓦が、西洋式の建造物だけでなく、
ひろく長崎で使われていた事の証でもあるのでしょう。





なんと言っても蒟蒻煉瓦が一番残っているのは、
軍艦島の隣の島、中ノ島ではないでしょうか。
画像の遺構の他にも、用途不明の蒟蒻煉瓦製の遺構や、
床面や壁面とおもわれる蒟蒻煉瓦が、
いたるところに残存しています。





画像は中ノ島の高台の上に残る床面と思われる蒟蒻煉瓦。
グラバー邸の厨房同様、煉瓦が縦置きされているのが分かります。
蒟蒻煉瓦を床面に使用する時は、
このように縦に並べるのが一般的だったんではないでしょうか。





そしてこれら蒟蒻煉瓦の元祖が、
三菱重工長崎造船所の史料館に鎮座する、
ハルデス煉瓦ですね。

これぞ日本の赤煉瓦の原点!

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長崎さるく #58 小菅修船場5

2010-11-19 11:19:28 | 長崎さるく
※以前にアップしていた記事を、
「長崎さるく」のカテゴリーに編入し、若干修整しました。

長崎市にある小菅修船場と蒟蒻煉瓦についてです。



小菅修船場の煉瓦の小口(一番小さい面)には、
いくつかの刻印のようなものがあります。

 

この刻印の意味は現在でもはっきりとはわからないそうですが、
その数の多さから、窯のマークというよりは、
焼成の責任者印のようなものではないかといわれています。
最初の小菅の記事で取り上げた国際海底電線小ヶ倉陸揚庫には、
18種類以上の刻印が見つかっているそうです。

中ノ島に残る蒟蒻煉瓦にこれらと同じ刻印があるとすれば、
同じ窯の人が焼いたことになり、
その製造時期もはっきりしてくりのではないかと思いますが、
中ノ島に残る煉瓦、特に波打際に残る2つの蒟蒻煉瓦の遺構は、
長年風と潮に晒され表面が完全に削れているので、
なかなか刻印を発見するのは難しいかとも思います。

また小菅の煉瓦で気になるものが一つあります。
隣接する駐車場にぽつんと残る柱状の煉瓦の構造物です。
石壁にもたれかかるような設置のされかた、
上広がりのバランスの悪い形、
単体では用をなさなそうに見えるこの煉瓦の構造物は、
周囲を探しても他にありません。



最後に蒟蒻煉瓦の製造下限に関して、
この小菅の記事の最初にふれた
『明治事物起源』に記載された明治16年(1883)の他、
明治19年(1886)の佐世保鎮守府の条例による
煉瓦企画の統一(『日本れんが紀行』)や
明治20年代の長崎造船所が三菱の経営下になった後の発展期に、
現在のサイズがに変わっっている
(『長崎製鉄所の建築用煉瓦について再検討(長崎談叢82号)』)
という記述はみつけられるものの、
いずれも確証がない記述になっています。
また、明治2年に通常サイズの煉瓦を使って造られた南洋井坑と、
そのすぐ近くにある明治20年頃造られた蒟蒻煉瓦製の擁壁に関して、
触れている記述をみつけることはできませんでした。

この小菅の記事で触れた煉瓦遺構は現在全て見学が可能です。
最初の蒟蒻煉瓦-ハルデス煉瓦-で造られた長崎造船所は既に解体され、
長崎造船所史料館内に当時の資料が展示されています。
また聖福寺の惜字亭は現在は漆喰が塗り直され、
かつて露出していた蒟蒻煉瓦を見ることはできません。



■参考資料■
日本れんが紀行』喜田信代
日本煉瓦史の研究』水野信太郎
『赤煉瓦石考(一)』(長崎談叢47号)北岡伸夫
『蒟蒻煉瓦石考(承前)』(長崎談叢49号)北岡伸夫
『長崎製鉄所の建築用煉瓦について再検討』(長崎談叢82号)楠本寿一
『オランダ海軍将校H.Hardesとハルデス煉瓦の歴史的再評価』前田久・長谷川和洋

中ノ島の煉瓦について1 >中ノ島の煉瓦について2

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長崎さるく #57 小菅修船場4

2010-11-19 04:41:28 | 長崎さるく
※以前にアップしていた記事を、
「長崎さるく」のカテゴリーに編入し、若干修整しました。

長崎市にある小菅修船場と蒟蒻煉瓦についてです。

画像は蒟蒻煉瓦が使われている巻上機械小屋の、
北東側(海を背にして左側)の壁面です。



綺麗に並ぶ蒟蒻煉瓦の壁面に
2つの回転ノブのようなものと、その下に小さな鉄板がありますが、
『長崎談叢49号』に掲載の『蒟蒻赤煉瓦石考(承前)』によると、
<空気調節のダンパーの役目をしていたものであろうと思われる装置の痕跡>
だそうです。
そして当初この面に煉瓦造りの煙突があり、
小屋内のボイラーも海を背にして左寄りに設置されていたそうです。

現在室内のボイラーは海を背にして右寄りに設置され、
小屋の裏側に残る煙突の基礎らしき構造物も、
海を背にして右よりの位置にあります。



左側の壁面にあるのと同じ形の鉄板がここにも残っていますが、
煙突基礎の煉瓦は画像からもわかるように厚みのある煉瓦です。
上出の『蒟蒻赤煉瓦石考(承前)』には、
「ボイラーの位置の移動は恐らく不断の高熱による煉瓦石の破損による」もので、
現在は「煙突取付部分に明治中期の頃の大型赤煉瓦が残っているのみ」
と書かれてありますが、
敷地内に設置された明治十年頃の様子のイメージ図を見ると
既に煙突が小屋の裏面に設置されています。



もしこのイメージ図の年代が正しければ、
建設されてまもなくボイラーと煙突は移動し、
そして明治10年の時点で、
既に厚みのある煉瓦が造られていたことになります。

以前の記事でアップした高島の南洋井坑の煉瓦が、
明治4年から稼働した施設ながら厚みのあるものだったことと併せて、
明治初期から既に蒟蒻煉瓦と平行して、
厚みのある煉瓦が造られていたことがわかります。

そうすると蒟蒻煉瓦と厚みのある煉瓦を、
なぜ造り分けていたのかが気になるところです。

ちなみに小菅修船場の引上小屋の煉瓦の接着材料は、
軍艦島をはじめ高島や中ノ島等の初期の石積擁壁をつないだものと同じ、
<あまかわ>だそうです。

■参考資料■
日本れんが紀行』喜田信代
日本煉瓦史の研究』水野信太郎
『赤煉瓦石考(一)』(長崎談叢47号)北岡伸夫
『蒟蒻煉瓦石考(承前)』(長崎談叢49号)北岡伸夫
『長崎製鉄所の建築用煉瓦について再検討』(長崎談叢82号)楠本寿一
『オランダ海軍将校H.Hardesとハルデス煉瓦の歴史的再評価』前田久・長谷川和洋

中ノ島の煉瓦について1 >中ノ島の煉瓦について2

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長崎さるく #56 小菅修船場3

2010-11-19 02:26:30 | 長崎さるく
※以前にアップしていた記事を、
「長崎さるく」のカテゴリーに編入し、若干修整しました。

小菅修船場跡の捲上小屋は、
幕末から明治初期のごく短い期間に長崎で造られた
通常の煉瓦より薄い、蒟蒻煉瓦と呼ばれる煉瓦で造られています。
そこで少し煉瓦の事を調べてみました。
「蒟蒻煉瓦」。。。その響きと共に気になります。



小菅修船場跡に残る捲上機械小屋の全景。





この小屋の壁面には蒟蒻煉瓦が使われ、
同時に現存する最古の煉瓦建築物と言われている、
明治元年(1868)に建てられた建物です。
壁面には蒟蒻煉瓦が綺麗に並んでいます。

蒟蒻煉瓦の発祥は幕末の安政4年(1857)~文久元年(1861)、
当時幕府がオランダに発注した軍艦ヤッパン<Japan>丸(後の咸臨丸)に乗ってやってきた、
ハルデスという人の指導で建設された長崎鎔鉄所のために造られた煉瓦でした。
一般には煉瓦の焼成技術が未熟なために薄い煉瓦が造られたと言われますが、
それよりも鎔鉄所建設のための大量の煉瓦の必要に迫られた、
乾燥期間短縮に重点があったそうです。

横浜開港記念館編『日本の赤煉瓦』では、この長崎鎔鉄所の煉瓦を、
それ以降長崎で造られた<蒟蒻煉瓦>と区別して、
特に<ハルデス煉瓦>と呼んでいます。
蒟蒻煉瓦はそれ以降、
大浦天主堂(元治元年:1864)の一部、
聖福寺の惜字亭(焼却炉)(慶応2年:1866)、
国際海底電線小ヶ倉陸揚庫(明治4年:1871)
(いずれも現存)など長崎の方々で使用され、
上画像の小菅修船場の捲上小屋もその一つです。

蒟蒻煉瓦で一番気になるところは、
いつ頃造られなくなったかという点ですが、
石井研堂編『明治事物起源』には、
蒟蒻煉瓦が使用された年代の下限を、おおむね明治16年(1883)頃とする説がある
と記載されているそうです。
またこの説を裏付けする要因かどうかはわかりませんが、
明治16年(1883)に長崎県外海町に建てられたド・ロ神父記念館(旧救助院)の外壁は、
蒟蒻煉瓦と通常煉瓦の混合された作りになっています。

さて中ノ島の歴史を見てみると、
三菱の経営下になるのは明治17年(1884)からですから、
もし蒟蒻煉瓦の製造が明治16年の時点でなくなっていたとすれば、
島内に残る蒟蒻煉瓦の遺構は三菱経営以前の時代に、
既に造られていたものの可能性があることになります。

■参考資料■
日本れんが紀行』喜田信代
日本煉瓦史の研究』水野信太郎
『赤煉瓦石考(一)』(長崎談叢47号)北岡伸夫
『蒟蒻煉瓦石考(承前)』(長崎談叢49号)北岡伸夫
『長崎製鉄所の建築用煉瓦について再検討』(長崎談叢82号)楠本寿一
『オランダ海軍将校H.Hardesとハルデス煉瓦の歴史的再評価』前田久・長谷川和洋

中ノ島の煉瓦について1 >中ノ島の煉瓦について2

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長崎さるく #55 小菅修船場跡2

2010-11-18 16:45:23 | 長崎さるく
シリーズでお送りしている長崎さるくの第三弾。
今回は通称「そろばんドック」の名で知られる、
小菅修船場跡の捲上小屋内部です。



捲上小屋の中にある蒸気巻上機の全貌です。
手前の歯車が、左から右へ力を増幅し、
船台を引っ張っていたイギリス製の歯車。
その左、上部の木製装置が蒸気機関本体。
奥に写るのがボイラーです。
ボイラーは当初手前側にあったそうですが、
後に現在の位置に新しい物が設置されたそうです。





画像は長崎造船所の史料館にあった、
操業当時の捲上装置の写真ですが、
当時は歯車が板で囲われていたのが分かります。





ボイラーは上述のように明治元年の当時の物ではなく、
明治37(1904)年に付け替えられた物だそうです。
小菅修船場の捲上小屋は、
通常の煉瓦より薄い蒟蒻煉瓦で造られていることで有名ですが、
ボイラーの釜をくるんでいる煉瓦が厚みのあることが、
このボイラーが後に造られたことを物語っています。





ボイラー内部をのぞいてみました。
思いのほか奇麗な状態で保存されています。





こじんまりとした蒸気機関本体。
下にぶら下がる鉄部が上下し、
小さな歯車から力を伝導して、
大きな歯車を動かしていたんだと思います。





最後の歯車は2m近くもある、大きな歯車です。





蒸気機関と歯車を背後から見ました。
This is 機械 って感じですね!





歯車が並べられている下部には溝が掘られ、
そこには水がたまっているんですが、
なぜか巨大化したミドリガメがたくさん住んでいます。

下欄「> NEXT」をクリックすると、
以前アップした小菅修船場の蒟蒻煉瓦に関する記事に続きます。

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長崎さるく #54 小菅修船場跡1

2010-11-15 01:24:12 | 長崎さるく
シリーズでお送りしている長崎さるくの第三弾。
今回は通称「そろばんドック」の名で知られる、
小菅修船場跡です。



グラバー園から約1.5km、
細く食い込んだ入江に造られた小菅修船場は、
明治元(1868)年完成の、現存最古の洋式ドッグであり、
その捲上小屋は現存最古の赤煉瓦建造物、
近代化産業遺産として世界遺産の暫定候補でもあり、
國の指定重要史跡、
さらには社団法人日本機械学会が認定した、
最初の機械遺産でもあるという、
錚々たる肩書きを持ちながら、
いつ行っても殆ど見学してる人を見ない、
不遇の遺産です。





敷地の入口に立てられた解説板にあるように、
薩摩藩とグラバーが音頭をとって完成した修船場は、
幕末から各藩が集めた軍艦の修理等で活躍するものの、
その後三菱の経営下に入ってからは、
対岸の造船所(現在の三菱重工長崎造船所)の勢いに押され、
徐々にその役割を終えて行ったそうです。





長崎造船所の史料館に展示されている、
初期の頃の修船場の写真。
この写真は何処から撮影したんでしょうか。
現在の小菅の入江は長崎湾い向かって広がっているので、
岸から撮影したとは思えず、
さらにかなり高さのあるところから撮影しているようです。
水面の上に浮遊して撮影した様に思える、
不思議な写真です。





また、長崎造船所史料館には、
創業の頃の修船場の模型も展示されていますが、
これによって、
船台が「そろばん」の様だったことがわかります。

また創業当時の引き上げワイヤーは中央に一本。
ちなみにこのワイヤー、画像をよく見ると、
何カ所かつなぎ目の様な物が見えると思いますが、
当時は一気に巻き上げるのではなく、
引いたら引いた分だけワイヤーを外して行き、
巻き戻す時はワイヤーを継ぎ足して延ばしていたそうです。
煙突の横に並ぶ筋状のものが、
その継ぎ足し様ワイヤー。





入江の少し海寄りから捲き上げ小屋をみたところ。





潮の引いた入江に降りて、
かつて船台が乗っていた中央の軌道を間近で見たところ。
約150年前の機械は、潮と風にさらされて、
かなりボロボロです。





捲き上げ小屋を背にして海側の眺望。
満潮の時に海中に沈めた船台に船を乗せ、
干潮の時にドッグに引き上げて作業をしていたそうです。
また、両岸の護岸はかつて軍艦島の堤防にも使われた、
天草石によるもので、
現在も当時のオリジナルのまま残存しています。





約150年の時を越えて、
狭い入江に密集する近代化遺産の宝石箱。
次回は巻き上げ小屋の中も見てみようと思います。

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長崎さるく #53 まとめ2

2009-10-27 00:31:43 | 長崎さるく
シリーズでお送りして来た長崎さるく。
前回は16回シリーズでしたが、今回は36回にもなってしまいました。
それでもまだまだ飛ばしたところが多く、
続きはまた気が向いたらアップしようと思います。



暗雲たれ込める空の下のNHK長崎のテレビ塔。
いかにもテレビ塔!という雰囲気がいいですね。
1975年公開のイギリス映画『ロッキー・ホラー・ショー』の、
クライマックスのシーン。
主役の宇宙人でジェンダーのフランケンフルターが、
センチメンタルになってよじ上るセットの電波棟を
彷彿とさせてくれます。
(ご存知ない方も沢山いらっしゃると思いますが(汗))



稲佐山から見る1,000万ドルの夜景(のはず)。
すみません、宝石をちりばめた様に撮れてなくて。
そういえば稲佐山界隈の話とか、
その先の神の島の話等もアップしてませんでしたね。



昼の稲佐山からみる長崎市内。









長い鎖国時代にも唯一の窓口として開かれていた長崎には、
他の地域にはない、海外との時間をかけたコラボレーションがあります。
ある意味血となり肉となった西欧の取り込みが、
日本でもなく、かといって西欧でもない、
エキゾチックな文化を生み出しています。



特にキリスト教との関わりを抜きに長崎を語る事は出来ないと思いますが、
これもまた長い年月をかけて融合して来た長崎ならではの色を感じます。
ド・ロ神父と鉄川与助氏のコラボレーションによって出来上がった旧大司教館は、
ヨーロッパ建築とも日本建築とも違う、
見事な和洋折衷の文化です。



そして、西欧以上に深く交易をかわして来た中国との融合もまた、
長崎を作り上げている大きな要素でした。
特に「ペーロン」「くんち」「ランタン祭り」などのお祭り、
そして「ちゃんぽん」「皿うどん」「カステラ」などの食文化は、
中国の影響を色濃く残しながらも、
他には類を見ない独特の文化です。



日本三大遊郭の一つ、丸山遊郭が繁栄したのも、
これら様々な外貨の流入によって、
常に経済が活性化していた証だと思います。
そして時代の最先端を吸収しようと文人墨客が集まり、
文明開化の先端都市を形成していたんだと感じます。



炭鉱の発展もまた、
長崎の場合は海外との窓口だったことに大きく関わっています。
長崎の炭鉱開発は、もともと長崎港に来航する西欧の軍艦への、
燃料供給がその最初の目的でした。
造船業の発展も、その延長上にあります。



そして、原爆もまた忘れる事はできません。
平和公園の一帯に充満する、息が詰まる程の平和への祈りは、
今でも記憶の奥底に、鉛の様に重く沈んでいます。
特に、爆心地にヨーロッパ文化の象徴とも言える教会があったことは、
日本のみならず、西欧にとっても特別な意味を持つものだったと思います。



前回の記事でアップした、
香港上海銀行、べっ甲工芸館、英国領事館の建物は、
全て国の重要文化財に指定されていますが、
同じく重文の旧羅典神学校、そして
国宝の大浦天主堂や崇福寺の施設群とともに、
建築だけを取り上げてみても、その興味は尽きません。



また大黒/恵比寿市場大浦川の市場を中心とした商店街など、
ノスタルな街角がそこかしこに残っているのもまた、
長崎の魅力です。




長崎は、ヨーロッパ、キリスト教、中国、遊郭、炭鉱、そして原爆と、
様々な切り口の文化がちりばめられた、
いわば実物大の東武ワールドスクエアのような街だと感じます。
近年、キリスト教施設群と近代化産業遺産が世界遺産の暫定リストに入り、
にわかに世界遺産運気のような風潮も感じますが、
世界遺産はもともと西欧の基準で決められるもの。
だから天主堂であり、北渓井坑やそろばんドッグなど、
グラバー氏の息のかかった産業遺産が候補に挙がるのだと思います。
しかし長崎独自の「和華蘭」文化は、
別に世界遺産になってもならなくても、
とても面白いものだと感じます。



シリーズをご覧になって、
もし一つでも気に止まったものがあったら、
是非長崎へ行かれる事をお薦めします。
一歩街を歩けば、そこに楽しい発見があります。

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長崎さるく #52 建物随想

2009-10-25 03:19:01 | 長崎さるく
シリーズでお送りしている長崎さるく。
今回は市内の建築物をの一部をちょっとアップします。
原爆の影響をあまり受けていないせいでしょうか、
趣のある建物はやはり市内南部に集中しています。



ギリシャ神殿風の造りが印象的な香港上海銀行長崎支店
最近改装されて資料館として再生したそうですが、
補修工事の跡が生々しく、もう少し色とか気を使ってほしいですね。





上記2件同様、大浦海岸通りに面する
香港上海銀行のすぐ近くにある旧英国領事館
長崎にはこうした文明開花の香りがする建物が、
そこかしこにあります。





最初に長崎を訪れた時からずっと気になっていた、
明治35年 (1902) 建築の寳製網株式会社のビル。→Mapion
グラバー氏とともにキリンビールの前身を作った、
ウィルソン・ウォーカー氏の弟、ロバート・ネール・ウォーカー氏が、
居留地いる外国人向けに製造販売したのが、
バンザイサイダーやバンザイレモネード。
その製造工場として使われていたと言われる建物です。



バンザイサイダーは復刻され、
今ではグラバー園の中などで飲む事が出来ます。
炭酸がきつくない、飲みやすいサイダーです。





香港上海銀行のすぐ近くにあるべっ甲工芸館(旧長崎税関下り松派出所)
長崎がべっ甲細工でも知られる土地だという事は最近知ったのですが、
べっ甲で検索すると、軒並み長崎の情報がすら~と表示されます。





中でも明治31年(1898)年築の建物に店を構える江崎べっ甲店は、
店内に入ったとたん異文化の世界が広がります。
1700年初頭から営む老舗は世襲八代べっ甲一筋で、
六代の栄造氏は無形文化財でもあったそうです。
店内にはかつて国際万博でグランプリを受賞した、
鯉や鷲のべっ甲細工が所狭しと展示されていますが、
その中でも目を引いたのは戦艦のべっ甲細工です。



「原爆の爆風によって破損した軍艦香取の模型」と題されたべっ甲細工。
軍艦の周囲には確かにマストなどが散乱していますが、
長崎以外では考えられない、工芸品のテーマですね。



長崎では、クジラ料理がいまだポピュラー料理の一つです。
以前にアップした料亭花月のコース料理にも、クジラのベーコンがつきます。
クジラ料理、そしてべっ甲細工、
今日では過去の歴史となりつつある文化が残っているのも、
長崎の大きな魅力だと思います。

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長崎さるく #51 街で気になった光景

2009-10-24 05:39:34 | 長崎さるく
シリーズでお送りしている長崎さるく。
今回は市内で気に止まったものです。



最近出来た出島バイパス。
これが出来る以前は空港から市内へ入る際に、
必ず市の北端から入らなくてはならず、常に渋滞にはまっていましたが、
バイパスの完成によって、35分で行き来できるようになりました。
その入口付近の高架下に、蒟蒻煉瓦の壁が再現されています。
Mapion
蒟蒻煉瓦については既に、聖福寺グラバー園
そして小菅修船場の記事で触れて来ましたが、
それら蒟蒻煉瓦の文化にちなんで、
出島バイパスが完成した時に、再現して作られたそうです。



同じ煉瓦でも、こちらは蒟蒻煉瓦ではなく普通の煉瓦ですが、
こんな積み方は見た事がありません。
煉瓦の積み方には、
長手と小口の並べを段でかえていくイギリス積みや、
各段に長手と小口を交互に並べるフランス積みをはじめ、
いろいろな積み方があるものの、そのどれもに共通するのは、
煉瓦の切れ目をずらして積む、ということです。
しかしこの煉瓦塀の煉瓦は、切れ目がそろっている段が、
何段にもまたがってあります。
基本的にはイギリス積みだと思うんですが、
ぱっと見、変な印象をうけます。
→このへんかなMapion



以前にアップした孔子廟のすぐ裏手にあった銭湯の日栄湯。
Mapion
丸金温泉と同様の入口は、
丸金温泉ほど中国的装飾はないものの、エキゾチックです。
ちなみに左右の壁面はタイル貼りだと思いますが、
煉瓦だとしたら、これが小口積みですね。



上記の銭湯の向かいの塀沿いにあった三角溝。
Mapion
三角溝に関しても既に高島の記事で触れたので、説明は飛ばしますが、
丸山遊郭の記事で触れたエゴ同様、
長崎ならではの下水施設だと思います。



唐人屋敷の記事で触れた、屋敷と外界を隔てていた堀は、
唐人屋敷の敷地の外にも、水流として残っています。
なんとなく惹かれた光景だったのでアップしました。

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