黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

砧下浄水場04:その他の施設

2016-06-08 13:45:24 | 産業遺産
前回からアップしている、
近代水道事業の黎明期を伝える施設、
世田谷区の「砧下浄水所」の続きです。
構内の施設は東京都水道局の許可を得て撮影しています。
通常は構内の見学はできません。敷地外からの見学は可能です。



シリーズでアップして来た砧下浄水場の最後は、
その他の施設です。
旧ポンプ棟に隣接して建つ旧事務所棟は、
操業開始の翌年、1924年(大正13年)築といわれ、
窓枠がアルミサッシュに変更されている以外、
操業時の様子を今に伝える貴重な建物です。







かつての濾過池跡。
近年まで使用していたようですが、
ゴミの除去などの効率を考慮して、
今では使われていません。
画像奥の中央に写るのが砂洗室で、
濾過に必要な砂を洗浄する施設。
地味な外観ながら、
操業時の1923年(大正12年)築といいます。







これは取水ポンプ棟のすぐ横にあった水飲場施設。
コンクリートの質や劣化具合からいって、
創建当初の頃のものではないでしょうか。
今では、ほとんど用をなさないほど崩れています。







旧ポンプ棟の近くにある水飲場施設。
こちらも、その意匠から、おそらく創建当時頃のものと思います。







最後は敷地外へ出て、
多摩川河川敷の土手の上にあるとんがり帽子の空気抜き。
多摩川の伏流水を取り込む途中、
水道管の中で膨張する空気を抜いて、
管の劣化などを防止する装置です。



これ以外にも後年に設営された現行の施設がいくつもありますが、
それらは割愛させて頂きます。
これまでアップして来た創建時の記憶を今に伝える建物群は、
劣化が激しいため、内部へは入れない状態となっています。
このまま劣化が進めば、いずれは建て替えられてしまうかもしれません。
しかし、水道事業の黎明期を今に伝える貴重な建物なので、
現代の建築施工技術を駆使して、
なんとか存続させてもらいたいものです。

砧下浄水場03:取水ポンプ棟

2016-06-07 03:32:54 | 産業遺産
前回からアップしている、
近代水道事業の黎明期を伝える施設、
世田谷区の「砧下浄水所」の続きです。
構内の施設は東京都水道局の許可を得て撮影しています。
通常は構内の見学はできません。敷地外からの見学は可能です。



前回アップした発電棟と同じ年の、
1932年(昭和7年)に建設された取水ポンプ棟は、
スクラッチタイルとアールデコ調のレリーフがいたるところに施された、
壮麗な建物です。
取水ポンプは、隣接する多摩川から水を取り込むポンプのことで、
おもに伏流水(ふくりゅうすい/地下水)を汲み上げていたようです。







正面の壁面に施されたエンブレムや、
先端に凝った意匠をあしらった柱状のレリーフ。
そして車止めの天部にまで造り込まれた装飾は、
これが公共施設の、しかも一般に公開されない施設かと思うほどです。







建物の正面のみならず、
側面にまでバランスよく施工されたデザインは、
ただ驚かされるばかりです。







建物のみならず、
玄関の両側に施工された植え込みにまで施されたデザインを見ると、
この施設に対する思い入れの強さが伝わってきます。

砧下浄水場02:旧発電棟

2016-06-06 03:25:03 | 産業遺産
前回からアップしている、
近代水道事業の黎明期を伝える施設、
世田谷区の「砧下浄水所」の続きです。
構内の施設は東京都水道局の許可を得て撮影しています。
通常は構内の見学はできません。外周からの見学は可能です。



前回アップした旧ポンプ棟に隣接して建つのは、
旧発電棟と呼ばれる建物。
全面黄土色のスクラッチタイルで囲み洋瓦を乗せた、
こちらも昭和初期モダンスタイルの典型的な建物です。







特にRが美しい外階段は、
その色とデザインで、この建物を特徴づけます。
決して現代では造り得ない、
この時代ならではの趣を湛える素晴らしい外階段です。






当初、浄水場の電力は、京王電鉄からの購入でまかなわれていました。
しかし、緊急時の対応を考慮して、
自家発電に切り替えられた時に建設されたものです。







外階段の横の壁面に「工竣月八年七和昭 町谷澀」の銘板があります。
澀は渋の旧字。この施設が渋谷町によって造られた証です。
1923年(大正12年)に開業した浄水施設は、
1932年(昭和7年)に東京都の水道局に移管します。
ですので、この施設は渋谷町が運営した時代の、
最後の頃の施設ということになります。

砧下浄水場01:旧ポンプ棟

2016-06-05 02:29:44 | 産業遺産
「東京水」の名で販売されるほど美味しい東京の水道水。
その黎明期を伝える施設が、
世田谷区の砧(きぬた)というエリアにあります。

砧には「砧浄水場」と「砧下浄水所」の2つの浄水所があり、
今回訪れたのは「砧下浄水所」。
田園都市線の二子玉川から徒歩で約30分。
多摩川の河川敷沿いにある浄水所です。
Google Map

元来、東京の南西部は水質が悪く、
さらに大正初期からふくれあがった人口による水不足に対応すべく、
水道事業は急を要しました。
近代水道の父といわれる中島鋭治博士の指導のもと、
浄水場から給水施設、そして水道網が完成したのは1923年(大正12年)のこと。
この時に建造された配水施設の駒沢給水塔は、
その特異な外観から広く世間に知られています。



現在は東京都の水道局が管理する施設ですが、
かつては渋谷区の前身である渋谷町が運営した浄水場でした。
創建時は浄水場と呼ばれ、現在では浄水所となっています。
現在も現役の浄水施設なので、
当然警備は厳しく、今回は取材で許可を頂き、
見学することができました。







門柱に掲げられた手書きの看板が、
時代を感じさせてくれます。
なお、浄水所は過去に2回、一般公開の見学会が開かれていますが、
建物の老朽化が進行しているため、
現在では、見学会の開催予定はないそうです。







門から入ってまず目につくのが、
真っ青な瓦屋根の中央に尖塔を持つ「旧ポンプ棟」は、
大正12年の創業時に建てられた場内で最も古い建物で、
創建時の記憶を今に伝えています。
当初は多摩川からの揚水と駒沢配水塔への送水の、
両ポンプが設置されていました。







送水ポンプ棟の正面中央。
壁面の細部にまでアールデコ調のレリーフが施された、
素晴らしい昭和初期モダン建築です。







裏側にまわってみます。
正面に限らず、建物の外周すべてに気が配られた建物からは、
創建当時の水道施設への思いが伝わってきます。







こんな小さな施設にまで、
しっかりとデコ調のデザインが。







建物中央の上部に設置された銅板の尖塔は、
都内最古の駅舎である原宿駅を思い出します。
(画像クリックで原宿駅が表示されます)
原宿駅は1924年(大正13年)築なので、
このポンプ室と同じ時代の建設です。

名組湾の鉱石運搬軌道

2014-03-02 11:10:08 | 産業遺産
国内初の廃道DVD『廃道クエスト』リリースから1年、
新作廃道DVD『廃道ビヨンド』のリリースを前に、
作品に収録した物件の探索リポートをアップしています。



その前に本日『廃道ビヨンド前夜祭』@東京カルチャーカルチャーが、
無事終了致しました。
会場にお越し頂いた方々、
そして最後のところだけでしたが、Ustでご覧になって頂いた方々、
ありがとうございました!m(_ _)m
イベントは終了しましたが、
今回収録した物件の探索はまだ残っているので、
そろそろとアップして行こうと想います。



離島の廃道撮影でやって来た神津島の初日が天候に恵まれず、
撮影が翌日に延期になったので、島内を散策した時のリポート。
前回はDVDには未収録の大黒根の廃隧道でしたが、
今回はそのすぐ近くにあった鉱石軌道跡にちょっと寄り道。

神津島・名組湾の鉱石運搬軌道

google mapで見るとmapでは当然表示されませんが、
航空写真に切り替えると、しっかりと軌道の跡が写っています。
ほぼ中央を少しずつ曲がりながら、左右に伸びている筋がその軌道跡です。
この場所が面しているのは名組湾という湾で、
その名前がつい名組湾の鉱石運搬軌道跡と呼ばれているようです。





神津島・名組湾の鉱石運搬軌道

車道から防風松林越しに軌道跡がみえますが、
コンクリートの橋脚が波風で劣化して自然石のようになり、
あたかも海岸にあった岩肌をくり抜いて造った様な感じで、
なんか妙な光景です。
この光景を見た時に、もう10年以上も前に、
ウェブで見て一度行ってみたいと想いながら、
すっかり忘れていた軌道跡だったことを思い出しました。





神津島・名組湾の鉱石運搬軌道

軌道跡の背後には神戸山という山があり、
その山から採掘される坑火石という、
主に建材に使われる石の運搬のための軌道跡です。
採掘した鉱石を海岸線までは索道で運び、
そこから港までの運搬に、このトロッコを使っていたようです。
画像の頂上付近の山肌は崖崩れか採掘跡かは分かりませんが、
山頂には今でも採掘現場が残されています。





神津島・名組湾の鉱石運搬軌道

荒涼とした瓦礫が一面に広がる山頂には、
ところどころに石切場の跡が残っています。
採石は昭和17年(1942)に始まり、
平成12年(2000)まで続いたというので、
50年以上の長きにわたって採掘されていたことになります。
戦中に採掘が開始されているのはちょっと気になるので、
機会があったら郷土史でも見てみようと想います。





神津島・名組湾の鉱石運搬軌道

採掘は50年以上続いたものの、
索道&トロッコによる積み出しは昭和30年代には終了し、
その後はトラックによる運搬に変わっていったそうです。
なので、トロッコの軌道跡は、
約50年、風雪波浪に耐えて来たわけですね。





神津島・名組湾の鉱石運搬軌道

近づいて見ると、レールや枕木はないものの、
かつてトロッコが走っていた様子を
彷彿とさせるような橋脚にびっくり。





神津島・名組湾の鉱石運搬軌道

かつてレールがあった時の光景。
1つ前の画像の奥の方の部分だと想いますが、
レールがあってもなくてもさほど印象がかわりません。





神津島・名組湾の鉱石運搬軌道

ためしに橋脚の中へ降りてみました。
これまた摩訶不思議な光景です。
橋脚の下部を見ると、フジツボなどが付着しているので、
橋の下部は時により海水に浸ることもあるのだと想います。





神津島・名組湾の鉱石運搬軌道

橋脚のしたの砂地には、
真っ赤に錆び付いた鉄の車輪が眠っていました。
確かに、トロッコが運行していたんですね。





神津島・名組湾の鉱石運搬軌道

少し海の方へ移動してみました。
劣化が激しい橋脚。
特に、画像右奥の橋脚などは既に折れてしまってます。





神津島・名組湾の鉱石運搬軌道

更に海よりに進み、軌道が橋脚ではなく、
自然の岩石を路盤として利用している所へたどり着くと、
そこには枕木がしっかりと残っていました。
おそらく自然石を削り取って軌道スペースを確保し、
路盤にコンクリートを流し込んで、
そこに枕木を敷いたんだと想います。





神津島・名組湾の鉱石運搬軌道

枕木の残る路盤を進み、海っ端までたどり着くと、
「ポンプ」と呼ばれた船積み施設にたどり着きます。





神津島・名組湾の鉱石運搬軌道

当時の写真を見ると、
極めてシンプルな構造の船積み施設だったことが分かります。

人知れず働き、人知れず廃止され、
そして悠久の時を刻みながら眠りにつく産業廃墟。
廃道撮影で訪れた神津島でしあたが、
おもわぬ発見がありました。

巌窟ホテルと岩室観音

2013-12-18 02:53:34 | 産業遺産
前回の記事でアップした吉見百穴の見学は、
所用の後の訪問だったので、
じきに日も暮れて来たので帰途につくと、
道沿いに金網のフェンスで封鎖されたエリアがあり、
その奥に百穴と同様、岩肌を穿ったあとが見えました。
そうそう、吉見百穴のすぐ近くには『巌窟ホテル』がありましたね。
すっかり忘れていました。

巌窟ホテル

明治から大正にかけての21年間、
一人の男がノミ一本で彫り上げた伝説の穴蔵跡。
「巌窟を彫ってる」が転じて、
『巌窟ホテル』と呼ばれる様になったとか。





巌窟ホテル

かつては見学もでき、多くの観光客で賑わったそうですが、
今はもう入ることはできません。
部屋は勿論、家具から花瓶まで、
完全に岩を彫り貫いて作られた内部は、
一度見てみたいものです。





巌窟ホテル

目の前には『巌窟売店』
御休所の下には小さく「巌窟ホテル発掘の家」とあります。
時間が遅かったのでやってなかったのが残念。
温泉入口の看板と土産物店兼御休所。
ほっこり観光地の見本の様な光景は心和みます。





岩室観音堂

巌窟ホテルもいいのですが、
隣接して建つ古色蒼然とした建物に惹かれました。
岩を穿って観音様を祀ったことから
『岩室観音堂』と言うのだそうです。
創建は800年の初頭とも。
秀吉の松山城攻略の時に焼失し、
現在のものは江戸中期に建てられたものだとか。





岩室観音堂

敷地に入ると確かにくり抜かれた岩の中に観音様が沢山。
この他にも、お堂の下部がやはり岩をくり抜いた状態で、
沢山の観音様が並んでいます。
堂内に安置された観音様は全部で八十八体。
どれもが四国八十八ヶ所の本尊に似せて造られているそうです。
四国へ行かずともお遍路が出来ちゃうノリは、
富士塚にも共通しますね。





岩室観音堂

御堂の一階にはやたらと急な階段があり、
二階へ昇れます。





岩室観音堂

御堂の二階からは奥の山の景色が見えます。
と言ってもご覧のように鬱蒼と繁る森。
石畳があるので一見平坦のように見えますが、
奥に行くに従ってかなりの急斜面です。
石畳の先を登ると、
石田三成に陥落された松山城跡だそうですが、
もう暗いので断念、

画像中央に写る岩肌の見える大きな石の左側は、
岩肌を昇る急斜面になっていて、
その奥に「胎内くぐり」があるといいます。
もうあたりはかなり暗いですが、
とりあえず行って見ることに。





岩室観音堂

補助用に設置された鎖を頼りにつるつる滑る岩肌を昇ると、
そこにはかがんでやっと通れる位の狭い胎内くぐりが。
「諸難を除き、安産その他の願いごとが叶うと言われている」
だそうです。





岩室観音堂

胎内くぐりは国内に数多ありますが、
基本的には女性の胎内に模して、
そこを通ることによって生まれ変わり、
魂の浄化を行なうための装置です。

死後も次の世界へ行ける様にとの配慮から、
横穴式に造られた吉見百穴を見て、
エジプトの死後の世界観を思い出しましたが、
胎内くぐりもまたエジプトを連想させます。

世界最大のピラミッドは未だにその目的が分かっていません。
様々な説がありますが、その中の1つに興味深い説があります。

大ピラミッドの中には大回廊と呼ばれる急傾斜の広い通路があり、
その手前に外界と繋がる極めて細い通路があります。
これらを女性の胎内に模し、
王子が玄室である日数を過ごし、
やがて大回廊から細い通路を通って外へ出た時に、
王、すなわちラーとなって復活する
という説です。
すなわち、ピラミッド=胎内くぐり説ですね。

吉見百穴と岩室観音、
埼玉県のほっこり観光地で意外にも、
古代エジプトに想いを馳せてしまいました。

吉見百穴

『産業遺産の記録』出版記念トーク

2013-02-14 01:11:06 | 産業遺産


既に以前の記事でお伝えした、
昨年秋に発売された『産業遺産の記録』(三才ブックス)ですが、
その出版記念イベントが、
今週末、2/16(土)に下北沢で行なわれます。
発売時に大阪で行なわれたイベントの東京版としての第二弾です。

出演は、
ワンダーJAPANの編集長 関口さん、
ムック監修のJヘリテージからは近代建築を担当された北夙川不可止さん、
そして私の3人で、
産業遺産と廃墟、近代建築の魅力、軍艦島リポート、産業遺産と観光など、
産業遺産にまつわるあれこれのトークセッションです。

お時間のかる方は是非おこしくださいませ!

◆ワンダーJAPAN PRESENTS◆
◆『産業遺産の記録』出版記念トーク!◆


日時:2012年2月16日(土)19:00~21:00 (18:30開場)
会場:本屋B&B
世田谷区北沢2-12-4 第2マツヤビル2F
入場料 :1500yen + 1 drink order
出演:北夙川不可止(J-heritage)
   黒沢永紀(オープロジェクト)
   関口勇(ワンダーJAPAN)

詳しくはこちら→B&B スケジュール


足利鉱山

2012-12-22 03:10:00 | 産業遺産
前回アップした廃道の取材リポートの冒頭で取り上げた、
栃木県足利市にある越床峠の取材に行った際に、
次のロケ地へ移動しようとすると、四駆に乗ったヒップなおじさんが近づいて来た。
テンガロンハットにデニムの上下、ベルトはD&Gと、
栃木県足利市の山奥には不釣り合いな出で立ち。
おじさんとしばらく話しているうちに、
越床峠の横に広がる鉱山を見学させてくれる、という話になった。
ちょうど『産業遺産の記録』という本をお手伝いさせ頂いた時期でもあったので、
現役の鉱山を見てみようと思った。

足利鉱山

足利鉱山は珪石を露天掘りで採掘している鉱山。
広大に削り取られた珪石の山が印象に残る。





足利鉱山

その光景はさながら映画『未知との遭遇』の、
デビルズ・タワーとその奥に作られたコンタクトステーションのよう。
すりばち状に削り取られた低地には、
きっとマザーシップが着船できるにちがいない。
それはさておおき、
この鉱山はNHK大河ドラマ『太平記』の戦闘シーンにも使われたという。
画像中央の珪石が積まれた丘に陣地が作られ、
合戦シーンが撮影されたそうだ。





足利鉱山

敷地内には合戦シーンだけではなく、
他の美術的設備も作られたようで、こちらは現在でも残っている。
1991年のオンエアーなので、その後の年月で廃墟状態になったのかと思いきや、
当時、ほぼこの状態でセットが組まれていたという。
この木の感触等、美術スタッフの力量に感服。





足利鉱山

太平記の話はさておき、鉱山の施設を端から案内頂いた。
まず、最初の原石ポケット。
対象物がないので規模が分かりずらいが、
幅が5m位、中央に写る鎖の一つが30cmはあるだろうか。
鎖はかなり重量があるので、
その重さで大きな鉱石を選り分けるということだった。





足利鉱山

鎖の奥の穴の内側からの眺め。
多少傾斜がついているので、そのまま手前へ転がってくるのだが、
傾斜の床面にスリットが施されている所をみると、
今度は必要以上に小さな鉱石も、
このスロープで分別しているようだ。





足利鉱山

選別された鉱石はスロープから手前のポケットへ落ちる。
ポケットの奥には波板状のコンクリートがあるだけにみえるが、
これが前後に移動し、鉱石を細かく砕くクラッシャーということだった。
珪石を砕くのも結構たいへんなのか、
敷地内には、歯がだめになって使わなくなったクラッシャーが放置されていた。





足利鉱山

砕かれた鉱石はベルトコンベアーで運搬され、
次のクラッシャーにかけられてさらに細かくなる。





足利鉱山

粉砕の行程を3回ほど行なったら、
右端に写るサイロの様な構造のものに蓄えられるそうだが、
これでもう製品が完成。





足利鉱山

このサイロには製品になった珪石が蓄えられていて、
下からトラックに積んで出荷する。

そこには通洞や斜坑もなければ、選鉱も砕くだけで、
シックナーとか浮選機とかも全くない。
もちろん製錬等もない。
なんとシンプルな構造の鉱山だろうか。





足利鉱山

一通り鉱山施設を見学した後、
鉱山が一望出来る山へ案内して頂いた。
その全貌は地上で見ているより遥かに大きく感じる。
ちなみに、画像の右端に写るカーブする道路が、
越床峠の廃道。

頂いた名刺にはお名前しか無く、
鉱山関係の方だとは分かったが、とりあえず検索してみると、
なんと鉱山のオーナーの方だったようだ(汗)
貴重な体験をありがとうございました。

でもおかげでその日予定していたロケは、
半分しかできなかった。orz

向山炭鉱の全貌

2012-11-28 00:46:37 | 産業遺産
以前の記事で一度取り上げたことのある、
佐賀県伊万里市にある向山炭鉱跡。
その時は海岸線の遺構しかわからず、
小規模な炭鉱だったんではなかいと思っていました。
しかし、先日『向山』というタイトルの、
おそらく閉山時かそれ以降に編纂されたと思われるアルバムを発見し、
実は向山炭鉱が巨大な炭鉱施設だったことを知りました。

向山炭鉱跡

これがその表紙です。
閉山記念ともなんとも書かれておらず、
また奥付にも年号のクレジットがないので、
いつ何の為に作られたアルバムかはわかりません。





向山炭鉱跡

しかし表紙をめくると最初に織り込みの地図があり、
なんとそこに向山炭鉱の全貌が書かれてあります。
※クリックすると施設名が読めるサイズの画像が見れます。
※小さい場合は、拡大や「実際のサイズで見る」にすると見れます。
この地図を見る限り、海岸から内陸に向かって、
少なくとも3km奥まで炭鉱施設があったように書かれています。
また坑口もざっと見ただけで3つはあったようで、
その規模の大きさがうかがえます。

なお地図の中央左よりに制作者のかたのコメントがありますが、
それを見ると「昭和63年(1988)」の年号があり、
また地図の作成者の成坂さんは、
奥付に「撮影・複写・編集」のクレジットがあることから、
恐らくこの写真集はその頃印刷されたものではないかと思います。





向山炭鉱跡

向山炭鉱の創業は大正元年(1912)にまで遡ります。
写真集ではただ「坑口」と書かれ、向山の最初の坑口とありますが、
果たしてそれが何と言う坑口かはわかりません。





向山炭鉱跡

地図のほぼ中央に「本坑口」の表記がありますが、
この写真が本坑口のようで、
確かに入坑口のアーチ上には「本坑」と書かれています。





向山炭鉱跡

写真集には「一枚坑坑口」と書かれた写真もありますが、
地図を見る限り、そのような名称の坑口はみあたらず、
逆に地図には「西坑口」(下より) や「新坑口」(上部右より) などがあり、
坑口もかなり造られていたことが分かります。
なお巻末の略年表を見ると、一枚坑という坑道は、
閉山間際の昭和35年(1960)に開発された坑道のようなので、
この地図に描かれた様子は、造られる直前のものなのかもしれません。





向山炭鉱跡

坑内も複線軌道だったようですね。





向山炭鉱跡

降炭エンドレス軌道。
エンドレスとはエンドレス状態のロープを回転させ、
そのロープに付いた引っかけに車輛を連結して運搬する方法。
写真を見る限り、地上施設もかなりの規模だったことがうかがえます。
またトロッコが木製なのが時代を感じさせてくれます。





向山炭鉱跡

そのほか、主に女性が従事した、
掘り出された鉱石から、石炭とそれ以外の廃石を選り分ける、
手選と呼ばれる作業場の光景や、





向山炭鉱跡

バウム水洗機と呼ばれる、近代的な石炭の選別機など、
炭鉱施設の詳細がわかる写真が多く掲載されています。
残念なのは、全ての写真に撮影年月などが書かれていないので、
どれがいつ頃の写真かまったく分からないことです。





向山炭鉱跡

これは地図で言うと右上寄りに書かれた新坑口付近の様子だと思います。
画面中央から左に目を移すと、縦に黒いものが蛇行して並んでいるのが見えますが、
これが石炭等を運搬するトロッコの車列で、
その最下部のちょっとクネっと左に曲がった所が新坑口です。
そして海に向かって桟橋が延び、その先に船積み施設が見えますが、
これがまさに以前の記事でアップした、
海上に残骸として残る遺構の部分です。
また画面左上寄りに白く四角い建物のようなものが見えますが、
これが坑道からトロッコを引き上げる捲上機がある施設。
そして、以前の記事の2番目にアップしてある画像が、
その施設の土台だったところになります。





向山炭鉱跡

また写真集には炭鉱のものばかりでなく、
当時の生活を伝える写真も多数掲載されています。
写真の下には「川南工業各工場対抗」の野球大会とあり、
昭和21年8月25日の日付も見えます。
川南工業とは、通称「伊万里造船所」の名でも知られる、
伊万里湾に面した海岸沿いにあった巨大造船所のこと。
昭和12年(1937)に、向山炭鉱は、
川南工業に譲渡され、以降川南工業の経営下になります。

そしてこの記念写真の背景に写る建物が、
おそらく川南工業造船所の建物だと思いますが、
完全な迷彩塗装の跡が見てとれます。

川南造船所は、戦中、軍用船の製造を行ない、
特に末期には特殊潜航艇の製造を行なっていたので、
当然、迷彩塗装を施す必要があったのだと思います。

この造船所に関しては、拙ブログでは特に詳しくアップしていませんが、
iPadやiPhoneをお持ちの方は、
iOSアプリ廃墟百花『さよなら、川南造船所』
をご覧になって頂ければと思います。(無料です)





向山炭鉱跡

「配給所内部」と書かれた写真。
男性の服装、そして配給所という言葉から、
恐らく戦中のものではなかと思いますが、
随分と充実した品揃えの配給所のように見えます。





向山炭鉱跡

浴場の風景。
子供たちが入っていることから、住宅棟内の浴場だと思いますが、
なんと24時間いつでも入浴可、さらに薬湯まであったと書いてあります。
例えば拙ブログでもよく取り上げる軍艦島こと端島炭鉱などを例にあげると、
住宅棟内の共同浴場は16時から21時と時間制限があり、
ましてや薬湯があったとは、一度も聞いたことがありません。
向山炭鉱の裕福な暮らしぶりがうかがえます。

向山炭鉱は昭和38年(1963)に閉山しますが、
約50年にわたる操業ですから、その期間も決して短くはありません。

もし機会があったら、
地図を頼りに向山炭鉱跡を探索してみたいと思います。

足尾銅山 #10 選鉱場2

2012-11-13 08:34:56 | 産業遺産
8月の頭にブログでご案内した、
足尾銅山の写真家、橋本康夫氏の追悼写真展に、
会期の最後となる9月末に訪た時の足尾銅山のリポート。

前回に引き続き通洞選鉱場。

足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

前回の最後に触れた重液選鉱によって選別された鉱石は、
ボールミル[磨鉱機]と呼ばれる、
鋳造された硬質な玉が1000個入っている装置に入れられ、
0.3m以下まで粉砕される。
すなわちここでほぼ粉状態になる。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

上画像の反対側真横からの外観。
ボールミルもクラッシャー同様大きく、
立ち位置目線で機械の約半分の高さなので、
総高は約3mということになるだろうか。
重液で選別された鉱石は左から入り、
粉状となって右へ排出されるが、
左側の鉱石の注入口付近を見ると、





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

硫酸銅が大量に付着していた。
子供の頃、緑青は毒だと聞かされたが、
どうやら昭和の都市伝説だったらしい。
それにしても、銅が酸化した青緑色には、
不思議な魔力を感じる。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

ボールミルの頭上高くには、
床面のそこかしこに穴が空いている、
取って付けた様な部屋があった。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

中を見ると、壁一面にコントロールパネルがあるので、
どうやら集中管理室のようだ。
この部屋は選鉱場の立屋の中にあるのだが、
なぜか天井が抜け落ち、床一面に植物が繁茂している。
部屋の奥にはナショナルのNRシリーズの冷蔵庫。
思えばこれまで見て来た足尾は、
産業にまつわる遺構が織りなす異空間ばかりで、
時代を感じることは無かったが、
この冷蔵庫は足尾で初めて感じた時代感覚だった。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

ボールミルで細かく砕かれた鉱石は、
浮遊選鉱と呼ばれる行程へと進む。
ボールミルがあるレベルから一段下を覗くと、
浮遊選鉱の装置の上部が見える。
冷蔵庫で時代を感じたのもつかの間、
再び産業遺産の異空間へと引き戻される。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

足尾銅山の主要な鉱石は黄銅鉱だが、
こまかく砕かれた鉱石には石英が多く含まれているため、
それを分離する必要がある。
浮遊選鉱は、石英が水となじみやすく、
黄銅鉱が水と分離しやすい特質を利用し、
必要な鉱石だけを選別する装置。
粉状の鉱石を水の入った木箱に入れて撹拌すると、
黄銅鉱は泡とともに浮いてくる。
この泡を回収したものが精鉱と呼ばれる。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

浮遊選鉱によって抽出された精鉱は、
その後ドルシックナーと呼ばれる沈殿槽で分離される。
実際に精鉱の沈殿に使われたシックナーは、
時間が無く見学出来なかったため、
選鉱場内にある別のシックナーをアップするが、
形状は殆ど同等のものだ。





池島炭鉱・オリバーべルトフィルター
池島炭鉱・オリバーべルトフィルター

シックナーで沈殿した精鉱は、その後フィルターで脱水される。
フィルター装置の見学もやはり時間がなく出来なかったため、
参考として池島炭鉱に残るフィルター装置をアップしておく。
形状は足尾銅山で使用されていたものと少し違うが、
大きなドラム状の回転機にキャンバス地の濾過布が付けられていて、
水分を濾過し、必要な精鉱成分だけを抽出する。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

こうして抽出された精鉱は、
選鉱場の上部に運ばれ貯蔵される。
画像は貯蔵場を上から見た光景。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

貯蔵場の側面。
操業時は手前に軌道があり、
貯蔵庫から貨車に積み込まれて運び出されていた。
そして精鉱は本山まで運ばれ、次の製錬の工程へと進む。



以前に空調関連の会社のサイトを制作したことがあるが、
オリバーフィルターなど、炭鉱・鉱山で知った単語の説明が必要だった。
化学系や産廃、そして都市鉱山のプラントなどでは、
いまでも鉱山が開発して来た技術が進化し応用されている。
現代の豊かな生活が、
20世紀の鉱山や炭鉱で培われた技術によって支えられていると思うと、
感慨深いものがある。





足尾銅山・橋本康夫写真展
足尾銅山・橋本康夫写真展

足尾歴史館で2っ月に渡って行なわれた、
橋本康夫氏の追悼写真展は無事終了した。
館の話だと、異例の来館者数だったという。

写真展に先立って、橋本氏の奥様の発案で、
追悼写真集も出版されていた。
そのタイトルは『ヤマと暮らしと人と』
今回、「ヤマ」の一端を見ることはできたが、
鉱住が殆ど残っていない足尾から、
「暮らし」をかいま見ることは殆どできなかった。
次回足尾を訪れる機会があったら、
是非「暮らし」そして「人」を知れたらいいと感じた。

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足尾銅山 #09 選鉱場1

2012-11-12 02:59:23 | 産業遺産
8月の頭にブログでご案内した、
足尾銅山の写真家、橋本康夫氏の追悼写真展に、
会期の最後となる9月末に訪た時の足尾銅山のリポート。

駆け足で見て来た足尾銅山。
最後に取り上げる場所は、選鉱場と呼ばれる、
掘り出した鉱石を選り分ける施設。
選り分けると一言で言っても、その行程は複雑を極め、
資源の採掘産業が、ただ掘り出せばいい、
という問題ではないことがよくわかる。
選鉱場は足尾のシリーズを始めた頃の記事で触れた通洞にある。
かつては小滝、そして本山にもそれぞれ選鉱場があったが、
大正9年(1920)に小滝が、その翌年には本山がそれぞれ閉鎖され、
選鉱は通洞の施設に一本化された。

足尾銅山・選鉱場外観
足尾銅山・選鉱場外観

選鉱場の立屋外観。
炭鉱や鉱山に共通して言えることだが、
鉱石や石炭を選別する施設は、
頑丈な鉄筋コンクリート等ではなく、
以外にもトタン壁で作られていることが多い。
また選別の施設は、主に傾斜した土地を生かし、
上から下へと落としながら行なわれるものが多く、
ここ足尾の選鉱場もその造りを採用している。
画像に写るのは選鉱場の中間部付近。
橋本氏の写真展の撤収作業があるので、
今回はこの中間部しか見ることはできなかったが、
機会があれば選鉱の全行程を見てみたいものだ。





足尾銅山・選鉱場外観
足尾銅山・選鉱場外観

見上げると、上部の選別施設が遥か高くまで作られている。
採掘された鉱石はコンベアなどでこの最上部に運ばれ、
まず大雑把に破砕される。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

大雑把に破砕された鉱石は、
スクリーンと呼ばれる施設を通過する。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

一つ前の画像の上部に写る施設。
左下に写るのがスクリーン。
この穴の大きさより大きい鉱石を右へ、
小さい鉱石を下へ落とすことによって、
いわばアナログな寄り分けが行なわれる。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

スクリーンを通過した鉱石は、
粗鉱ビンと呼ばれる施設に貯蔵される。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

またスクリーンより大きかった鉱石は、
コーン・クラッッシャーと呼ばれる破砕機で、
適切なサイズに破砕される。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

これも上記同様鉱石を破砕する、ジャイレトリー・クラッシャー。
この装置はほぼ身長大だが、
上記のコーン・クラッシャーは、身長の2倍以上はある、
とても巨大な施設だ。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

選鉱場の内部は複雑な迷路状態と化している。
画像の様に、屋外に面した施設の床面には、
人糞サイズの糞がおおく散見出来るが、
おそらく猿のものだろう。
操業を終えた鉄のジャングルは、
今では猿の憩いの場なのかもしれない。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

大きさの揃った鉱石は、再び貯蔵され、次の行程へと進む。
破砕が行なわれた最終段階の場所には、大きな貯蔵庫があり、
その下にずらっと並ぶ吐き出し口は壮観。





足尾銅山・選鉱場
足尾銅山・選鉱場

均一なサイズに整えられた鉱石は、
重液選鉱と呼ばれる選別行程へと進む。
この選別方法は、
昭和23年(1948)に足尾銅山が国内で最初に採用した方法で、
比重の大きな液体に鉱石を投入し、
浮いた石は棄て、沈んだ石(黄銅鉱)だけを回収するシステム。
このシステムの導入に寄って、
女工による手で選り分ける手選の作業が廃止されたという。

これまで見て来た施設は全て、
一番上の画像の道を挟んで右側のものだが、
この画像は道の左側にあたる。
選別の順番から考えると、
このスペースに重液選鉱の施設があったと考えられるが、
現在では施設はなくがらんとしているので、
その詳細は今後継続して調べて行きたい。





足尾銅山・選鉱場外観
足尾銅山・選鉱場外観

斜面の下を見下ろすと、
施設の屋根が階段状に作られているのがよくわかる。
次回は選鉱場の後半の行程を見て行く。

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足尾銅山 #08 本山地区

2012-11-09 17:28:12 | 産業遺産
8月の頭にブログでご案内した、
足尾銅山の写真家、橋本康夫氏の追悼写真展に、
会期の最後となる9月末に訪た時の足尾銅山のリポート。

足尾銅山・本山鉱山神社
足尾銅山・本山鉱山神社

前回アップした本山坑(有木坑)の道向かいには、
本山鉱山神社へ通じる道があるが、
道も路傍も、鬱蒼と茂る草に覆われ、
あまり人が訪れていないことがわかる。
鳥居はあるが、扁額がなく、
すでに神社の役割を終えていることを物語っている。





足尾銅山・本山鉱山神社近辺
足尾銅山・本山鉱山神社近辺

神社へ通じる道の途中には、
かつて職員の社宅があったようだが、
今はその痕跡が残るばかりで、
往年の賑わいを感じることはできない。





足尾銅山・職員家族浴場
足尾銅山・職員家族浴場

唯一、草むらの中に残る職員家族浴場の浴槽の跡が、
かつてここに人が住んでいたことを今に伝えている。
楕円形の大小の浴槽が2つ並んでいた。
恐らく大きい方が女性用で小さい方が男性用だろう。
以前アップした、小滝の浴槽よりはゆっくり入れそうだが、
それでも池島の記事で触れた浴槽よりは遥かに狭く、
ゆっくり入る感じでなかったと想像出来る。





足尾銅山・本山鉱山神社近辺
足尾銅山・本山鉱山神社近辺

奥へ進むと、
規模の大きめな建物の廃墟が一軒だけあったが、
往年の姿を想像するには、崩れすぎている。
この建物を越えて先に進み、
沢の小橋を渡った先の丘の上に神社はあるようだが、
既に橋はなく、また次の撮影の予定もあるので、
社殿の見学は次回へ見送ることにした。





足尾銅山・本山動力所
足尾銅山・本山動力所

神社へ通じる道を戻り、本山坑に隣接する道を東へ進むと、
道沿いに動力所や変電所が建ち並んでいる。
この傾いた建物は、本山動力所と呼ばれる、
削岩機の動力源である圧縮空気を作り出す施設。
ここまで傾きながらもよく持ちこたえていると思うも、
木造なため、その崩壊は時間の問題かもしれない。





足尾銅山・コンプレッサー
足尾銅山・コンプレッサー

動力所の中には今も大正3年(1914)に設置された、
ドイツ製のコンプレッサー「インガーソルランドPE-2」が、
静かに眠っている。
重油の香りを伴った黒光りする鉄の塊は、
堂々とした産業遺産の風格を漂わせていた。





足尾銅山・製錬所
足尾銅山・製錬所

更に東へ進むと、足尾銅山最大の施設の一つ、
本山製錬所がある。
製錬所は既にその多くの施設が解体され、
その全貌はもはやかつての写真などでしか知ることができない。
やはり時間がなく、製錬所の見学も次回の楽しみとなったが、
入口ゲート付近に建つ精鉱庫の壁面には、
以前の通洞の記事でも触れた、
戦中に塗られた迷彩塗装の跡がはっきりと残っていた。
この建物は細長い形をしているが、
昭和30年(1955)の写真を見ると、
建物の中央部分約1/3は完全に塗りつぶされ、
いわばのり巻きせんべいの様な状態が写っている。





足尾銅山・古河橋
足尾銅山・古河橋

精鉱庫の横には、
明治23年(1890)に架けられた古河橋が今も残っている。
竣工してほどなく、
国内初の実用電気鉄道を敷設したそうだが、
現在は木製床の歩道橋として使われている。
バランスのいいトラスと雰囲気のある木製の床面は、
感動すら覚える美しさだ。





足尾銅山・砂防ダム
足尾銅山・砂防ダム

製錬所から北へ行くと、
やがて足尾砂防ダムへと通じる。
仁田元沢、松木沢、久蔵沢の3河川が交わり、
(記事最下部の地図参照)
ひとたび大雨が降ると、濁流が集中し、
渡良瀬川は大氾濫をおこしたので、
その対策として明治時代に作られたダム。





足尾銅山・松木地域
足尾銅山・松木地域

この日は秋の初めの渇水期だったせいか、
ダムの上流には殆ど水が溜まることは無く、
3河川の川の流れだけだった。
中央に写る土が露出した嶺は、
手前を流れる久蔵沢と奥を流れる松木沢をわかつ嶺。
画像のほぼ中央奥の、山肌が剥げているあたりが松木村。
かつて製錬所が操業していた頃、
その排煙はおもに上流の川の谷にそって遡上し、
特に松木沢の谷間沿いには甚大な被害をもたらしたという。

かつては付近一帯のすべての山が、
排煙によって禿げ山と化していた足尾だが、
閉山後の緑化が功を奏して、
現在では殆どの山々に緑が戻って来ている。

しかしその中で、松木地域だけは、
今も禿げ山の痕跡が残り、
かつての排煙被害を今に伝えている。

googlemap有木坑

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足尾銅山 #07 本山坑

2012-11-01 02:29:14 | 産業遺産
8月の頭にブログでご案内した、
足尾銅山の写真家、橋本康夫氏の追悼写真展に、
会期の最後となる9月末に訪た時の足尾銅山のリポート。

足尾銅山・本山坑
足尾銅山・本山坑

足尾銅山で一番の主力坑道だった本山坑、またの名を有木坑の坑口。
これまで見て来た通洞坑や小滝坑のように周囲をコンクリートで固めていないが、
よく見ると、特に左側に半円形のくり抜きの跡が見てとれる。
本山坑も他の坑口同様、周囲を積み上げた丸太で囲っていたのが分かる。

明治10年(1877)に操業を開始した古河は、
当初有望な鉱脈がみあたらず苦戦を強いられたそうだが、
この付近に点在する、江戸時代から掘られていた鷹の巣坑や本口坑で、
相次いで有望な鉱床を発見し、発展の礎となった。
やがてこれらの坑口を本山坑にまとめ、
閉山まで主力坑道として使われ続けた。





足尾銅山・本山坑
足尾銅山・本山坑

閉山まで使用されていただけあって、
その規模も大きく、作りもしっかりしているが、
周囲には前述の鷹の巣坑や本口坑の他、
鑿ひとつで手掘りした、規模も小さいたぬき堀りの跡も、
沢山残っていると案内板に書いてある。





足尾銅山・本山坑
足尾銅山・本山坑

坑口の横に残る小さな変電所。
いや、トランスなどがないので、
スイッチ室かもしれない。





足尾銅山・本山坑
足尾銅山・本山坑

坑口から少し離れた岩肌沿いに軌道が残っていた。
斜めに傾斜する軌道は、
坑道から出て来たトロッコが移動するためのものだと思うが、 





足尾銅山・本山坑
足尾銅山・本山坑

その先を見ると建物があり、
建物の内部2階部分にはホッパーの跡があった。





足尾銅山・本山坑
足尾銅山・本山坑

更に建物の1階には、
ホッパーからの吐き出し口の様な構造も残っていた。
これらから、坑道から出て来たトロッコが、
鉱石をホッパーに入れ、
この建物から選鉱所へ搬出されていたと考えられるだろう。
しかし、道に掲示された案内板には、
ちょうどこの建物の付近に、音楽堂と書かれてあった。





足尾銅山・本山坑浴場
足尾銅山・本山坑浴場

建物の前には浴場があった。
今はもう上屋は無くなってしまっているが、
小滝の浴場よりは遥かに規模も大きく、
また床面のタイルが残っているので、
なるほど浴場だったんだと納得がいく。





足尾銅山・本山坑スケート場
足尾銅山・本山坑スケート場

案内板を見ると、浴場の横にスケート場と書いてある。
鉱口のすぐ近くに浴場というのはわかるが、
スケート場とはどういうことだろうか?
実際にその場所を見てみると、
確かに周囲をコンクリートで固めた浅いプールのような構造が残っている。
大きさは25m四方くらいだろうか。
スケートをするにはちょうどいい大きさだ。
しかしなんでまたスケート場なのだろうと思うも、
橋本氏の写真展が開催されていた通洞の足尾歴史館の横の敷地も、
かつてはスケートリンクだったそうだ。
足尾とスケート、その繋がりは気になるところだ。





googlemap有木坑

本山坑周辺の施設跡は、地図のちょうど5の付近にあたる。

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足尾銅山 #06 足尾駅

2012-10-31 01:38:51 | 産業遺産
8月の頭にブログでご案内した、
足尾銅山の写真家、橋本康夫氏の追悼写真展に、
会期の最後となる9月末に訪た時の足尾銅山のリポート。

足尾銅山・若竹食堂
足尾銅山・若竹食堂

前回アップした小滝の撮影を早々に切り上げ、
本来の撮影を済ませる頃には昼をおおきく回っていた。
次の目的地へ移動する前に昼食をとろうとしたが、
足尾から少し南下した撮影場所界隈には店が一軒もないので、
通洞へ戻って店を探すも、
町に数件しかない食堂に迷う余地はなかった。
そのうちの一つ、若竹食堂へ。





足尾銅山・若竹食堂
足尾銅山・若竹食堂

注文した親子丼は、まんま家庭の味付けで、
懐かしい美味しさが沁みる。





足尾銅山・足尾駅
足尾銅山・足尾駅

次の撮影目的地へ移動する途中、
趣のある駅舎が目に飛び込んで来たので寄り道。
わたらせ渓谷鐵道の終点から一つ手前の足尾駅だ。
沿線には登録文化財が多いことは以前の記事でも触れたが、
この足尾駅も駅舎やホームなど、多くの文化財を有している。





足尾銅山・足尾駅
足尾銅山・足尾駅

構内に佇む保存車輛と貨物用のホーム。
この上屋もまた木造で味わい深いが、
これも登録有形文化財だということだ。





足尾銅山・足尾駅
足尾銅山・足尾駅

窓枠がアルミサッシュになっているのは残念だが、
こういった木造駅舎が現役で稼働しているのは、
見ているだけで楽しくなる。
ところで足尾の駅はプラットホームがやたらと低い。
画像左下に写る階段もなんと二段。
駅にいる途中ちょうど列車が入線して来たが、
車輛のタラップとホームの間にかなりの隙間が出来ていた。





足尾銅山・足尾駅
足尾銅山・足尾駅

窓枠も、一部は木造のままだ。
海抜640米。
東京で言えば、高尾山よりも高い標高だ。





足尾銅山・足尾駅
足尾銅山・足尾駅

ホームの端には危険品庫がある。
これまた趣のある煉瓦造りだが、同様に登録有形文化財。
さらに砂利敷きのホームも文化財だという。
なるほどこうして文化財に囲まれた駅を見ていると、
確かに時間の積み重ねが生み出す独特なオーラが、
構内を包んでいる様に思えた。





足尾銅山・足尾駅
足尾銅山・足尾駅

この日は気温が高く、Tシャツでも大丈夫な位の暑さだったが、
転轍機にたわむれるトンボが、
秋がそこまで来ていることを告げていた。





足尾銅山・足尾駅
足尾銅山・足尾駅

構内の軌道は、現役線の2本とその外側にある係留線の2本以外、
途切れ途切れのものが多く、殆ど廃線状態と化している。
かつて鉱山が栄えていた頃は、
このヤードに多くの輸送用貨車が停泊していたのだと思うが、
今は観光用のお座敷列車が停まっているだけだった。

googlemap足尾駅

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足尾銅山 #05 小滝地区

2012-10-30 09:40:24 | 産業遺産
8月の頭にブログでご案内した、
足尾銅山の写真家、橋本康夫氏の追悼写真展に、
会期の最後となる9月末に訪た時の足尾銅山のリポート。

前回アップした足尾銅山の銀山平から下ると、
足尾銅山の三大坑道の一つだった小滝坑とその周辺の施設跡へ辿り着く。
実は、今回の足尾訪問は、
オープロジェクト制作の次回作DVDの撮影も兼ねていたので、
2日目は本来そちらへ当てるつもりだったが、
小滝周辺があまりにもいい感じだったので、
結局オープロジェクトでも小滝を撮影することとなった。
ただし本来の撮影もあるので、あまり深入りせず、
道沿いに点在する遺構のみをさらっと見学することにした。
ちなみに「小滝」は「こだき」と濁って発音する。

足尾銅山・小滝橋
足尾銅山・小滝橋

小滝で最も目につくのは、全身錆びつた小滝橋だ。
明治20年(1887)に銅山便道すなわちガソリンカーの軌道が敷かれ、
その中で唯一残った橋だそうだ。
錆の色からは鉄橋のように見えるが、
説明板には「銅橋」と書いてるので、銅製なのだろうか。
軌道の狭い便道の橋だけあって、こじんまりとしているが、
それがこの橋に趣を与えている。
そして橋の先には小滝の坑口跡が見える。





足尾銅山・小滝橋親柱
足尾銅山・小滝橋親柱

現在唯一残るこの橋は、
大正15年(1926)に架けられたものだ。
今でも草に埋もれながら、建設時の年号を刻んだ親柱が残っているが、
「功」の字が時代を感じさせてくれる。

ここで足尾主要3坑道の位置関係をまとめておきたい。
とにかく足尾は広く、最初は何処になにがあるのか分からなかったが、
足尾にいるうちに、少しずつその全貌が見えて来た。

足尾銅山・足尾銅山簡略地図
足尾銅山・足尾銅山簡略地図

小滝坑と有木坑(本山坑)はもともと江戸時代から採掘されていた坑道で、
明治以降に拡張され、貫通されることとなった。
そしてその貫通した坑道のほぼ真ん中に通洞からの坑道が連結し、
主要の坑道はおおよそTの字の様な構造だった。
通洞と小滝は直線距離で約3km、小滝と有木も約3km、
通洞と有木が約4kmといった距離感だ。
そしてその中心にあるのが備前楯山という凛とした名前の山。
足尾は周囲を沢山の山に囲まれているが、
銅を採掘できるのはこの山だけだった。





足尾銅山・小滝橋
足尾銅山・小滝橋

小滝坑の再開発は通洞坑と同じ明治18年(1885)に開始し、
明治26年(1893)に本山坑(有木坑)と貫通、
更に以前の記事で触れた様に、通洞坑とは明治29年(1896)に貫通、
こうして明治の中期に足尾の採掘体制が整った。





足尾銅山・小滝橋
足尾銅山・小滝橋

それまで下駄屋が一軒あるばかりの小滝に、
大正年間には約1万人の鉱山関係者が暮らしたというが、
昭和29年(1954)、鉱山の合理化に伴い、
小滝坑は閉山を待たずに廃止されることとなった。





足尾銅山・小滝坑
足尾銅山・小滝坑

橋の横には小滝坑の坑口が今でも残っている。
通洞坑と同様に、周囲にコンクリートで作られた円柱状の構造は、
かつては木製だったが、その形を残して作り替えられている。
近年まで鉄の柵は無かったようだが、
現在では鉄の柵が作られ、少々見栄えが悪くなっている。





足尾銅山・旧小滝坑口
足尾銅山・旧小滝坑口

小滝の坑口からほど近くには、
更に古い時代の小滝の坑口も残っている。
こちらも手前にフェンスが作られていて、
直に触れることはできないが、
フェンス越しに坑口の前に佇むと、
冷たい風が吹き出しているのを感じる。
視認出来る範囲は塞がれている様に見えるが、
見えない部分は塞がっておらず、坑道に繋がっているに違いない。





足尾銅山・旧火薬庫跡
足尾銅山・旧火薬庫跡

道を挟んで小滝坑の反対側には弾薬庫の跡がある。
弾薬庫と言っても大きな建物などが残るわけではなく、
洞門状に削り落とした岩場の下部に、
弾薬を安置する場所を彫り込んだ質素な造りだった。
その横に建物の基礎らしきものもあるので、
もしかしたら建物もあったのかもしれない。





足尾銅山・穿孔機試掘跡
足尾銅山・穿孔機試掘跡

弾薬庫の横には穿孔機での試掘の跡が沢山残されている。
おそらく先輩に教わりながら、あるいは自主的に、
穿孔機の練習をしたのだろう。
池島炭鉱の炭鉱体験で穿孔機を扱ったことがあるが、
先が細い穿孔機で堅い岩盤に穴を空けるのはかなりのバランスが必要で、
熟練が求められる作業だということがよくわかった。
練習穴のことを知ってから足尾を見直すと、
ここまでの量ではないものの、
穿孔機の練習をした跡がいたるところで散見出来る。





足尾銅山・鉱夫浴場跡
足尾銅山・鉱夫浴場跡

小滝の坑口からほんの少し下ると、浴場跡が残っている。
周囲を楕円形の浴槽が囲み、中央には大小の上がり湯槽という造りは、
まるで湯豆腐鍋のようでもあるが、
驚くのはその規模の小ささだ。
周囲の洗い槽などは膝を曲げてもぎりぎりの幅しか無く、
上がり湯槽もせいぜい入って2、3人がいいところの広さしかない。
説明板には「体の汚れを流し疲れを癒した」とあるが、
どちらかというと質素に汚れを落とし、
素早く上がったんではないかという印象だった。





足尾銅山・鉱成橋
足尾銅山・鉱成橋

小滝地域を貫通する道沿いには庚申川という川が流れているが、
右に左にと蛇行していて、その度に道に橋が架かっている。
そのうちの一つ、鉱成橋の横には、
ひっそりとかつての橋の親柱が残っている。
近年、道路の整備をして僅かながらショートカットした時の名残だろうが、
この他にも、小滝地域にはいくつもの迂回路が残っている。
鉱夫浴場の横にもわずか100m足らずの迂回路があり、
これだけの距離を縮める理由がどこにあったのかと思うも、
そこには土木大国ニッポンの裏事情もあるのだろう。





足尾銅山・青葉寮跡
足尾銅山・青葉寮跡

更に下ると小滝の中心地だった場所に出る。
道沿いに連なる石積みは、
一つ前の記事でアップした銀山平よりはるかに大規模かつ広範囲にわたっている。
この画像の付近は、案内板を見ると「青葉寮」と書かれている。
そのほかにも操業時はこのあたり一帯に小滝会館や鉱業所事務所、
そして庚申川の対岸には社宅や病院等が建ち並んでいたようだが、
今では全て基礎がのこるばかりで、
1万人もいた賑わいを感じることはできない。





足尾銅山・小滝製錬選鉱所跡
足尾銅山・小滝製錬選鉱所跡

明治の小滝坑開発にともなって、
小滝には選鉱や製錬の施設も造られたが、
製錬所はほどなくした明治30年(1897)に、
また選鉱所も大正9年(1920)に廃止された。





足尾銅山・小滝製錬選鉱所跡
足尾銅山・小滝製錬選鉱所跡

山の斜面には今も煉瓦造りの基礎が残る。
当時の製錬所を見ると、壁面は煉瓦造りなので、
現存する煉瓦の遺構は当時のものとも思われるが、
小滝坑が閉鎖される頃は、
この一帯には小滝会館や事務所などがあったと案内板にあるので、
選鉱・製錬施設の基礎を使いながら、
スクラップ&ビルドが繰り返されたのだと思う。





足尾銅山・小滝の碑
足尾銅山・小滝の碑

選鉱所や製錬所があった付近の道向かいには、
小滝で暮らした方々が、小滝を偲んで建てた、
「ここに小滝の里ありき」の碑がある。
そして小滝で暮らした人々は小滝会を結成するが、
橋本康夫氏は小滝のご出身でないにもかかわらず、
小滝会に参加されていた。

今は豊な緑に包まれる小滝地域。
おそらく操業時は今とは違った風景が広がっていたのだとは思うが、
今は今で、足尾の他の地域とは異なった、
心落ち着く長閑な空気が流れている。

足尾銅山と言えば、一般的には鉱毒・煙害事件で知られ、
日本の公害の原点といわれる存在でもある。
しかし小滝地域はその場所から考えて、
あまり鉱毒・煙害の被害にあわなかった地域だと思われる。
更に橋本氏が足尾を訪れた時は、
既に小滝は廃止された後だったはず。

もしかしたら鉱毒・煙害といった殺伐とした足尾に、
希望を見いだせたのが小滝だったのかもしれないと、
そんなことを、自然豊かな小滝を見て感じた。

googlemap小滝地区

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