2007年に廃線になった、茨城県の中部、
石岡駅から鉾田駅を走っていた鹿島鉄道線を、
シリーズでアップしています。
鹿島鉄道線路線図
シリーズの最期は小川高校下駅と常陸小川駅です。
国道355号線を走っていると、畑の向こうに車輛が見えました。
おそらく保存車輛だろうと思い訪れてみると、
かつての車輛が奇麗な姿で野外展示されていました。→Mapion
鹿島鉄道保存車輛
朱色とアイボリーのツートンカラーは、
かつてこの路線をよく利用した頃を思い出させてくれますが、
記憶にある車輛は、もう少し角張っていて、
扉には凹凸のエンボスがあり、窓枠が木製でした。
冷房がなく、天井扇だけがカタカタと回る車内は熱く、
夏は窓を目一杯あけて風を感じたのを思い出します。
鹿島鉄道小川高校下駅跡
保存車輛にほど近く、小川高校下駅があります。
→Mapion
農地の真ん中にポツンとあるのですぐ分かります。
ホームの壁面に残る「未来へ走れ!鹿島鉄道」のペイントが、
虚しさを募らせます。
鹿島鉄道小川高校下駅跡
自然に還りつつある自転車置き場ですが、
ホームではなくこの自転車置き場が、
なぜか今日の時点のMapionには表記されています。
鹿島鉄道小川高校下駅跡
残照に照らされるホーム。
待合室はなく、バス停のような簡易な造りは、
昭和の終わりに造られた新設駅だからでしょうか。
既に線路はなく、ススキが線路跡を埋め尽くしていました。
鹿島鉄道小川高校下駅跡
大正13年(1924)に鹿島参宮鉄道として開業した鹿島鉄道。
昭和4年(1929)に鉾田駅までの全線が開通し、
昭和の前期には、
水泳場をはじめとした各種行楽施設に観光客を誘致するなど、
この路線の全盛期を迎えます。
しかし戦後は、
昭和40年(1965)に関東鉄道の経営下になり鉾田線に、
昭和54年(1979)には鉾田線が分離し鹿島鉄道線にと、
その経営が点々とし、
後年は航空機燃料の輸送に頼るも虚しく、
平成19年(2007)、約80年の歴史に幕を下ろします。
鹿島鉄道園部川橋梁
→Mapion
これまで拙ブログで取り上げて来た廃線跡を思い返すと、
大正10年(1921)に開業し平成22年(2010)に廃止されたくりはら田園鉄道、
大正15年(1926)に開業し昭和42年(1967)に休止となった安比奈線、
戦後すぐに開通し平成になってすぐ廃止になった東京都港湾局専用線など、
いずれも、昭和を駆け抜け、平成に入って消えた鉄道でした。
勿論都市部の鉄道の需要はまだまだありますが、
地方鉄道や貨物鉄道は、昭和という時代に輝き、
そして平成に消えて行った施設なんだと思います。
鹿島鉄道常陸小川駅跡
かつてのターミナル駅だった常陸小川駅には
すでに駅舎も線路もなにもなく、
駅前に小さなバス停があるばかりでした。
→Mapion
鹿島鉄道沿線
→Mapion
四箇村駅から石岡駅までは、
かつての軌道跡が路線バス専用通りに整備されています。
これは、自衛隊百里基地の滑走路を民間共有する、
2010年に開業した茨城空港と石岡駅を繋ぐ、
バス路線としての役割を担っているようです。
茨城空港開設の話題を聞いた時は、
その必要性に疑問を持ちました。
しかし、今回の鹿島鉄道散策の最初に、
石岡から鉾田へ向かう路線バスの中で運転手さんに聞いた話だと、
今、県内の農家で就労する人の多くは中国系の人たちだそうです。
事実厚生労働省発表の統計(ページ最下段)を見ると、
東京と政令指定都市を抱える県を除いて、
岐阜、三重に続き2.5%という高就労率の県になっています。
※政令指定都市を抱える県でも、
茨城より就労率の低い県が多くあります。
そして茨城空港が就航している海外線は上海とソウル。
つまり、県内に膨らむ中国系就労者を考慮しての、
空港の建設だったのではないかと思えて来ます。
また空港からは、ディズニーリゾートへの直行バスも運行しています。
ソウル便は、このあたりをターゲットにしたものでしょうか。
いずれにせよ、
長閑な景色の中をディーゼル車がほっこり走った時代は終わり、
茨城に新しい時代が始まろうとしているのを感じました。
夕日にシルエットを浮かび上がらせる筑波山は、
かつて鉄道が走っていた時と同じ姿でした。
■シリーズ鹿島鉄道線:TOP
★ 廃線跡の記録 2 ★
KLO@廃墟徒然草による鹿島鉄道線のリポート掲載。
その他、鉄道ファンとはひと味違う、
ワンダーJAPANならではの廃線跡の記録が満載。
石岡駅から鉾田駅を走っていた鹿島鉄道線を、
シリーズでアップしています。
鹿島鉄道線路線図
シリーズの最期は小川高校下駅と常陸小川駅です。
国道355号線を走っていると、畑の向こうに車輛が見えました。
おそらく保存車輛だろうと思い訪れてみると、
かつての車輛が奇麗な姿で野外展示されていました。→Mapion
鹿島鉄道保存車輛
朱色とアイボリーのツートンカラーは、
かつてこの路線をよく利用した頃を思い出させてくれますが、
記憶にある車輛は、もう少し角張っていて、
扉には凹凸のエンボスがあり、窓枠が木製でした。
冷房がなく、天井扇だけがカタカタと回る車内は熱く、
夏は窓を目一杯あけて風を感じたのを思い出します。
鹿島鉄道小川高校下駅跡
保存車輛にほど近く、小川高校下駅があります。
→Mapion
農地の真ん中にポツンとあるのですぐ分かります。
ホームの壁面に残る「未来へ走れ!鹿島鉄道」のペイントが、
虚しさを募らせます。
鹿島鉄道小川高校下駅跡
自然に還りつつある自転車置き場ですが、
ホームではなくこの自転車置き場が、
なぜか今日の時点のMapionには表記されています。
鹿島鉄道小川高校下駅跡
残照に照らされるホーム。
待合室はなく、バス停のような簡易な造りは、
昭和の終わりに造られた新設駅だからでしょうか。
既に線路はなく、ススキが線路跡を埋め尽くしていました。
鹿島鉄道小川高校下駅跡
大正13年(1924)に鹿島参宮鉄道として開業した鹿島鉄道。
昭和4年(1929)に鉾田駅までの全線が開通し、
昭和の前期には、
水泳場をはじめとした各種行楽施設に観光客を誘致するなど、
この路線の全盛期を迎えます。
しかし戦後は、
昭和40年(1965)に関東鉄道の経営下になり鉾田線に、
昭和54年(1979)には鉾田線が分離し鹿島鉄道線にと、
その経営が点々とし、
後年は航空機燃料の輸送に頼るも虚しく、
平成19年(2007)、約80年の歴史に幕を下ろします。
鹿島鉄道園部川橋梁
→Mapion
これまで拙ブログで取り上げて来た廃線跡を思い返すと、
大正10年(1921)に開業し平成22年(2010)に廃止されたくりはら田園鉄道、
大正15年(1926)に開業し昭和42年(1967)に休止となった安比奈線、
戦後すぐに開通し平成になってすぐ廃止になった東京都港湾局専用線など、
いずれも、昭和を駆け抜け、平成に入って消えた鉄道でした。
勿論都市部の鉄道の需要はまだまだありますが、
地方鉄道や貨物鉄道は、昭和という時代に輝き、
そして平成に消えて行った施設なんだと思います。
鹿島鉄道常陸小川駅跡
かつてのターミナル駅だった常陸小川駅には
すでに駅舎も線路もなにもなく、
駅前に小さなバス停があるばかりでした。
→Mapion
鹿島鉄道沿線
→Mapion
四箇村駅から石岡駅までは、
かつての軌道跡が路線バス専用通りに整備されています。
これは、自衛隊百里基地の滑走路を民間共有する、
2010年に開業した茨城空港と石岡駅を繋ぐ、
バス路線としての役割を担っているようです。
茨城空港開設の話題を聞いた時は、
その必要性に疑問を持ちました。
しかし、今回の鹿島鉄道散策の最初に、
石岡から鉾田へ向かう路線バスの中で運転手さんに聞いた話だと、
今、県内の農家で就労する人の多くは中国系の人たちだそうです。
事実厚生労働省発表の統計(ページ最下段)を見ると、
東京と政令指定都市を抱える県を除いて、
岐阜、三重に続き2.5%という高就労率の県になっています。
※政令指定都市を抱える県でも、
茨城より就労率の低い県が多くあります。
そして茨城空港が就航している海外線は上海とソウル。
つまり、県内に膨らむ中国系就労者を考慮しての、
空港の建設だったのではないかと思えて来ます。
また空港からは、ディズニーリゾートへの直行バスも運行しています。
ソウル便は、このあたりをターゲットにしたものでしょうか。
いずれにせよ、
長閑な景色の中をディーゼル車がほっこり走った時代は終わり、
茨城に新しい時代が始まろうとしているのを感じました。
夕日にシルエットを浮かび上がらせる筑波山は、
かつて鉄道が走っていた時と同じ姿でした。
■シリーズ鹿島鉄道線:TOP
★ 廃線跡の記録 2 ★
KLO@廃墟徒然草による鹿島鉄道線のリポート掲載。
その他、鉄道ファンとはひと味違う、
ワンダーJAPANならではの廃線跡の記録が満載。