黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

東京陸軍第一造兵廠倉庫の再生

2016-06-03 01:01:13 | ・軍都十条逍遙
2006年にアップした「十条逍遙 275号棟倉庫
あれから約10年。あの廃墟だった煉瓦倉庫は、
北区の図書館の一部として甦っていました。
復活したことは知っていましたが、
今年のはじめにやっと訪れることができたので、
ここにアップしておきます。



廃墟時代の様子は上記リンクをご覧ください。
東京第一陸軍造兵厰の倉庫として使われ、
その後GHQの接収時代を経て民間企業へ。
閉鎖後は廃墟として時間を積み重ねていた通称275号倉庫。
10年前の記事は、その廃墟時代に訪れた時のリポートでした。
その軍事施設が、悠久の時を超えて、
区立図書館の一部として、2008年(平成20年)に復活しています。



北区中央図書館のファザード。
クリックすると、かつての様子が表示されます。
かつては倉庫の背後になにもありませんが、
現在は、図書館のメインの建物が建っています。
細かなディテールは別として、
ほぼ当時の姿と同じような印象を受けますが、







横から見るとその印象は一変。
まるで図書館の建物が倉庫を飲み込もうとしているような外観にはビックリ。
公立の施設で、よくこんな設計が叶ったものだと、
ただ驚くばかりです。







クリックするとかつての外壁が表示されます。
窓枠や出入口などは改装されているものの、
大半を占める煉瓦の壁面がそのままなので、
10年前とそれほど印象が変わりません。
ちなみに廃墟時代の画像の壁面に残る「275」の番号は、
米軍の接収時代に付けられた番号です。







クリックするとかつての壁面の画像が表示されます。
外壁も、その印象はあまり変わりません。
それだけ、廃墟時代の倉庫が劣化していなかったとも言えます。







図書館の中も見てみましょう。
受付カウンターと書庫の間を仕切る煉瓦の壁が、
かつての煉瓦倉庫の外壁。
倉庫の外壁は、そのほとんどが当時のまま使われていて、
約半分が図書館の建物の中に組み込まれてます。
なお、煉瓦壁の内側には、
現代の建築技術によるコンクリート補強がなされているので、
耐震面では安全をきしている、とのこと。
事実、3.11の被害はほとんど無かったといいます。







また、館内にあるラチス構造の鉄骨柱も、
すべてオリジナルのもの&位置で再施工させています。
クリックすると倉庫時代の鉄柱の様子が見れます。







鉄柱の側面には「SEITETSUSHO YAWATA」の刻印。
八幡製鉄所製の鉄柱です。







特に館内の奥に立つ1本の鉄柱は、
その位置をいっさい移動せずに館内に組み込んだもの。
図書館の建設中、
基礎から倉庫時代のまま手をつけずに工事したというから驚きです。







一切手をつけずに甦った鉄柱の基礎部分は、
厚く張られたガラス越しに見学することができます。







さらに、天井のトラス構造も、
接続するリベットが同じ物がないという理由から、
オリジナルの接続のまま、
館内の設計図に従って必要なサイズに切断し、
そのままの状態ではめ込んだそうです。



細部に至るまでオリジナルにこだわった軍事施設の再生は、
その大胆な外観とともに、
これが公共施設の建築か?と思うほど、驚きに満ちています。
この倉庫が、単なる煉瓦倉庫だったとしたら、
かろうじて現存する近代遺産としての煉瓦建築を再生させる、
かっこうのサンプルとなるでしょう。

しかし、問題はこれが軍事施設跡ということです。
恒久平和を望むモニュメントとして残したのだとすれば、
その外観はあまりにもスタイリッシュで、
ともすれば「戦争はカッコいい」と思わせる仕上がりに、
疑問を感じます。

※館内の画像は北区中央図書館の許可を得て撮影したものです。
通常は館内は撮影禁止です。(外観は撮影可能)

十条逍遙<補足> 赤羽台

2006-09-16 05:04:10 | ・軍都十条逍遙


前回で十条逍遙の記事は終わりですが、
せっかくここまでアップしてきたので、
ついでに赤羽もアップしようと思います。

というのも十条に隣接する赤羽の西側の丘陵一帯にも、
兵器を調達する兵器補給廠や、
軍服から防毒マスクなども扱う被服廠の他、
練兵場、射撃場、火薬庫等、
十条~板橋の造兵廠にたがわぬ規模の陸軍施設があったからです。

ただ十条~板橋よりも当時の遺構はかなり少なく、
競技場や団地としてその殆どが転用されています。
そのなかの一つ、
被服廠の広大な跡地に昭和三十八年 (1963) 作られた赤羽台団地は、
当時都内一の規模のモノでした。→Mapion



団地は一度も住んだことがないので、
団地住まいというのがどういう感覚かはわかりませんが、
軍艦島の団地を知ってから、
団地的な集合住宅に興味を持つようになりました。
といっても別になにか調べたりするわけでもありませんが・・・
ただ小学校の頃、団地の友達の家を訪れると、
なにかちょっと他とは違う感じだったのを思い出します。
そんな特別な感情を持たせてくれた団地が、
ここには沢山残っています。



団地内の道は、一応公道なんでしょうが、
やはり団地の敷地内ということもあってかとても静かで、
車通りも他と比べるとかなり少なく、
全体的にすごくいい雰囲気です。

さらにこの団地にはスターハウスと言われる放射状の棟も沢山あります。



以前アップした原宿団地にも2棟ありましたが、
この赤羽台団地には、正確に数えてませんが8棟位あり、
しかも全てが敷地の東端、赤羽丘陵のへりに沿って建っているので、
上階の部屋からの眺めは相当よさそうです。

団地の話はこれくらいにして、
この団地の西のはずれにかつての軍用鉄道の名残があります。→Mapion



以前はレールの一部が残っていたそうですが、今ではもうそれもなく、
かつての軌道跡に鉄路をデザイン化した煉瓦が施されているだけです。

ほんの短い区間の線路跡をたどると、
やがて赤羽自然観察公園に出ます。→Mapion



Mapionで見てもわかるとおりかなり大規模な敷地ですが、
これは被服廠に隣接してあった兵器補給廠の一部の転用です。
それにしてもこの自然観察園、かなり「自然」です。
この公園をみると、都内の多くの公園がいかに植樹をはじめ
凄く整備されているのかがよくわかります。


赤羽台団地や赤羽自然観察公園、
そしてここに画像はアップしていませんが、
少し南にある国立スポーツ科学センターや旧自衛隊十条駐屯地と、
明らかに一般の住宅街とは街の造り自体が全く違う地域です。

以前アップした戸山ヶ原の陸軍施設跡同様、
この十条界隈もまた、江戸時代には大名の下屋敷として使われ、
明治維新後は軍用地に転用され、
戦後一気に計画的な開発がなされ、
それに漏れてしまった一部分は、
歴史の「ほころび」としてなんとなく放置的な状態におかれるという、
特殊な磁場を持った場所でした。

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十条逍遙 四本木稲荷

2006-09-14 06:32:18 | ・軍都十条逍遙


東京の北部、北区と板橋区の区界にあった、
広大な敷地の陸軍の施設跡の見学記。

昨日アップした憲兵小屋の近くにある、
鬱蒼とした林に囲まれた四本木(よもとぎ)稲荷。→Mapion



周囲を沢山の赤い鳥居とのぼりに囲まれ、
こじんまりとしていながら、
いかにも稲荷神社らしい雰囲気を醸し出しています。

本院と思われる社屋の拝殿は土間の造りで、
さらに拝殿と神殿の間がしっかりと分断され、
神殿が拝殿よりかなり高い位置に設置されているのをみると、
かつて行った、吉野の天河神社を思い出し、
なぜかレイゲンアラタカ的な気持ちにさせられます。

境内には社屋が二つあり、
それぞれに一つずつ鳥居が建てられています。



この距離で二つの鳥居が立っているのは、
テレビドラマの『トリック』でしか見た事がありませんが、
色もちょうど黒鳥居と白鳥居です。

境内の一角に大きめの忠魂碑が建っています。



傾きかけた夕日を浴びて妙に薄光りしていますが、
以前にアップした火薬製造の過程で使われる圧磨機圧輪を使っているからでしょう。

もっとあっさりおわらせるつもりが、
いつのまにか20回近くになってしまったこのシリーズも、
今日でおわりです。

かつては相当数の施設や建物があったと思われるこの地域に、
60年経った今、殆ど残っているものはありませんでした。
かろうじて北区への割譲で残存していた煉瓦275号棟も、
まもなく図書館別館への立替工事で消滅します。

以前画廊をやっている人から、
東京の下町にある東京都現代美術館の話を聞いた事があります。
立ち上げの時の殆どの資金は建物の建造で消えてしまったお陰で、
ろくに所蔵品を買う事ができなかった、と。

この十条にかつてあった沢山の建物も、
多くのお金を使って壊され立て替えられてきたと思いますが、
それはある意味歴史や文化を壊してなくすために使われたお金だったとも、
言える気がしてきます。

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十条逍遙 憲兵小屋・境界石

2006-09-13 03:05:11 | ・軍都十条逍遙


東京の北部、北区と板橋区の区界にあった、
広大な敷地の陸軍の施設跡の見学記。

前回アップした区民センターを南下すると、
民家の敷地の一角にかつての憲兵小屋といわれる建物があります。→Mapion



入口は完全に塞がれ、現在ではまったく使われていないようですが、
無作為なコンクリートの塊の上に植物が育ち放題の光景は、
不思議な感じがします。

また、区民センターの西側には、
陸軍用地と書かれた境界石が残っています。→Mapion



アップ。陸軍用地の掘り文字が見えます。



なにげに歩いていると全く気が付かない程度の石柱です。

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十条逍遙 造兵廠本部

2006-09-10 05:01:02 | ・軍都十条逍遙


東京の北部、北区と板橋区の区界にあった、
広大な敷地の陸軍の施設跡の見学記。

昨日までアップしてきた煉瓦275号棟を後にして南へ進むと、
現在は区民センターに転用されている、
東京第一陸軍造兵廠の本部があります。→Mapion



唯一外観が当時の面影をとどめる、昭和五年 (1930) 築のこの建物は、
中央にタワー状の部分があり、
その両脇にシンメトリーな翼棟が伸びていて、
タワー部分と両翼棟の間には、それぞれ一部屋分位の、
すこし出っ張りをもたせた造りになっています。
建物の手間へ張り出したアーチ型の玄関も含めて、
かつて三島由紀夫が割腹自殺を遂げた、
市ヶ谷駐屯地の参謀本部を彷彿とさせます。

建物の右横になにやら変な建物というか、
施設というか構造物というか、そんなものがあります。



なにかと思って近づいてみると、
古墳跡の保存館です。
「赤羽台第3号古墳石室」と書かれた解説板には、
東北新幹線の工事で発見された赤羽台の古墳跡を、
ここへ移設した云々、と書いてあるので、
随分遠くから運んできたことになります。

三角形のウインドウから中をのぞくと、
確かに土の中に石が並べられています。



古墳だったんでしょう。
肉眼だと殆ど真っ暗で、しかも横からしか見られないので、
「貴重な石室」とか言われても全然わかりません。
 
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十条逍遙 275号棟 4

2006-09-08 06:01:59 | ・軍都十条逍遙


東京の北部、北区と板橋区の区界にまたがってあった、
広大な敷地の陸軍の施設跡の見学記。
引き続き煉瓦275号棟です。

一面美しい鉄骨工芸のような内部の天井。



世田谷区にあった同じ陸軍の施設、
駒沢練兵場跡には今も馬糧倉庫と言われる馬の餌用の倉庫が残っていますが、
その天井も同様に綺麗な鉄骨組みでした。

ネットに掲載されている中日新聞のコラムを見ると、
鉄骨は八幡製鉄所製だそうです。
つまりとおまきに考えると、
軍艦島の石炭がつくり出した鉄骨ということになります。

建物の中央には、
天井とは対照的な無骨な鉄骨が整然と並んでします。



程良く劣化した窓枠の塗装とコンクリート。
何層かに塗られた壁面が剥落して、所々に見え隠れする煉瓦。



棟内にたまった水を照らす十条の夕日。



鉄と煉瓦と水と光の劇場のような空間は、
この建物の歴史を忘れさせてくれます。
 
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十条逍遙 275号棟 2

2006-09-05 00:50:24 | ・軍都十条逍遙


東京の北部、北区と板橋区の区界にまたがって、
かつて広大な敷地の陸軍施設の見学記。
昨日に引き続き煉瓦275棟です。

窓の上に施された絶妙なカーブ、
細かく段をつけた窓のスペーズのくぼみ、
そして木製の窓枠、
見れば見る程その美しさに惹き込まれて行きますが、
それはこの建物が兵器製造工場だったという、
罪を背負った建物だからかもしれません。



公園の一角に静かに横たわる煉瓦の建物。
縦と横と高さのバランス。
壁面の三角の部分の中央につけられて丸窓、
遠目にみても絶妙な美しさです。



左奥に写るのが自衛隊十条駐屯地の建物。
かつてはこの一体に、この257号棟同様の、
重厚で趣のある建物が建ち並んでいましたが、
いまでは全てが立て替えられています。

257号棟の北側には小さな児童公園があり、
休日は近所の家族連れでにぎわいますが、
そのむこうには自衛隊の駐屯地です。



建物の東面の直ぐ横には、
巨大なコンクリの構造物が残っていますが、
果たしてこれがなにかを知る資料などは残っているのでしょうか?



ところでこの特集のタイトルに使っている色使いですが、
これは陸軍の軍帽を参考にした色使いです。

カーキ色はヒンドゥー語、さらにはペルシャ語が語源らしく、
元々は「土埃」を意味する言葉だそうです。
明治三十八年 (1905) に陸軍の軍服色として採用されて以来、
一貫してこの色が使われました。
当初赤みがかった色みでしたが、
やがて青みがかった、いわゆるモスグリーンに近い色になり、
これが太平洋戦争での「国防服」の色にもなりました。

もう一色の重要な色が「赤」です。
普通「赤」というと共産圏の色を思い浮かべますが、
これはどうやら血を現す色のようです。
正確には赤ではなく「緋色」で、
緋色は赤よりやや朱にちかい色のようです。

緋色とカーキ色、個人的には絶妙な配色だと思います。
 
◆軍都 十条逍遙◆
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十条逍遙 275号棟 1

2006-09-04 05:38:12 | ・軍都十条逍遙


東京の北部、北区と板橋区の区界の一帯にあった、
広大な敷地の陸軍の施設跡の見学記。

JR埼京線の西側にあった「二造」は前回の記事で終わりなので、
今日からは埼京線の東側にあった「一造」をアップしていきたいと思います。

一造も二造同様、その跡地は大学をはじめとした教育機関、
区の文化センター、そして広い公園に転用されていますが、
二造と違うのはその敷地の多くが自衛隊の駐屯地に使われていることです。
その自衛隊の敷地のはずれに綺麗な煉瓦造りの建物が一棟だけ残っています。


▼北面





▼西面





▼南面





▼東面



戦後相当長い間、この建物同様の重厚な建物群が多く残っていた様ですが、
現在では、自衛隊の敷地内の建物はすべて解体され、
唯一北区の管轄になったこの1棟だけが残っています。

壁面に書かれた1919の文字が建築年だとすれば、
約90年前の建物になりますが、
以前から北区ではここを図書館の別館にする計画があったらしく、
つい最近とうとう工事が始まってしまいました。

北区の話だと一部を保存あるいは建物の一部に再生するらしいですが、
建築表示板をみるとRC3階建てと書いてあるので、
おそらく一旦完全に解体されて新築の建物が造られる課程で、
申し訳程度に煉瓦が使われるような感じではないでしょうか。
とても横浜の煉瓦倉庫のようにはいかないみたいです。(涙)

◆軍都 十条逍遙◆
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十条逍遙 界隈

2006-09-02 01:31:01 | ・軍都十条逍遙


東京の北部、北区と板橋区の区界一帯にあった、
広大な敷地の陸軍時代の遺構の見学記です。

昨日の記事で第二造兵廠は終わりなので、
今日は少し界隈の話をしようと思います。

ちょっと前にアップした、
敷地内に弾道検査管がある研究所のすぐ向かいには、
程よい木々が植樹されたこじんまりとした公園がありますが、
入り口のプレートを見てビックリです。→Mapion



右横書きの公園名に「昭和十二年開園」の文字。
園内はおそらく開園当時とは形を変えていると思いますが、
改装時にプレートを変えなかったのは、
おそらくこの公園が個人の寄贈公園だからかと思います。
別の場所にある由来記には、
カタカナ併用の、同じく右横書き文字が刻まれています。

ところで横書き文字が右横書きから左横書きに変わるのはいつなのか、
いつも疑問に思っていましたが、
ちょっと調べてみると、
やはり大きな契機は戦後の英語の流入によるようです。
ただ戦前も左横書きは既に用いられ、逆に戦後も右横書きは健在で、
きわめてゆっくりとした変化をしてきたようです。


何度か十条へ行くたびに、
東京レトロのユウジさんに教わった讃岐うどんの「すみた」や、
オープロジェクトのメンバーの友人に教わった、所謂一般食堂など、
いろいろな店で食事をしましたが、
十条駅の西口に広がる「十条商店街」の中にある、
「天将」というレトロな店が気になったので入ってみました。→Mapion



入口の横に並ぶ大量の鑞見本が、
西東京では体験出来なくなった昭和を感じさせてくれます。
注文したのはチキンライス。



完璧です!
てんこもりにしてメロン型をぬいてるので、へりがはみ出してます。
グリンピース6個。
中にはちゃんとチキンが入っていました。

平日の昼でしたが、店内にいたお客さんの殆どは、
緑茶ハイで出来上がっていました。

また商店街では、天然氷をつかったかき氷が食べられる、
だるまや」も忘れられません。
 
◆軍都 十条逍遙◆
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十条逍遙 圧磨機圧輪記念碑

2006-09-01 02:53:40 | ・軍都十条逍遙


東京の北部、北区と板橋区の区界一帯にあった、
広大な敷地の陸軍施設跡の見学記です。

昨日アップした消火栓のある金沢小学校のすぐ近く、
東板橋体育館のよこにある小さな公園の中には、
「板橋区登録文化財 圧磨機圧輪(あつまきあつりん)記念碑」
があります。→Mapion



圧磨機圧輪とは、横に設置された解説板によると、
火薬製造の工程で原料を混合する際、
水平に設置された圧磨機の盤上に原料を敷き、
水を加えながら圧磨作業を行う時の、
圧力を加える大きな車輪のことだそうです。

解説板のある復元図をみると圧輪は2つで、
鉄棒で繋がれた左右の圧輪が円を描いて回転することによって、
火薬が調合されるように示されています。



とすると、
左右の圧輪に対して垂直に設置された中央の石はなんでしょう?
※解説板と画像を見比べて今気が付きました。

中央には一昨日の記事でアップした、
円を4つ集めた造兵廠のマークもついています。
解説板によると、
この圧輪は慶応三年 (1867) にベルギーから輸入されたもので、
明治九年 (1878) ~明治三十九年 (1906) まで使用されたそうなので、
日清戦争を中心にした
東京砲兵工廠板橋火薬製造所の時代にだけ使われたことになります。

公園の片隅に二匹の猫がいました。
心なしか「憂国顔」にみえたのは、
かなりの数の陸軍時代の遺構を見てきたせいでしょうか。



◆軍都 十条逍遙◆
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十条逍遙 消火栓他

2006-08-31 09:26:18 | ・軍都十条逍遙


東京の北部、北区と板橋区の区界近辺にあった、
広大な敷地の陸軍の施設、一造と二造跡の見学記です。

場所は少し前後してしまいますが、
以前アップした理化学研究所の道を少し西へ進むと、
専門学校の敷地内に残る当時の建物があります→Mapion



現役で使用されているので、
壁面は塗り直され、窓も恐らく作り替えられていると思いますが、
それでも周囲の新しい建物とは明らかに一線を画する、
重厚なオーラを発しています。
専門学校生の体育館としてつかわれているのか、
内部には卓球台が並んでいました。

この一帯は板橋区と北区の区界ですが、
二造の敷地がその両方にまたがっているので、
跡地を転用した東京家政大学や朝鮮学校は、
その敷地が完全に両区にまたがってしまっています。
朝鮮学校の敷地の端には、
当時のトンネル跡と思われる遺構が残っています。→Mapion



既に封鎖され、内部は物置として使われているようです。

少し南下したところにある金沢小学校の校庭の片隅には、
陸軍時代の消火栓が残っています。→Mapion



昭和初期のころの消火栓だそうで、
塗り直されているものの、
陸軍の星形のマークがこの存在をアピールしています。
消火栓の横には草に埋もれた小さな解説プレートがあり、
この一帯の歴史と大切に保存したい旨が書かれていますが、
学校の敷地内の解説板なので、
学校関係者以外あまり目に触れることはなさそうです。

以前にも触れたように、
この一帯は江戸時代、加賀藩の広大な下屋敷があった場所で、
この金沢小学校をはじめ加賀公園や金沢橋と、
今でも随所にその名残が名前として残っています。
 
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十条逍遙 煉瓦パーク

2006-08-30 01:31:24 | ・軍都十条逍遙


東京の北部、北区と板橋区の区界一帯にあった大規模な軍事施設、
東京第一&第二陸軍造兵廠跡の見学リポート。

昨日までアップしてきた研究所をでて、
石神井川をさかのぼります。
石神井川はその名前から練馬区にある石神井公園が源流かと思っていましたが、
実は違ったんですね。
石神井公園より遥か西にある小金井公園に「上流端」の立札があるようです。
子供の頃よくいった石神井公園や小金井公園。
学校では都内の河川の勉強もしたはずなのに、
既に全部忘れてしまったんですね。

やがて隅田川へ流れ込む石神井川にとっては、
この辺はかなり下流域になります。→Mapion



大きく蛇行しながら流れるこの一帯の川岸には、
全て桜が植樹されているので、
春には相当綺麗な桜吹雪が見られるのでしょう。

川沿いは緑道公園になっていて、
しばらく進むと煉瓦が敷かれた一角が見えてきます。→Mapion



かつてこの地にあった二造の煉瓦建造物の壁面レプリカです。
手前には当時の二造の施設地図や建造物の構造図、
そしてまだ建物が残存していた時のモノクロ写真などが、
モニュメント的に展示されています。

煉瓦の土台に造られた解説板の、
右側上部に並ぶ4枚の取り壊し前の写真の中の一枚です。



この建物の側面だけを地面に平たく再現したモニュメントですが、
殆どの煉瓦はあとから調達したもので、
屋根の近くの一部分だけ、実際の建物のものをつかっているそうです。



画像中央の色がくすんでいる部分がそれですが、
なぜかそこだけ草が繁殖しています。



またその最上部には円を4つ重ね合わせた模様がありますが、
これは砲弾をデザイン化した造兵廠のマークだそうです。
一見すると砲弾にはみえない、可愛い印象のマークです。
 
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十条逍遙 トロッコ軌道跡

2006-08-29 01:11:41 | ・軍都十条逍遙


東京の北部、北区と板橋区の区界にあった、
陸軍の兵器製造工場跡の話です。

この施設は国鉄(現JR)をまたいで東と西に広がっていましたが、
昨日までアップしてきた研究所の中には、
その両方を繋ぐ材料運搬用の専用トロッコの軌道跡も残されています。



以前は線路自体も残っていたそうですが、現在では線路はなく、
草木が両側を囲う、一直線の土地が伸びているだけです。

研究所内の軌道跡はまだ線路があったことを連想させる様子ですが、
研究所の外へでると、もう何処にも面影すらありません。
唯一JRをまたいでいた橋の橋脚が確認できるだけです。→Mapion



軍都の時代は勿論、敗戦以降も相当のあいだ、
かなりの施設が残っていたはずなので、
今思えばもっと以前に訪れておけばよかったと思います。

ところで十条逍遙の話を始めてから常に登場する「造兵廠」。
普通では全く意味のわからない言葉ですが、
「造兵」とは兵器製造の意味、「廠(しょう)」とは工場の意味、
つまり「兵器製造工場」という意味になります。

◆軍都 十条逍遙◆
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十条逍遙 残存遺構

2006-08-28 05:08:52 | ・軍都十条逍遙


東京の北部、北区と板橋区の区界一帯に広大な敷地を使ってあった、
一造と二造と呼ばれる陸軍の兵器・火薬製造工場の話です。

昨日に引き続き、石神井川の川沿いにある研究所の、
敷地内に残存する建物及び施設群です。
こちらの建物も現在は倉庫として転用されていますが、
昨日アップした建物とは違い綺麗に塗り直されています。



いかにも分厚そうなコンクリの壁と威嚇的な立方体の形状は、
陸軍の施設だったことを想像しやすいルックスです。

この建物の裏手には、
まったく放置状態のコンクリの構造物があります。



それほど高さのない細長い構造物の内部は二段の升状に区切られ、
各スペースの入口には木製の枠がはめ込まれています。
ひとつひとつの升を見ると、
あたかも氷冷蔵庫の様な作りですが、
周囲が分厚いコンクリで固められているので、
恐らく冷蔵庫ではないでしょう。

この構造物の対面には、
これまた意味ありげな斜めのコンクリのスロープがあります。



画像右側に移る黒い影が細長い構造物で、
左側の落ち葉が集積している場所の上が、
斜めのコンクリの構造物です。

この構造物や昨日アップした建物も含めて、
陸軍の施設なため資料がほとんどなく、
更に研究所の敷地の中なので、一般には見学することもできないので、
これらのものが何に使われていたものなのか、
現時点ではわかりません。

敷地内には雰囲気あるトタン貼りの建物もありますが、
こちらは研究所開設後建てられた建物だそうです。



そういえば二造の背景を書いてなかったことに気がついたので少し。
二造、正式には「東京第二陸軍造兵廠」の名称になるのは、
太平洋戦争勃発の直前の昭和十五年 (1940) で、
それまでは、東京砲兵工廠板橋火薬製造所 (明治十二年) や、
陸軍造兵廠火工廠板橋火薬製造所 (大正十二年) と呼ばれ、
日清戦争の時の小銃用火薬の製造以外は、
猟銃用の火薬製造など、民間用の工場として稼働していました。
昭和十二年 (1937) 支那事変以降再び軍用工場として整備され、
昭和二十年 (1945) の敗戦とともにその幕を閉じました。

民間工場の時代には使われない施設も多く、
まだ東京の土地に余裕があった時代を物語っています。

◆軍都 十条逍遙◆
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