黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

東京貧民窟をゆく~上野万年町

2016-05-26 03:31:45 | ・貧民窟
東京貧民窟の今を歩くシリーズの第三弾は、
上野駅からほど近いエリアにあった、下谷万年町(したやまんねんちょう)の貧民窟です。

四谷の鮫河橋、そして浜松町の新網町の貧民が、
軍の学校から出る残飯を目当てに集住したエリアだったのに対し、
こちらは繁華街である上野の残飯を目当てに集まった人たちでした。

またこのエリアに集住した貧民の職業を見ると、
これまでの日雇人足や車夫とともに屑拾いが多数いたのも、
繁華街に隣接していたからでしょうか。

万年町は三大貧民窟の中で最も狭く、
その面積は鮫河橋と比べると約5分の1程度でした。
しかし、人口は日清戦争後で3,800余人もいたというので、
密度は鮫河橋の約4倍。
極端な集住ゆえ、街の様相も前述の二箇所に比べて、
はなはだひどい有様だったようです。

■概略地図■


横線のエリアがかつての貧民窟。
付近の google map はこちら


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現在、エリアの南半分である万年町1丁目界隈は東上野1丁目という住所となり、
そのほとんどが東京メトロの上野検車区となっています。(概略地図:1)
1927年(昭和2年)、国内初の地下鉄を運行した東京地下鉄道が、
関東大震災で壊滅した貧民窟の跡地に、
上野電車庫として発足した場所でした。






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検車区の線路沿いにある昭和まっしぐらな居酒屋の入居する建物は、
側面まで施工された、ちょっと変わった看板建築です。(概略地図:2)






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検車区の塀はかなり長く、その規模が想像できますが、
高さがあるので、検車区の中を見ることはできません。(概略地図:3)
塀越しに写る上野学園は、もともと上野桜木町にあった女学校で、
戦後初の学内ストライキを行い、
大学民主化運動の契機となった大学だそうです。






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検車区の塀伝いに北へ進むと、
万年町の中央を横断する道へと突き当たります。
おそらくこの付近が貧民窟時代の中心地だった、
万年町2丁目(現在の北上野4丁目)でしょう。
現在では、道沿いにこぢんまりとした商店街があり、
道の先には、聳え立つスカイツリーが見えます。(概略地図:4)






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道を渡ると、特に醜穢を極めたというかつての万年町2丁目へ入りますが、
小規模な会社や一般住宅が建ち並ぶ普通の街角からは、
当時の面影を偲ぶべくもありません。
ところどころ長屋風情の一画が残るものの、
もちろん大正時代のものではないでしょう。(概略地図:5)






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古い建家の解体現場を見ては、(概略地図:6)
当時に想いを馳せるのが関の山です。






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解体現場のすぐ近くには、
古色蒼然とした壊れかけの祠がありました。
背面の制作年を確認することはできませんでしたが、
その雰囲気から、もしかしたら貧民窟の時代を見てきたお地蔵さんかも知れません。



これで、かつて東京にあった三大貧民窟の探訪は終わりです。
次回は、もう一箇所、新宿にあった貧民窟を訪れます。


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2 Comments

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▼万年町の置いてけ堀さんへ (管理人)
2018-01-31 06:13:35
コメント、ありがとうございます!
おじいさまが万年町でイチバンの有名人だったとのこと。
そして置いてけ堀さんも万年町のお生まれ。
沢山のストーリーがあるとうかがうと、
どんなお話かと興味が湧いてしまいます。
唐十郎さんの演劇のぶたいにもなっていると聞く万年町。
今は、地下鉄の車輌基地と普通の民家が建ち並ぶ、
ごく一般的な街角ですが、
そうでなかった時代の万年町を、
これからも少しずつ感じていければと思いました。


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Unknown (万年町の置いてけ掘)
2018-01-29 09:43:53
懐かしいですね。私は、万年町の生まれです。ここには沢山のストーリーがあります。いくつ映画を作れるか?壮絶な人生のストーリーが走馬灯のように目の前を走りすぎて行きます。私の祖父は、万年町ではイチバンの有名人でした。
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