PCゲームしながらなんとなくテレビを見聞きしていたら
車に関する番組でコンテッサー云々・・・と聞こえてきたので
エエッ~~!? とテレビに見入った。
懐かしい~~車!! まだ走っているの? 廃車になったのでは? と。
20歳代前半のころはじめて運転した車が
日野コンテッサー900でした。
コンテッサー1300 車はクリーム色でした。
当時三ノ宮駅南あたりに簡単な自動車運転コースがありその場所で
3歳上の姉が買った車を持ち込んで日野自動車社員に
運転を習っていました。
運転も少し進んで路上運転練習することになり
裏六甲の道路を行ったり来たり・・・Uターンは彼(社員)がしてくれて~!
何度かの練習のあと明石にある運転免許試験場へ行きました。
そんなに簡単に免許が取れる訳でもなく今思えば無謀なことをしたものだと
我ながら苦笑してます。
それでも明石試験場へは3回行きました。(いつも車庫入れまでで終わりに)
1回分の学科試験パス分が残ったままその年の8月に
西ノ宮自動車教習所へ行き運転練習していたお蔭で20日間で仮免許取得しました。
当時は路上運転時間も無く「法令15時間」「構造10時間」
運転実地20時間で仮免試験でした。
三ノ宮から阪急電車定期代込みこみで2万数千円で免許取得できました。
姉が商売のため殆ど乗らなくなったコンテッサーを
我が物のように乗りまわして「コンテッサー1300」に買い替えても
ずっと一人で乗っていました。
車体が低くスマートで格好良いリアーエンジンのコンテッサーセダン
親友と六甲・修法ケ原へよくドライブしたものでした。
最近のみなと神戸です
姫路城改修オープンの時も(’ 64年)二人で行き
帰りは睡魔に襲われ危うく・・・でも大丈夫でした。
追突事故に遭ったのは免許取得から2年後の秋ごろだったかな・・・!
夫(結婚前)と付き合い始めて数ヶ月でした。
芦屋にあった海技大学校の寮生活をしていた彼(夫)に差し入れを持って
深夜の第二阪神国道(現43号線)を走っていて
信号が黄色で止まったところ後ろからトラックが避けきれず追突」されて
4~5メートル先に押し出されました。
とたん・・リアーエンジンのためラジエーター破裂で水がドド~と。
深夜1時頃でタクシーがすぐ近づいてくれて相手方の運転手の名刺をもらい
取り敢えず近くの警察派出所へ行ってもらいました。
そこで私の言った言葉に大笑いされた事がその時は解らなくて
あとで恥ずかしい思いをしました。
「すみません・・車がオカマされたんです!」と言ったのです。
日頃からみんなよく使っていた言葉なので当たり前な言葉だと思いました(苦笑)
翌日「日野モーター」へ相手の運転手と待ち合わせ
あとはすべて日野の販売員におまかせして車のバックはすべて取替て
新車同様になりました。
コンテッサー1300はその後数年乗ったあといすゞフローりアンに乗り替え
昭和48年まで乗って車を手放しました。
いすゞフローりアン こんなんだったかな~?
芦屋では交通機関身近で便利なので車で出掛けても駐車場探すだけで
時間がかかります。
電車で出掛けた方がずっと時間のロスが少なくこの地に越すまで
30年あまり運転はしませんでした。
それでも若いころは(60代)感の戻りは早いです。
この地に越すために車の運転練習に2日間行っただけで感が戻りました。
車の運転大好き人間だったのによくも30年辛抱できたと
いま思えば不思議です。