1995年1月17日午前5時46分に起きた
阪神淡路大震災から24年・・・
神戸東遊園地では『午前5時46分に合わせて黙祷を捧げて~』と
各ネット新聞・テレビの放映
我が家も心で手を合わせながらこの24年間を振り返って見た。
もしも・・if・・
もしもあの阪神大震災がなかったら・・・
我が家族はどんな生活を送っていただろう!
多分この地「丹波篠山」では暮らしてなかったのではないだろうか?
こんな年齢になるまで生きられなかったかもしれない・・・
と思うのです。
芦屋のあの家でご近所との付き合いも日常の挨拶のみで特に地域の交流があるわけもなく
夫の定年で毎日顔を突き合わせて会話もなく悶々とした空気の中で
ストレスをため込んであちこちの病院をアサっていたのではないだろうか!?
ちょうどあの頃の私は神経病を患っていた。
殆ど人との会話もなく物事を悲観的に捉える性格だった。
働くことが嫌いではなかったので
パートに出たいと思いながらもしも不安発作で職場に迷惑を掛けることになったら・・・
と 躊躇していた。
そんな時「阪神大震災」が起きた。
市内を含め阪神間全体の被災・亡くなられた大勢の人達に我が家も少なからず被害を蒙った。
姉の家も倒壊してしまい悶々としている場合ではない・・と気づかされた感じでした。
震災半年後からパートに出るようになり職場で知り合った同じ境遇の人たちと
励まし合いながら特に親しく付き合いが出来るようになった5人組
このことが自分の性格を変えるきっかけにもなったように思えるのです。
今でもお付き合いを続けています。
半壊は認められないまでもそれに近い被害を蒙った我が家に見切りをつけて
活断層の少ない地を選んで決めたのがこの丹波篠山でした。
この地が私には合っていたようで
ブログを始めたころから自分の生活をそのまま記すことで気の張らない自然体で
暮らせるようになって包容力も身に着いたと思うのです。
遅咲きの山茶花が満開です。
秋の剪定で枝ぶりは少ないが・・・
今朝も凍みついていました。
80年もよくぞ生きたと・・不思議に思うこのごろです。
命の火が消えるまで前向きに楽しく生きてゆきたいと思っています。
24年になるんですよねぇ。
微力ながらボランティアに行った時に
被災地の人達があの状況の中で
支え合い、助け合っていた姿を忘れられません。
応援ぽち
震災から24年も経ちましたが、私たちも忘れることはできません。
亡くなられた方たちに祈り被害に遭われた方たちのことを
思っています。
震災の2年前初めて神戸を訪れ3日間ずっと観光しました。
NHKの記者が泊まっていたホテルが倒壊したニュース
私たちが泊まったホテルでした。
いろいろご苦労されましたが
丹波の篠山にお住みになりお元気に
ご活躍のご様子、良かったですね。
災害のない年であってほしいです。
山茶花・葉牡丹の美しさに癒されます。
いつどこで起きてもおかしくない日本列島です
震災の備えを忘れないようにと思いました
丹波篠山・・良い所へ越されたのですね
当日の私は東京にいて、何ら被害もありませんでしたけれど、もし、自分がそこにいてその立場にあったら…と考えるとやり切れない思いに苛まれます。
それから考えるとよくぞご無事でこんにちを過ごされているという人生の不思議を感じざるを得ません。
共にこれからも元気で、過ごしたいものです。
ボランティアに助けられ
とてもありがたく感じました。
コーラスの人達もボランティアに行ったと
ここへ来て聞きました。
さぞ驚かれたことでしょうね。
その三ノ宮のホテルはよく知っています。
携帯ラジオを聞いていて一番にそのホテルの
倒壊を聞いた時被害の大きさを改めて認識しました。
それで慌てて夫が自転車で姉のところへ行ったところ
家が倒壊してたき火の傍で毛布をかぶった姉を見つけたのでした。
この地に越してきたたことは
本当に良かったとずっと思っています。
コーラス仲間と出会えたこと
世話役も出来たことなどで無知だった自分が
一回りもふた回りも大きくなれた気がしました。
なかったのでしょうけど
東日本大震災ではずいぶん揺れたそうですね。
昼間だったのでお勤め人の足が途絶えて
歩いて帰ったと愚息から連絡がありました。
阪神淡路大震災が起こらなかったらおそらく篠山には住んでおられなかったでしょうね。
篠山は、実家辺りと違って都会からの移住者は住み易いと思います。
今年から丹波篠山となりますね。
これからもryoさんの活躍を楽しみにしてますね。
ずっと雪マークだったけど
朝起きたら霙がちらちら程度でした。
震災がなかったら多分今も芦屋に居たかも・・?
です。
もうこの世に居なかったかも?
我が血統は75歳生存が多いので・・・。