さあー、今日も理屈っぽいですよー。
■ 母のマクロビオティック
マクロビオティックも、このところ随分一般的になりました。
私はマクロビオティックをやっているという訳ではないのですが、
自分の体調に合わせて、朝食には小豆入りの玄米を食べたり、
なるべく自然な食品をとるように心がけてはいます、
まあ大雑把にですが。
実はこのマクロビ、随分昔からあったようですね。
思い起こせば私がほんとうにまだ幼かった頃、
母が「この食品は『陰』だからどうしたこうした」、
「身体を冷やすといけないから陽のものを」
とか何とかいいながら食事を用意してくれていました。
今思えばあれはマクロビだったようです。
当時は「また訳のわからん健康法を始めた」と家族皆が
思って(母は紅茶キノコだの酢大豆だの、あらゆる健康法に
手を染めて来ました、もちろん今でも)いましたが、
なかなか進んでたんじゃないかと思う今日この頃です。
■ ずっと前に知っていたはずのもの
さらに母は、身体を冷やさないように、
下着の重ね履きはもちろん、腹巻きやら何やら、
おばさん丸出しのファッション(?)で、
私はそんな母親を、いかがなものかという思いで見ていましたが、
今、同じことを皆さんにお勧めしている私です。
こう考えてみると「これはいらない」と捨てて来たものの中に、
今となっては大切になっているものがたくさんあるようです。
その時にくだらない、つまらないものとしてでも
認識されていればまだいい方で、
意識にすら上らないものがいっぱいあったにちがいないのです。
もちろんそういうものは記憶の浅い部分には残っていないので、
今初めて聞いたことのように思っていますが、
実はずーっと前に知っていたことだったりします。
■ 準備ができた時にしか情報は認識されない
最近このことを感じるできごとが立て続けに何件かありました。
友人が今知ったことのように教えてくれたことが、
いずれも過去に、私が発信者であった事柄だったのです。
「うんうん」と友人の話を聞きながら、
「それ、私が言ってたじゃーん」と思いつつ、
そうは言いませんでしたが。
過去にその友人にその情報を与えたのが事実だとしても、
受け手に何の準備もないところへ、いくら種を蒔いても、
何も意味を持たなかったということでしょう。
その友人にとって必要な時が来て(準備ができて)、
その時にその情報をキャッチして、初めて意味を持ったワケです。
今回は、その情報は与えられたものではなく、
友人自身が自ら探し出したものでしたから、
なおいっそう強く意味をもったようです。
■ 素通りする情報にも意味がある
結局、他人から与えられたものでは人間は変わらないんです。
自分で手に入れたものでしか。
何だかちょっと「発信することの不毛」を感じたと同時に、
私もきっとたくさんの素通り事件をおこしているのだろうなあ
と思いました。
しかし、さらに言えば、その素通りにもまったく意味がないか
と言えばそうでもなく、
たくさんの素通りの蓄積の後に、出会いたいものと出会える
のかもしれないと思ったりもして。
だとすれば、そんなに不毛でもないか。
つまるところ成果を期待せず粛々と、
伝えるべきを伝え、受け止めるべきを受け止め続ける
しかないようです。
若いときに母のすることに興味を持たなかったように、
何かを「くだらない、つまらない」と排除すると、
大切なことを取りこぼす可能性がある。
私ができることとしては、せめてそのことを肝に命じて、
なるべく謙虚な心持ちでいるよう心がけることしかないのかなあ。
あらら、いい子になってしまった!
■ 母のマクロビオティック
マクロビオティックも、このところ随分一般的になりました。
私はマクロビオティックをやっているという訳ではないのですが、
自分の体調に合わせて、朝食には小豆入りの玄米を食べたり、
なるべく自然な食品をとるように心がけてはいます、
まあ大雑把にですが。
実はこのマクロビ、随分昔からあったようですね。
思い起こせば私がほんとうにまだ幼かった頃、
母が「この食品は『陰』だからどうしたこうした」、
「身体を冷やすといけないから陽のものを」
とか何とかいいながら食事を用意してくれていました。
今思えばあれはマクロビだったようです。
当時は「また訳のわからん健康法を始めた」と家族皆が
思って(母は紅茶キノコだの酢大豆だの、あらゆる健康法に
手を染めて来ました、もちろん今でも)いましたが、
なかなか進んでたんじゃないかと思う今日この頃です。
■ ずっと前に知っていたはずのもの
さらに母は、身体を冷やさないように、
下着の重ね履きはもちろん、腹巻きやら何やら、
おばさん丸出しのファッション(?)で、
私はそんな母親を、いかがなものかという思いで見ていましたが、
今、同じことを皆さんにお勧めしている私です。
こう考えてみると「これはいらない」と捨てて来たものの中に、
今となっては大切になっているものがたくさんあるようです。
その時にくだらない、つまらないものとしてでも
認識されていればまだいい方で、
意識にすら上らないものがいっぱいあったにちがいないのです。
もちろんそういうものは記憶の浅い部分には残っていないので、
今初めて聞いたことのように思っていますが、
実はずーっと前に知っていたことだったりします。
■ 準備ができた時にしか情報は認識されない
最近このことを感じるできごとが立て続けに何件かありました。
友人が今知ったことのように教えてくれたことが、
いずれも過去に、私が発信者であった事柄だったのです。
「うんうん」と友人の話を聞きながら、
「それ、私が言ってたじゃーん」と思いつつ、
そうは言いませんでしたが。
過去にその友人にその情報を与えたのが事実だとしても、
受け手に何の準備もないところへ、いくら種を蒔いても、
何も意味を持たなかったということでしょう。
その友人にとって必要な時が来て(準備ができて)、
その時にその情報をキャッチして、初めて意味を持ったワケです。
今回は、その情報は与えられたものではなく、
友人自身が自ら探し出したものでしたから、
なおいっそう強く意味をもったようです。
■ 素通りする情報にも意味がある
結局、他人から与えられたものでは人間は変わらないんです。
自分で手に入れたものでしか。
何だかちょっと「発信することの不毛」を感じたと同時に、
私もきっとたくさんの素通り事件をおこしているのだろうなあ
と思いました。
しかし、さらに言えば、その素通りにもまったく意味がないか
と言えばそうでもなく、
たくさんの素通りの蓄積の後に、出会いたいものと出会える
のかもしれないと思ったりもして。
だとすれば、そんなに不毛でもないか。
つまるところ成果を期待せず粛々と、
伝えるべきを伝え、受け止めるべきを受け止め続ける
しかないようです。
若いときに母のすることに興味を持たなかったように、
何かを「くだらない、つまらない」と排除すると、
大切なことを取りこぼす可能性がある。
私ができることとしては、せめてそのことを肝に命じて、
なるべく謙虚な心持ちでいるよう心がけることしかないのかなあ。
あらら、いい子になってしまった!