今年86歳になる母が、ベランダの手すりに両腕を突っ張り、斜め前へ乗り出すようにして、夕方の空を眺めている。正確には、どこかを眺めているというより、全身でまわりの気配を呼吸しているようにも見える。
このごろは、私が尋ねるとすっかり家事は私におまかせで、自分の時間に入ってしまうようになった。本当は一緒に夕食作りをして、機能の衰えを防ぐべきなのはわかっているが、1週間の大半はまだ自分で食事作りをしているのである。それが、まっ茶色のぐずぐずの煮物一辺倒であったとしても、それなりに過ごしているのだから、まあ、私がいるときぐらいは美味しいものを作ってあげましょうということで、よいことにしている。母が一人暮らしになって4年が過ぎた。そもそもずっと外で仕事をしてきた人である。小さな頃から食事作りは私の役目だった。まあ、昔に戻ったのと同じか。
父を見送るにあたっての介護疲れから「鬱」→「認知症の前駆症状」へと混乱を極めたころ(本人の名誉のため具体的な症状については差し控えるが)に比べれば、今は嘘のように落ち着いている。しかし、気持ちは回復しても年相応の記憶力・理解力の低下は否めない。歳とともに子供に帰るというが、人間力はさておいて、生活のスキルだけに限って言えば、ちょうど小学生くらいなんじゃないだろうか。小学生のとき私は家事をだいぶ受け持っていたが、本物の小学生ならやればやるほどどんどん技術が上がっていくのに対し、こちらはまあほぼ逆というわけで。いつもやっていることならどうにかこなしているが、ちょっと変わったことにはもう対処できない。慣れたことでも、同時に並行して物事を処理するのは無理なので、ひとつひとつ一生懸命に向き合っている。本当に丁寧に暮らしているのだ。それでもタンスの引き出しを開ければカオスだけど。
こんな調子なので、一人暮らしといえども完全な自立状態ではない。どうしても何かしらの手助けが必要である。そんな母がぽわっと空なんかを見ていると、そこだけ不思議にふんわりと光があたっているように感じることがある。家の中に、他の助けを必要とするものがいるというのは、そうじゃなきゃ生きられないものがいるというのは、なんだか良いものだ。母親を犬や猫のように言っているように思われるかもしれないが、うまく言えない。なんか嫌じゃないのだ。むしろ、いい感じ。どうしてなんだろう。弱いものの力か。役に立つとか立たないとか、社会のやりとりから自由で、生きることをシンプルに遂行してる生き物の力か。
いやいや、次の瞬間すぐに駆け引きまみれのめんどくさい婆さんに戻るよね。私が必要とされている感じとも違うんだよね。なんだろうな~こんな感じが続けばいいなあ~と思った、そんな夕暮れ、と。