大阪龍馬会

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西郷隆盛辞世の漢詩か? 官軍側医師、日記に記す

2009-10-01 00:01:00 | 幕末ニュース
 西南戦争で自刃した西郷隆盛が死を覚悟して詠んだ辞世とみられる漢詩が見つかった。官軍側の医師・山崎泰輔の日記「明治十年 西遊日記」に記されており、西郷南洲顕彰館(鹿児島市)によると、直筆ではないが、本物の可能性が高いという。

 同館によると、西郷が鹿児島市・城山で自害した1877年9月24日付の日記に記載されている。内容から西郷が可愛岳(えのだけ)(宮崎県延岡市)で、官軍を突破して薩摩に帰ろうと決心した同年8月17日に詠んだとみられる。志半ばで人生が終わることを嘆き、故郷に骨をうずめようとする内容で、悔しさや挫折感がにじんでいる。

 同館は大学教授らと検証した結果、〈1〉文章構成が西郷の作品に似ている〈2〉社会的地位の高い山崎が西郷に成り代わって詠むとは考えられない〈3〉結句の「何の顔(かんばせ)あって照公(島津斉彬)に対せん」は斉彬公を師と仰いでいた西郷ならではの表現――などとして、本物と判断した。

 西郷の息子の菊次郎は官軍側の病院で手術を受けており、その時に西郷の漢詩を記した何らかの物が、山崎ら官軍の医師たちに渡ったと推測している。

 ただ、「半生の功罪両般の跡」などと自らに厳しく評価を下していることから、「山崎が城山で散った西郷のことを詠んだのではないか」とみる研究者もいる。

 日記は札幌市在住の山崎の子孫が保管していた。西郷は194編の漢詩を残し、優れた詩人としても知られるが、辞世の詩は確認されていない。

 同館の高柳毅館長は「これを機に、直筆の辞世の句を持っている人は名乗り出てほしい」と話している。

 佐々木克・奈良大教授(日本文学史)は「西郷は、実際の出来事を詠んだ漢詩をほとんど残しておらず、単純に比べると作風が違う気がする。ただ、死が迫った異常な心理状態で詠んだとすれば、本人の可能性もあり、山崎の当時の行動などを、さらに検証する必要がある」と話している。

【漢詩】
肥水豊山路已窮
墓田帰去覇図空
半生功罪両般跡
地底何顔対照公 西郷隆盛

【西郷南洲顕彰館による解釈】
 肥後や豊後への道はすでに窮まった。故山に帰り骨を埋めよう。維新完遂のために覇を唱えたが、今となってはもうむなしい(ここで戦いをやめよう)。我が半生を振り返ってみると、功罪両様の跡が残ってしまった。泉下で一体どんな顔をして、照国(島津斉彬)公にお会いすることだろうか。


9/12 読売新聞



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