薩摩藩から第13代徳川将軍家定に嫁いだ篤姫(天璋院)の幼名が、定説である「かつ」ではなく「いち」だった可能性が高いことが、鹿児島市の歴史資料館「尚古集成館」所蔵の史料の記述から、5日までに分かった。
鹿児島県歴史資料センター黎明館(同市)の崎山健文学芸専門員によると、記述があった史料は薩摩藩主の生活などを記した「日記 表方御右筆間」と「典姫様日記 宝印御方」。篤姫の幼名はこれまで「一」に「カツ」とルビが振られた別の史料があり「かつ」が定説だった。
しかし二つの日記には(1)「於市」が「篤姫」と改名した(2)篤姫の生まれた翌年に、篤姫の叔母が「勝姫」と改名したため「かつ」の名を遠慮するよう通達があった―という趣旨の記述があった。
このため崎山専門員は「『於市』は『おいち』と読め、『一』とも矛盾しない。別の史料の『カツ』のルビと通達から、生まれた時は『かつ』でも、すぐに『いち』になったのではないかと推測される」としている。
また二つの日記からは、篤姫が家定に嫁ぐ際の江戸への行程や、第11代薩摩藩主島津斉彬の養女となった篤姫の鹿児島城での生活なども新たに分かったという。
10/5 共同通信
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鹿児島県歴史資料センター黎明館(同市)の崎山健文学芸専門員によると、記述があった史料は薩摩藩主の生活などを記した「日記 表方御右筆間」と「典姫様日記 宝印御方」。篤姫の幼名はこれまで「一」に「カツ」とルビが振られた別の史料があり「かつ」が定説だった。
しかし二つの日記には(1)「於市」が「篤姫」と改名した(2)篤姫の生まれた翌年に、篤姫の叔母が「勝姫」と改名したため「かつ」の名を遠慮するよう通達があった―という趣旨の記述があった。
このため崎山専門員は「『於市』は『おいち』と読め、『一』とも矛盾しない。別の史料の『カツ』のルビと通達から、生まれた時は『かつ』でも、すぐに『いち』になったのではないかと推測される」としている。
また二つの日記からは、篤姫が家定に嫁ぐ際の江戸への行程や、第11代薩摩藩主島津斉彬の養女となった篤姫の鹿児島城での生活なども新たに分かったという。
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