日本の神道は、すごいです。
神道はご存じのとおり、日本固有の宗教です。しかし多くの日本人にとって神道はきっと「宗教」というより、もっと身近な「民俗信仰」というべきものなのではないでしょうか。
日本の神道には「教義」も「経典」もなく「教祖」もいません。よく間違われる方がいらっしゃるのですが、天皇陛下は「神主=司祭」という立場でいらっしゃるのであって、「教祖」ではありません(これはローマ教皇がキリストではない、というのと同じですね)。
神道の信仰対象は特定の人物やものではなく、あえて言うならば「自然への畏れ(おそれ)」です。たとえば、太陽や月はもちろん、山には山の神、木には木の神、そよぐ風にも道端の石ころにも・・・ありとあらゆるものには神が住んでいて、この世にはそうしたものを動かす自然の摂理や霊性があると考えます。あえて言えばその「霊性」が信仰の対象です。したがって当然に、世界にはたくさんの「八百万(やおよろず)の神様」たちが仲良く共存している、という多神教の発想になります。
神社の拝殿に「鏡」が飾ってあるのを見た方も多いことでしょう。あれは、「そこに映るものはすべて神様」という意味なのであり、神道ではそれを礼拝するのですね。鏡を飾ってあるにもかかわらず、鏡そのものが信仰対象ではない、というのが面白いところです。
子供の頃に神社で遊んだ記憶のある方も多いことでしょう。私たちの住む町には必ず「氏神(うじがみ)」とよばれる「地域の守り神」の神社があります。初詣、お祭り、縁日、七五三、お宮参り、結婚式、合格祈願、お祓い・・・私たち日本人は、一年のうちに何回も神社にお参りに行く機会があります。それはもう、宗教行事というよりは「年中行事」です。
神道は非常に原始的と言えば原始的ではありますが、しかし「どんなものにも神様がいる」と言われると、ちょっと襟を正して、なんだか多くの事物を受け入れる敬虔な気持ちになりますよね。こんな宗教、ちょっと他にはないと思います。
日本て、すごいですね。
神道はご存じのとおり、日本固有の宗教です。しかし多くの日本人にとって神道はきっと「宗教」というより、もっと身近な「民俗信仰」というべきものなのではないでしょうか。
日本の神道には「教義」も「経典」もなく「教祖」もいません。よく間違われる方がいらっしゃるのですが、天皇陛下は「神主=司祭」という立場でいらっしゃるのであって、「教祖」ではありません(これはローマ教皇がキリストではない、というのと同じですね)。
神道の信仰対象は特定の人物やものではなく、あえて言うならば「自然への畏れ(おそれ)」です。たとえば、太陽や月はもちろん、山には山の神、木には木の神、そよぐ風にも道端の石ころにも・・・ありとあらゆるものには神が住んでいて、この世にはそうしたものを動かす自然の摂理や霊性があると考えます。あえて言えばその「霊性」が信仰の対象です。したがって当然に、世界にはたくさんの「八百万(やおよろず)の神様」たちが仲良く共存している、という多神教の発想になります。
神社の拝殿に「鏡」が飾ってあるのを見た方も多いことでしょう。あれは、「そこに映るものはすべて神様」という意味なのであり、神道ではそれを礼拝するのですね。鏡を飾ってあるにもかかわらず、鏡そのものが信仰対象ではない、というのが面白いところです。
子供の頃に神社で遊んだ記憶のある方も多いことでしょう。私たちの住む町には必ず「氏神(うじがみ)」とよばれる「地域の守り神」の神社があります。初詣、お祭り、縁日、七五三、お宮参り、結婚式、合格祈願、お祓い・・・私たち日本人は、一年のうちに何回も神社にお参りに行く機会があります。それはもう、宗教行事というよりは「年中行事」です。
神道は非常に原始的と言えば原始的ではありますが、しかし「どんなものにも神様がいる」と言われると、ちょっと襟を正して、なんだか多くの事物を受け入れる敬虔な気持ちになりますよね。こんな宗教、ちょっと他にはないと思います。
日本て、すごいですね。