縄文人の反乱 日本を大事に

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

済南事件 昭和3年(1928)

2013年08月31日 20時26分42秒 | 色んな情報
済南事件 昭和3年(1928)


日本人なら決して、このような残忍なことは行わない。
中国人は世界に類を見ない非道な人種か・・・

済南事件 昭和3年(1928)

済南事件は1928年(昭和3)5月3日、中国山東省の済南における、国民革命軍の一部による日本人襲撃事件、および日本の権益と日本人居留民を保護するために派遣された日本軍(第二次山東出兵)と、北伐中であった蒋介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件。蒋介石は日本軍による北伐の妨害であったと後に非難している。藤田栄介青島総領事は、南軍による組織的に計画された衝突と述べている。

事件の中で、日本人居留民12名が殺害され、日本側の「膺懲」気運が高まった。一方、日本軍により旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16名が殺害されたが、中国側はこれを重く見て、日本軍の「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した。さらにこれを機に、日本軍は増派(第三次山東出兵)を決定した。

衝突はいったん収まったものの、5月8日、軍事当局間の交渉が決裂。日本軍は司令部と城壁に限り、砲撃を開始。安全地帯と避難路を指定したため、南軍は夜陰に乗じて城外へ脱出し北伐を続行した。5月11日、日本軍は抵抗なく済南を占領した。中国側によれば、その際、中国軍民に数千人の死者が出たとされる。藤田栄介青島総領事によると、中国商民らは日本軍の正確な砲撃によって被害のなかったことに感謝していた。

中国兵による略奪陵辱暴行殺人事件。
日本人居留民の受けた被害は、掠奪された戸数136、被害人員約400人、中国兵襲撃による死者2人、負傷者30余人、暴行を受けた女性2人、行方不明12人であった。
尚、この12人については、裸体にされ後手に縛られ、中国兵に連行されるのを見たという情報もあったので捜索が続けられた。12人は、後に、死体で発見された。その惨状は次の通りであった。

▽ 藤井小次郎(土産物商)=頭及び顔の皮を剥がれ、眼球摘出。内蔵露出。陰茎切断

▽ 井上国太郎(雑貨商) =顔面破砕。両眼を摘出して石をつめる。上膊部に刺創。左股に貫通銃創。

▽ 斉藤 辰雄(桐材商) =顔面に刺創。地上をひきずられたらしく全身に擦創。

▽ 東条弥太郎(土産物商)=両手を縛られて地上をひきずられた形跡。頭骨破砕。 小脳露出。眼球突出。

▽ 同妻 きん      =両腕を紐帯で後手に縛られて顔面、胸部、乳房に刺創。 肋骨切損。陰部に棒を差し込まれていた。

▽ 鍋田銀次郎(雑貨商) =左脇腹から右脇に貫通銃創。

▽ 宮本 直八(土産物商)=胸部貫通銃創、肩に刺創数カ所。頭部に鈍刀による切創。 陰茎切除。

▽ 多比良貞一(土産物商)=頭部にトビ口様のものを打ち込まれたらしい突創。腹部を切り裂かれて小腸露出。

▽ 中里重太郎(土産物商)=顔面壊滅。頭骨粉砕。身体に無数の刺創。右肺貫通銃創

▽ 高熊 うめ      =肋骨切損。右眼球突出。全身火傷。左脚の膝から下が脱落。右足の白足袋で婦人と判明した。

 他の二体は顔面を切り刻まれたうえに肢体を寸断され、人定は不可能だった。

 また堤口東北四百米の日本人墓地は、墓があばかれ、葬儀場や火葬室も破壊されていた。
 あばかれた墓の周囲には、砕かれた骨壺や骨片が散乱していた。

 「惨状 視ルニ忍ビズ」
 (以上、児島襄著『日中戦争』より抜粋引用)

これらの残虐行為は日本人には想像もつかないものであった。

 この後、国民党軍の大部分は済南を抜け出し、残置兵との戦闘が11日まで続く。
 蒋介石は、一方的に日本に発砲を止めろというのみで、自分の兵に戦争を止めさせようとはしなかった。

 中国は、自分たちで残虐行為を働いておきながら、日本軍がやったと逆に宣伝、 翌年には、この事件を「国恥」として講演した。

 この事件について、 華北の有力外字紙 「京津タイムス」 は 「日本軍がいなければ外国人はことごとく殺戮されただろう」 と報じ、 英紙 「デイリー・テレグラフ」 は 「支那人は略奪と殺人を天賦の権利であるごとく、暴行を繰り返している」  「日本人の忍耐にも限度がある」 と書いている。

http://brain.exblog.jp/2809948
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-109.html

尖閣諸島は日本固有の領土です

2013年08月31日 17時50分37秒 | 色んな情報
尖閣諸島は日本固有の領土です
大日本帝国陸軍が行った測量

https://fbcdn-sphotos-d-a.akamaihd.net/hphotos-ak-ash4/s403x403/1238086_648456215178094_653869920_n.png

測量してない土地を自国の物だと言うのは変な話しですねw


だめ押しをして起きたいと思います。1930年、日本陸軍が尖閣諸島の詳細な測量を行っています。この測量が尖閣列島の最初の測量ですが、もともと「他人の国を測量できない」というのは当たり前なので、尖閣諸島は日本の領土だったことがハッキリします。

この地図が陸軍の測量図で、無人島の一つ一つを詳細に測量しています。さすが軍隊ですね。歴史的にそれまでまったくどの国にも所属せず、かつ無人島だったのですから、最初に測量をした国の所属であることは言うまでもありません。


(平成24年9月14日)

武田邦彦

《 自衛隊のお兄ちゃん 》

2013年08月31日 12時28分30秒 | 色んな情報
《 自衛隊のお兄ちゃん 》


自衛隊に関しては色々な意見があるようですが、
少なくとも、私たち親子にとって、
自衛隊の皆さんは、ヒーローです。
たった一家族の小さな力ですが、
私たち家族は自衛隊の皆さんを応援します。



一昨年の夏、私は息子(5歳)を連れて、
家から車で1時間のところにある、
自然博物館の昆虫展に向かっていました。
ムシキングの影響で、
息子は、とても楽しみにしていました。
あと数キロと言う地点で、渋滞の最後尾に。
止まった瞬間、ものすごい衝撃に襲われました。
後方から来た、大型トラックに追突されたのです。
一瞬、何が起こったのか理解できませんでしたが、
すぐに追突されたと、判断できました。

即座に、助手席に居た息子の安否を、
確認しようしたのですが、
そこには息子の姿がありませんでした。
子供の名前を叫ぶと、助手席の足元から、
「痛い」という声が。
息子は、衝撃でシートから足元にずれ落ち、
挟まれていました。
正直、半狂乱になってしまいました。
あのときの私は、完全に冷静さを失っていました。


半狂乱の私も、足を挟まれて動けない事に気づきました。
動けない私は、叫ぶしかなかったのです。

追突から時間にして1~2分でしょうか。
いきなり、運転席側の変形したドアを、
無理やり、開けてくれた人たちがいました。
緑色のヘルメットに、迷彩服の数人の自衛隊員。
私の足が挟まれているのを知った後、
何やらバールのようなもので、運転席をこじって、
後ろにずらし、私を出してくれました。

「息子が助手席の足元に挟まれてます!助けてください!」
お礼の前に、そう叫んでいました。
すると、若い隊員さんは運転席同様、
助手席のシートを無理やりはずし、
潜り込むように、助手席に入っていきました。
他の隊員さんと、大声で作業指示をしながら、
懸命に救助されていました。
数分でしたが、私にとっては、
とんでもなく、長い時間に感じられました。
そして、息子は挟まっていた車体から、
外に、助けていただきました。


と、同時に救急車と工作車が到着。
息子は救急隊の方にゆだねられました。
私も両足が痛くて、立てなかったのですが、
せめて、お礼だけはと思い、
その隊員さんのもとに、這って行きました。

私「本当にありがとうございました!ありがとうございました!!」
自「いえいえ、当たり前のことをしただけです。
怪我は治ります。命が無事でよかったです」

その隊員さんをよく見てみると、
右肩付近が、黒く濡れています。

私「もしかして怪我されているんじゃ?」
自「え?ああ、潜ったときにチョット何かが刺さったみたいです」
 
隊員が、体をひねって右肩を見せようとしたところ、
背中はさらにベッチョリと、濡れていました。
普通に考えたら、大量出血です。
それでも、その隊員さんは笑いながら、
「チョット痛いだけです。大丈夫です」と。
その後、私は息子と共に救急車で運ばれていきました。

息子は両足の骨折、私は右足の骨折でした。
治療が終わって息子のベットに行きました。
「よく泣かなかったね、がんばったね」
と、声を掛けてやると、
息子は、「お兄ちゃんが笑ってたから泣かなかったよ。クワガタの話もしたよ」
冷静さを失っていた私は、聞こえませんでしたが、
隊員さんと、何やらムシキングの話をしていたそうです。
そのため、息子は安心したらしく、
痛くても、我慢できたそうです。
嬉しくて有難くて、そこで初めて涙を流しました。

その後、救援に来ていただいた消防署に出向き、
その隊員さんの所属を、教えていただきました。
駐屯地の場所を、ネットで探し出しました。
そのページを見ると「記念行事」なるものが、
2週間後にあることが判明。
怪我の治療状況と相談し、
記念行事に、お邪魔する事にしました。

初めて入る駐屯地。
意外と来客も多く、ビックリしました。
どこに行けば良いかも判らず、
車椅子に乗せた息子と、ウロウロしてしまいました。
そのうち、式典や訓練?が始まり、
大砲や戦車の音にビックリ。
なんだか、息子も私も楽しんでしまっていました。
午後になっても、結局ウロウロ・・・。


と、その時一人の隊員さんが声を掛けてきました。
大怪我をしてまで、息子を助けてくれた隊員さんでした。
ニコニコした笑顔に、私は男ながら、
涙がこぼれてしまいました。
「あの時は本当にありがとうございました!」
この一言が、どれだけ言いたかったか、
息子の回復振りを、見てもらいたかったか。

色々とお話を聞かせていただきました。
背中の怪我は何かが刺さったのではなく、
車体の金属部分で切った事。
17針縫った事。
助けられて、自分の子供のように嬉しかった事。
私にとっても息子にとっても、そこに居たのは、
正にヒーローでした。

その後、その隊員さんは普段訓練で乗られている緑色のバイクを見せてくれました。
足が完治していない息子を抱き上げ、
一緒に、バイクに跨ってくれました。
そのときの息子の顔はとても嬉しそうで、
一緒にバイクに乗っている隊員さんは、
まさに、テレビに出てくる戦隊物のヒーローに見えました。
その時一緒に撮らせていただいた写真は、
息子の宝物になっています。

息子は、ムシキングよりも自衛隊のお兄ちゃんの方が大好きみたいです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

自衛隊の憲法論議はいろいろあるかと思いますが、

自然災害のとき、私たちを助けてくれるのは、
自衛隊の皆さんです。
泥にまみれ、眠る時間も惜しんで、
行方不明者の捜索をしている姿を、
ニュースで見るにつけ、
胸にこみ上げてくるものがあります。

自分の背中に大怪我を負いながら、
痛くないわけがありません!!

でも、笑顔で子供を助けだす姿が、
目蓋の裏に、浮かんできます。
まさに、ヒーローだと思いませんか?

この息子さんは、自衛隊のお兄ちゃんのことを、
一生、忘れることはないと思います。

自分のことは投げうって、人々を救出する姿に感動を覚えていただけたら、シェアをお願いします。

『初公開! 天皇の戸籍「皇統譜」」』

2013年08月31日 08時56分06秒 | 色んな情報
『初公開! 天皇の戸籍「皇統譜」」』

京免 史朗

https://fbcdn-sphotos-e-a.akamaihd.net/hphotos-ak-frc1/1006362_382474811879831_1482355010_n.jpg

https://fbcdn-sphotos-c-a.akamaihd.net/hphotos-ak-frc3/p130x130/1148823_382474841879828_618509537_n.jpg


https://fbcdn-sphotos-b-a.akamaihd.net/hphotos-ak-ash4/p130x130/1003221_382474898546489_956223336_n.jpg


 明治23年(1890年)11月29日に施行された「大日本帝国憲法」の第1条は、
《大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス》
 となっています。今上天皇は第125代ですから、これまで日本には全部で125人の天皇がいたことになります。そして、その全員が断絶することなく連綿とつながっているーーこれが「万世一系」ということですな。
 
 で、そんなのウソだろうという厳しいつっこみが戦後民主主義の成果(?)なわけですが、ウソならウソという根拠はあるのかな? 逆にホントならホントという証拠はあるのかな?
 
 実は天皇家には「戸籍」がありません。そのかわり「皇統譜」というものに系統が記録されています。大正15年の「皇統譜令」(厳密には昭和22年の「皇統譜令」)によれば、「皇統譜」は天皇・皇后用の「大統譜」と、それ以外の皇族用の「皇族譜」からなっています。
 たとえば、2001年12月に誕生した愛子さまは、皇族譜にこう書かれています。

内親王 愛子(アイコ)
父 皇太子徳仁親王
母 皇太子徳仁親王妃雅子
平成十三年十二月一日午後二時四十三分東京都千代田区千代田一番二号宮内庁病院ニ於テ誕生ス
平成十三年十二月七日命名ス
 
 この「皇統譜」をたどっていけば、もしかしたら万世一系が証明されると思いません? そこで、宮内庁に行って情報公開請求してきました。 
 はたして現物は見られるのかな? そう思って聞いてみると、「皇統譜」正本は宮内庁書陵部の金庫奥深くに眠り、閲覧は写真複写したものしかできないそうな。う〜ん残念。というわけで、そのコピーを入手です!

これが初代神武天皇の「皇統譜」だ!
 
 よーく見てみると、中央ちょっと左に
辛酉歳正月朔庚辰即天皇位於橿原宮是年為元年
 とありますね。これは「紀元前660年2月11日、神武天皇が橿原宮で即位し、これを天皇元年とする」という意味ですな。これが建国記念日の起源。
 
 ところで右端に「皇統第一 世系第六」とありますね。では、「世系第一」は誰でしょう? 当たり前というか、これは天照大神なんです。

はじめて情報公開請求された
「天照大神の皇統譜」

 いちおう、日本書紀から神武天皇と天照大神がつながる文章を書いておきましょう。

《皇軍は内つ国に赴こうとした。しかし山の中はけわしくて行くべき道もなかった。進みも退きもならず、迷っているとき、夜また夢を見た。天照大神が(神武)天皇に教えていわれるのに、「吾は今、八咫烏(やたのからす)を遣わすから、これを案内にせよ」と。はたして八咫烏が大空から飛び降ってきた。天皇がいわれる。「この鳥のやってくることは、瑞夢(ずいむ)に適っている。偉大なことだなあ。さかんなことだなあ。天照大神がわれわれの仕事を助けようとして下さる」と》(『日本書紀』講談社学術文庫版)

 こうした天照大神の手助けの下に神武天皇は東征に成功、国土統一するわけです。それにしても、おそるべし「皇統譜」。まさにこれによって、万世一系は証明されたようなもんです!

1. 昭和天皇の「皇統譜」
2. 初代神武天皇の「皇統譜」
3. はじめて情報公開請求された「天照大神の皇統譜」