縄文人の反乱 日本を大事に

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日本は天皇の祈りに守られている。

2013年08月29日 17時53分18秒 | 色んな情報
日本は天皇の祈りに守られている。







多くの日本人は天皇陛下が折りに触れ、国民のために祈って下さっていることや皇室の最重要の役割が国家、国民の安寧を願う祭祀であることを意識さえしていない。知りもしない……http://yoshiko-sakurai.jp/2011/01/13/2322







我が国の天皇は、威厳と徳をもって立つ君主である。

他国の君主は人民の中から武力で上がり詰めたので、わが身を国民から守るために堅固な城に住んだ。 御所は無防備な宮殿に過ぎない。

現在まで125代連続と続く万世一系の皇室は国の始まりから君主であり、武力に依らず威厳によって皇統が維持されてきた。

絶大な権力を掌握した武将たちも決して天皇に取って代わろうとはしなかった。

天皇を国の中心に戴く我が国は、中国大陸における王朝の交替時のように人口が何分の一にも激減するような凄惨な闘争は生じなかった。

世界に類のない穏やかな君民一体の統治体制を造り上げて来たのである。

明治天皇、大正天皇、昭和天皇そして今上天皇が第一に御心に掛けておられることは皇祖皇宗への真剣な祈りである。

元旦の四方拝から始まって年に二十数回の祭祀を自らなさる。

天皇陛下は籾を播き、苗を植え、刈り取った稲を皇祖皇宗にお供えなさり、皇后陛下は蚕を御手ずから育てて神々に捧げ、国民を代表して国の繁栄をお祈りされている。

伊勢の内宮の御祭神である皇祖天照大神は天皇家の御祖先であるが、国民もまた伊勢の神宮にお参りする。

国民が君主の御祖先にお参りすることなど、外国にはない。

君民一体となって国の祖先をお祭りし国の安全と平和で豊かな暮らしを祈って来た。

これが我が国の国体である。


「皇室は日本の宝」 井上寛康よりhttp://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-733.html






天皇陛下は憲法が定めた書類決裁、叙勲、大臣任命式など(国事行為)、外交、祭祀、訪問など(公的行為)を年中無休で続けられている。

この仕事に定年はないし、なんの権限もない。地方行幸中も軽い病気でも原則休めない(休む時は憲法の規定で委任の決裁をしなければならない)。

このようなお仕事の他にも国民の目に触れないところで最も天皇陛下が、最重要視されている事。


それは祈りという事。







天皇は日々祈られます。『禁秘抄』(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E7%A7%98%E6%8A%84)には「恒例毎日の次第」という一章があって、天皇が毎朝、身を清められたあと、

京都御所・清涼殿の石灰壇(いしばいのだん)に立たれ、東南の方角に向かって、伊勢の神宮ならびに内侍所(ないしどころ=賢所)、各神社を遥拝されることが記されています。(http://blogs.yahoo.co.jp/meiniacc/43190442.html)

それは決して天皇の私事でもなく、天皇家の祖先崇拝でもなく、古来、祈りの霊力でこの国を治めてきた統治者としての公的な祈りです。国のため、民のための祈りです


俗人は自分や家族のために祈りますが、天皇は私なきお立場で、ひたすらに、「国中平らかに安らけく」と祈られるのです


毎日毎日国のため、国民のため、繁栄と安寧、そして世界平和のため祈られている。









皇室では、一年間に数多くの祭祀(お祭り)が執り行われます。なかでも大切なお祭りを三つ紹介します。この他のすべてのお祭りにも、天皇は真心をこめて取り組まれています。

また歴代の天皇は、政治権力や軍事力ではなくて、神々をまつる祭りの霊力によって、この日本という国を治められてきました。

天皇は祭り主であり、祭りこそ天皇のお務めです。テレビもインターネットもある情報化時代の現在ですが、天皇の祭りはマスコミには載りません。


側近も含め、誰も見ていないところで行われるのが、天皇の祭りなのです。







四方拝(一月一日)

新年最初の祭祀として、元旦の御前五時半から天皇陛下お一人で行われます。

神嘉殿(宮中三殿の西北に建てられた建物)の前庭で伊勢神宮や四方(東北南北)の神々に、その年の穀物の豊かな実りと国の平和国民の幸福を祈られるのです。

http://www.dailymotion.com/video/xywgem_%E5%8F%B2%E4%B8%8A%E5%88%9D-%E5%A4%A9%E7%9A%87%E9%99%9B%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%AD%A3%E6%9C%88%E7%A5%AD%E7%A5%80-%E5%9B%9B%E6%96%B9%E6%8B%9D_lifestyle

神嘗祭(かんなめさい)(十月十六、一七日)

伊勢神宮に祀られる天照大神に、その年の新穀をお供えになる大切なお祭りです。神嘉殿より伊勢神宮に向かって拝礼されます。


新嘗祭(にいなめさい)(十一月二十三、二十四)

その年初めてとれたお米を、天照大神にお供えして、天皇陛下も神様とともに召し上がる。夕方と明け方の二回天皇陛下がご自身で盛り付けて捧げられるのです。











平成24年1月1日(日) 四方拝 新年祝賀の儀×6回
平成24年1月2日(月) 新年一般参賀×5回
平成24年1月3日(火) 元始祭の儀
平成24年1月4日(水) 奏事始の儀
平成24年1月5日(木) ご会釈(勤労奉仕団)  ご引見(離任ウルグアイ大使)
平成24年1月6日(金) ご執務(御所)
平成24年1月7日(土)  昭和天皇祭皇霊殿の儀 昭和天皇祭御神楽の儀
平成24年1月8日(日) ご会釈(勤労奉仕団)
平成24年1月10日(火) 講書始の儀  拝謁(講書始の儀関係者(進講者,進講者控))
平成24年1月11日(水)  ご進講(國學院大學客員教授(冷泉天皇ご事蹟について))(千年ご式年に当たり)
               ご説明(日本赤十字看護大学名誉教授,日本看護協会副会長,高知県立大学学長(東日本大震災後における訪問看護につき))
               ご説明(国立がん研究センター理事長他(国立がん研究センター創立50周年に当たり))
平成24年1月12日(木) 歌会始の儀  拝謁(歌会始の儀関係者(召人,選者,披講諸役及び預選者))
平成24年1月13日(金) ご会釈(勤労奉仕団)  認証官任命式(大臣5名) ご執務
平成24年1月16日(月) 認証官任命式(副大臣1名)(宮殿)  ご夕餐(参議院議長夫妻(新任につき))
平成24年1月17日(火) ご説明(日本医師会会長,厚生労働省医政局長(東日本大震災被災者の健康支援につき))  ご執務  認証官任命式(大使等8名)
平成24年1月18日(水) 拝謁(農林水産祭天皇杯受賞者)・業績ご覧
平成24年1月19日(木) ご進講(環境事務次官)
               ご報告(日本赤十字社社長,同副社長(昨1年の活動につき))
               ご会釈(勤労奉仕団)
               信任状捧呈式(ベラルーシ,エクアドル)(宮殿)
平成24年1月20日(金) ご執務
平成24年1月23日(月) ご訪問(社会福祉法人東京リハビリ協会 日の出リハビリ)  ご視察(五日市郷土館)

平成24年1月24日(火) 第180回国会開会式  ご臨席(国立がん研究センター創立50周年記念式典)  ご会釈(勤労奉仕団)(蓮池参集所)  ご執務(御所) 平成24年1月27日(金) ご執務(御所)
平成24年1月30日(月) 孝明天皇例祭の儀(皇霊殿)
平成24年1月31日(火) 午餐(在京外国大使夫妻(ジブチ,グアテマラ,カメルーン,レバノン))  ご執務
平成24年2月2日(木)  皇居御発 葉山御用邸御着  ご挨拶(神奈川県知事,県議会議長,県警察本部長)  県勢概要ご聴取(神奈川県知事)
平成24年2月3日(金)  ご執務
平成24年2月7日(火)  葉山御用邸御発 皇居御着
平成24年2月7日(火)  ご執務(御所)
平成24年2月8日(水)  ご進講(外務省総合外交政策局長)  ご会釈(勤労奉仕団)  拝謁(人事異動者)


閣議決定された書類への署名や押印 2万2377件

外国の国王や大統領との面会 351回

外国の首相などとの面会 1068回

着任した外国大使から書状を受け取る儀式 597回

首相や最高裁長官の親任式 24回

大臣や大使など認証官の任命式 355回

大綬章など勲章の親授式 40回

文化勲章の親授式 20回

様々な功績者との面会 1494回

赴任する大使との面会 476回

帰国した大使から話を聞くお茶会 153回

以上、皇居にて 4578回(署名や押印を除く)


記念式典などの出席 356回

地方への訪問 246回

福祉施設などの訪問 172回

被災地へのお見舞いなど 15回

外国訪問 14回






http://www.kunaicho.go.jp/
http://blogs.yahoo.co.jp/watch_compass/8368925.html
http://11874.jugem.jp/?eid=355
http://blogs.yahoo.co.jp/meiniacc/45199296.html
http://bewithgods.ddo.jp/hope/japan/02.html

写真は現在まで125代連綿不断を誇る万世一系の皇室



https://fbcdn-sphotos-e-a.akamaihd.net/hphotos-ak-ash3/p526x296/1186333_554223494643586_1350654680_n.jpg

「大川小学校の生徒が書いた自衛隊への感謝の手紙」

2013年08月29日 16時59分27秒 | 色んな情報
「大川小学校の生徒が書いた自衛隊への感謝の手紙」

じえぃたいさんへ。
げん気ですか。
つなみのせいで、大川小学校のわたしの、
おともだちがみんな、しんでしまいました。
でも、じえいたいさんが
がんばってくれているので、
わたしもがんばります。
日本をたすけてください。
いつもおうえんしています。
じえいたいさんありがとう。

               うみより

一人の隊員(石井3曹)が受け取ったこの手紙。

この手紙は、またたくまに隊員の間にコピーされ、再び隊員たちを奮い立たせたらしい。
中にはこの手紙をコピーして、手帳に挟んで励みにした隊員もいた。

石井3曹に封筒を渡した少女は、名前も告げずに走り去っていった。
少女は、母親と思しき女性の運転する車でやってきて、偶然近くを歩いていた石井3曹にこの手紙を渡したのである。

石井3曹は込み上げるものを必死で堪えた。
「胸がいっぱいになりました……。あの頃は、発災から1か月が経とうとしており、疲れもたまっていたのですが、
あの手紙で、『明日からも頑張るぞ!』と皆、勇気が湧いてきたのです。
そして自分たちのやっていることが人々のためになっているんだ、とあらためて認識しました」

その後、この手紙は第14旅団長・井上武陸将補の陣取る女川の指揮所に届けられ、たちまち各派遣部隊に伝わった。

井上旅団長は言う。
「手紙を見た時は、もう体中の血が逆流するほどの思いでした。『よし、どんなことがあっても全員を捜し出すぞ!』という思いが漲ってきましたよ。
うみちゃんは、どんな思いでこの手紙を書いてくれたんだろうと思うと……」

利府町の加瀬沼公園に宿営地を設営した北海道の第1高射特科群のある中隊指揮所にも、この手紙のコピーがボードに貼り付けられた。

東日本大震災から49日目にあたる4月28日、飯野川第二小学校の体育館で、大川小学校の犠牲者の合同慰霊祭が営まれた。
祭壇には74の可愛らしい児童の顔写真が並んだ。その中には、いまだ行方不明の6人の児童の写真もあった。

その間も、第14旅団の隊員たちは、うみちゃんの手紙を胸に、行方不明の児童を捜し続けていたのである。

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「ハナテン」は中古車屋さんだと思とったぞな!

2013年08月29日 16時26分23秒 | 色んな情報
「ハナテン」は中古車屋さんだと思とったぞな!
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京免 史朗

大阪は、その地理から古代から首都や副都として栄えてきた。近世だけ見ても昔から南は「天下の台所」と、商業の町と知られ、北はその商業の中心と京の都をつなぐ街道や宿場町として知られる。

そのような歴史ある地域であるためか難読な地名も多く、府民でも読み間違ってちょっと恥ずかしくなったりした人もいるかもしれない。難読地名のなかから特に有名なもの「大阪難読地名10選」をご紹介したい。あなたはいくつ読めるだろうか?
 
【大阪府の難読地名10選】
・放出(大阪市鶴見区・城東区)
【読み】はなてん
大阪難読知名代表のひとつ。府民の場合は初見でもなんとなく読める、もしくは「ああ」と納得する場合が多い。恐らく、昭和から続く「あなた車売る?」、「はなてん中古車センッター♪」のCMで地名が刷り込まれているためではないだろうか。
 
・枚方(枚方市)
【読み】ひらかた
こちらも大阪難読地名としてよく挙げられる。しかし、ブラックマヨネーズの小杉竜一さん演じる「ひらパー兄さん(2009年~2013年)」やV6の岡田准一さん演じる「二代目ひらパー兄さん(2013年~)」のおかげで知名度がアップ、難読度は下がったかもしれない。なお、枚方が読めれば東大阪市の「枚岡(ひらおか)」も簡単に読めるハズだ!
 
・杭全(大阪市東住吉区)
【読み】くまた
「杭全」という地名は古くは平安時代初期から確認できるそうだ。歴史ある地名である。だが、その1200年以上の歴史があるにもかかわらず、看板にはフリガナがふられ難読地名扱いとは……相当難しい読みであるということを物語っている。
 
・立売堀(大阪市西区)
【読み】いたちぼり
由来は諸説あるが、とにかく読めない。だが、字面が妙にカッコいい気がする。ちなみに近辺にある「靱本町(うつぼほんまち)」の難しさも辞書を引くレベル。
 
・柴島(大阪市東淀川区)
【読み】くにじま
「しばしま」と呼びたくなるが、「くにじま」である。阪急千里線の柴島駅があるが、駅の利用者はそんなに多くないらしい。近くに阪急京都線の崇禅寺駅があるせいだろうか。
 
・住道矢田(大阪市東住吉区)
【読み】すんじやた
大阪府大東市に「住道(すみのどう)」という駅があるので、府民でもうっかり「すみのどうやた」と読みたくなるというトラップ。ちなみに公共交通機関などの「すんじやた」というアナウンスが、「スジャータ」と聞こえるというのは鉄板のネタである。
 
・茨田大宮(大阪市鶴見区)
【読み】まったおおみや
難読ではあるが、三井アウトレットパーク大阪鶴見の所在地なので、ジワジワ知名度が上がっているかもしれない。また、徒歩20分先にラグビー部で有名な茨田高校があるので、大阪の元ラグビー部はほぼ読めるとか。
 
・道祖本(茨木市)
【読み】さいのもと
北摂を代表する難読地名のひとつ。市民でも読めない人が多い。ちなみに付近にある「道祖神社」は「どうそじんじゃ」である。
 
・毛穴町(堺市中区)
【読み】けなちょう
けあなちょう、ではなく「けなちょう」だ。ストレートな読み方「けあな」に近いので一度見れば覚えられるだろう。ちなみにGoogleで「毛穴町」で検索すると、予測変換で「だんじり」が出てくる。堺では毎年10月にだんじり祭りが行われる。
 
・阿保(松原市)
【読み】あお
間違っても「アホ」と読んではいけない。「アホ」と読んだら、「あほやなぁ」と思われるかもしれない。


十三 じゅうそうも、普通に読める人はいないでしょうね。


佳山 充正 放出の由来は、弥生時代のはなちで から始まりとされてます。大昔、放出は淀川と
大和川が合流し、放出で川が氾濫していたようです。放れて出るから放出というようです。

http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q149717459

「放出」は何故「はなてん」という読み方なんでしょう? 由来みたいなのはあるのでしょうか? - Y!知恵袋

義和団事件と柴五郎  世界が称賛した柴五郎

2013年08月29日 16時14分12秒 | 色んな情報
義和団事件と柴五郎  世界が称賛した柴五郎
https://fbcdn-sphotos-e-a.akamaihd.net/hphotos-ak-ash3/q77/1173646_381999285260717_643235115_n.jpg

義和団の乱の際に軍事介入した八か国連合軍
http://livedoor.blogimg.jp/shibaracu/imgs/b/a/ba0cad4a-s.jpg

 明治33年(1900年)、清国で義和団事件が起こります。義和団は排外運動を行う宗教的秘密結社で外国人宣教師等を殺害し、ドイツ公使と日本公使を殺害します。この頃、清朝は改革を推進する光緒帝が失脚し、改革派は粛清され、西太后が実権を握っていました。政治力の落ちていた清朝は袁世凱の進言に耳を貸さず、義和団の呪術的なものを信じて味方してしまいます。各国に宣戦布告してしまったのです。

 このとき活躍した日本人で柴五郎は有名です。柴五郎は会津藩の出身で10歳のとき戊辰戦争があり、敗れた会津藩士は青森県陸奥の不毛の地で極貧生活を強いられます。柴五郎はそれでも生き延びて東京へ出て陸軍幼年学校へ入学します。そして義和団事件を通じてその名を世界に轟かせることになります。
 明治33年6月、北京で義和団と清国兵によって外国人への攻撃がはじまります。公使館付武官として赴任していた柴五郎中佐は状況を冷静に分析し、部下を叱咤激励しながら北京篭城戦を指揮します。当初白人らは日本人などあてにしていませんでしたが、やがて柴五郎の抜きん出た能力が評価されるようになります。

英国義勇兵のシンプソンという青年
「日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付のリュウトナン・コロネル・シバである。(中略) この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。彼は部下達を組織化し、さらに大勢の教民たちを召集して、前線を強化していた。実のところ、彼のなすべきことをすべてやった」

英国公使館書記生ランスロット・ジャイルズ
「日本兵がもっとも優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最優秀とみなされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵が、これにつづく。しかし、日本兵はずば抜けて一番だと思う」

英国公使マクドナルド
「北京篭城の功績の半ばは、特に勇敢な日本将兵に帰すべきものである」

アメリカ女性 ポリー・C・スミス
「柴中佐は、小柄な素晴らしい人です。彼が交民巷(こうみんこう)で現在の地位を占めるようになったのは、一に彼の智力と実行力によるものです。(中略) 柴中佐は、王府での絶え間ない激戦でつねに快腕をるふるい、偉大な士官であることを実証しました。だから今では、すべての国の指揮官が、柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです」

 北京篭城は55日間持ちこたえ、8月14日にはイギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリアと日本の連合軍が北京を攻略し、翌日陥落。事態は収束し、清朝の西太后は西安に逃げてしまいます。

 この後、英国のマクドナルドは駐日大使になります。日英同盟の締結を推進していきます。脳裏には柴五郎中佐の活躍があったことでしょう。この当時、英国は「光栄ある孤立」を誇りとしてどこの国とも同盟を結んでいませんでした。日英同盟は世界に冠たる大国イギリスが小国日本と同盟を結んだということで、世界中が驚愕したのでした。
 この義和団事件でロシアも派兵していますが、北京の救援には行っていません。何をしていたかというと満州を制圧したのでした。そしてロシアは朝鮮半島をうかがい、日露戦争へと発展するのでした。

犯罪は犯罪でしかありません。

2013年08月29日 15時46分45秒 | 色んな情報
犯罪は犯罪でしかありません。


手登根 安則

反戦平和は免罪符、何をしてもいい、フェンスに垢テープを貼ってもいいと思っている方、これからそれに参加しようとしている方へ読んでもらいたい。
犯罪は犯罪でしかありません。
落書きもそのひとつです。
むろん、テープ貼りも同一です。

最高裁が落書きを建造物損壊と認定

2006年1月23日
最高裁判所は1月17日、建物への落書きを「建造物損壊」と認めた東京高裁の判決に対する被告側の上告を棄却。落書きした男性に対する懲役1年2カ月、執行猶予3年の判決が確定した。被告人の弁護人を務めた西村正治弁護士は、「最高裁として落書きを建造物損壊と認めたのは初めてではないか」と話す。
落書きがあったのは、東京都杉並区立西荻わかば公園の公衆トイレ。被告の男性が2003年4月17日、トイレの外壁に「戦争反対」や「反戦」などと書き込んだ。落書きには、赤と黒のラッカースプレーを使った。
最高裁は、被告人側の上告理由を不当だと判断。「落書きはトイレの利用者の不快感を招くうえに、消すことが困難で塗装の上塗りに7万円を要する」と、認めた東京地裁の判断を追認した。

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平成16年(あ)第2154号

     決     定

本籍 (省略)

住居 (省略)

     書店員
         K
         昭和(省略)年(省略)月(省略)日生

 上記の者に対する建造物損壊被告事件について,平成16年9月3日東京高等裁判所が言い渡した判決に対し,被告人から上告の申立てがあったので,当裁判所は,次のとおり決定する。

     主    文

 本件上告を棄却する。

     理    由

 弁護人西村正治の上告趣意のうち,判例違反をいう点は,事案を異にする判例を引用するものであって,本件に適切でなく,その余は,憲法違反をいう点を含め,実質は単なる法令違反,事実誤認,量刑不当の主張であって,適法な上告理由に当たらない。
 被告人本人の上告趣意は,憲法違反をいう点を含め,実質は単なる法令違反,事実誤認,量刑不当の主張であって,適法な上告理由に当たらない。
 所論にかんがみ,建造物損壊罪の成否につき,職権で判断する。

 1 原判決の是認する第1審判決の認定によれば,本件の事実関係は以下のとおりである。
 (1)本件建物は,区立公園内に設置された公衆便所であるが,公園の施設にふさわしいようにその外観,美観には相応の工夫が凝らされていた。被告人は,本件建物の白色外壁に,所携のラッカースプレー2本を用いて赤色及び黒色のペンキを吹き付け,その南東側及び北東側の白色外壁部分のうち,既に落書きがされていた一部の箇所を除いてほとんどを埋め尽くすような形で,「反戦」,「戦争反対」及び「スペクタクル社会」と大書した。
 (2)その大書された文字の大きさ,形状,色彩等に照らせば,本件建物は,従前と比べて不体裁かつ異様な外観となり,美観が著しく損なわれ,その利用についても抵抗感ないし不快感を与えかねない状態となり,管理者としても,そのままの状態で一般の利用に供し続けるのは困難と判断せざるを得なかった。ところが,本件落書きは,水道水や液性洗剤では消去することが不可能であり,ラッカーシンナーによっても完全に消去することはできず,壁面の再塗装により完全に消去するためには約7万円の費用を要するものであった。

 2 以上の事実関係の下では,本件落書きの行為は,本件建物の外壁ないし美観を著しく汚損し,現状回復に相当の困難を生じさせたものであって,その効用を減損させたものというべきであるから,刑法260条前段にいう「損壊」に当たると解するのが相当であり,これと同旨の原判断は正当である。
 よって,刑訴法414条,386条1項3号により,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり決定する。

 平成18年1月17日
   最高裁判所第三小法廷
   裁判長裁判官 濱田邦夫
      裁判官 上田豊三
      裁判官 藤田宙靖
      裁判官 堀籠幸男

【たおやかに やまとなでしこ 咲きにけり りんと気高く たじろぎもせず】

2013年08月29日 14時53分42秒 | 色んな情報
【たおやかに やまとなでしこ 咲きにけり りんと気高く たじろぎもせず】

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-408.html より

京免 史朗

 
長谷川伸 - Wikipedia  http://p.tl/gy3j

長谷川伸シリーズ - Wikipedia  http://p.tl/m8tR
「股旅物」というジャンルを開発したのはこの長谷川であり、作中できられる「仁義」は実家が没落して若い頃に人夫ぐらしをしていた際に覚えたものをモデルにしたという。

またたび‐もの【股旅物】
博徒(ばくと)・芸人などが諸国を股にかけて旅をして歩くこと。  
小説・演劇・映画などで、各地を流れ歩く博徒などを主人公にして義理人情の世界を描いたもの。昭和初頭から使われるようになった語。

博徒 - Wikipedia  http://p.tl/NpLg
博徒(ばくと)とは賭博を常習とする者、または賭博をもって業となす者を指す。
客体で ある賭博より見た場合は博打を主催運営する者と賭客を指す。




長谷川伸といえば「沓掛時次郎」、「 一本刀土俵入」など 股旅もので、一性を風靡した作家です。その長谷川伸の書いた本の中に、「日本捕虜志」という著書があります。

第4回菊池寛賞を受賞した本なのですが、その中で、二木可南子さんという実在の女性が紹介されています。

彼女は、日本が降伏した昭和20年当時、数え年20歳でした。
東京で陸軍に徴用され、同じ年頃の娘3人とともに、シンガポールの医薬部隊に配属されます。

可南子さんの父、二木忠亮氏は、はイギリスのロンドンで個人商店を営んでいました。
そのため可南子さんはロンドンで生まれ、ロンドンで育っています。

ある日、可南子さんの母がロンドンで亡くなり、父は娘を連れて日本に帰国します。

やがて戦争が始まり、父は徴用され、大尉相当官の英語通訳を命ぜられ、マレー半島の攻略軍に配属されました。

娘の可南子さんは徴用されたとき、「父のいるシンガポールへ行きたい」と条件をつけたのが聞き入れられて、医薬部隊に配属されます。

医薬部は軍医少将の指揮下で、軍医中佐3人と、薬剤の中佐と主計少佐などが6人、そして徴用の技術者が600人いました。

女性は可南子さんのほかに3人。
いずれも英語が書けてタイプが打てます。
ことにロンドン生まれの可南子さんの英語は格調が高かったそうです。

終戦を迎えたとき、このシンガポール医薬部には、イギリス人が部局の接取にくることになっていました。

医薬部としては、接収のときのもつれを未然に食い止めるためにも、英語が堪能でタイプの打てる4人の日本人女性はいてもらいたい人たちです。

しかし接収に来るイギリス人が、すべて敬虔で紳士的とは限らない。
乱暴狼藉をはたらかれる危険はじゅうぶんにある。
結局一人ひとり説得することとし、可南子さんには軍医官があたりました。

軍医官は勇気を奮ってこう言います。

「あなた以外の三人の女性にも、残留してもらいたいと、それぞれ今お話をしています。」

「喜んで残留いたします。」

軍医官の言葉が終わると同時に可南子さんはそう答えた。

「え?」

「わたくし、東京へ帰っても父はおりません。」

「そうでしたね。あなたのお父さまはあのころから消息が絶えたのですね。」

可南子さんの父はその言動が軍の一部の怒りを買い、危険な地域に転出され、消息が絶えていたのです。

「ええ、ですから残留を喜びます。父はいつになってもシンガポールに、わたくしがいると信じているはずです。父は消息が絶える少し前に言いました。『父子のどちらが遠くへ転出となっても、一人はシンガポールにいようね。もう一人はいつの日にかシンガポールに必ず引き返してこよう。いつの日にかシンガポールで再会の時があると信じて』」

「二木さん、有難う。今後の仕事はあなたを疲労させるでしょうが元気を出してやってください。お願いします。」

「はい。愛国心は勝利のときだけのものではないと、散歩しているとき父がそう言いました。」

「そうでしたか。勝利のときより敗北のときこそ愛国心をと、お父様が言ったのですか・・・・。
二木さん、もう一つ、人すべてが善意を持っていはいない。
忌まわしい心を持つものもいます。
僕は、いや僕たちはあなた方4人の女性に危機が迫ったとき、人間として最善をつくすために、死にます。
これだけがあなたがたの残留に対して、わずかに確約できる全部です。」

「いえ、そのときには少なくともわたくしは、一足お先にこれを飲みます。」

襟の下からチラリと見えたのは青酸カリでした。

軍医官が唇をかみ締めて嗚咽を耐えたが、ついに咳を一つします。
それは咳ではなく押し殺したしのび泣きでした。

可南子さんは言います。

「できたらどうぞ、わたくしの死骸にガソリンをかけて、マッチをすっていただきたいのです。」

当時、終戦で復員する日本人を狙って、乱暴をはたらき、その女性が死んでもなお恥ずかしめをあたえられるという事件が実際にあったのです。

9月1日キング・エドワード病院にイギリスのハリス軍医中佐が、イギリスの300名の武装兵とともにやってきました。

4人の女性は青酸カリに手をかけて、窓のカーテンに隠れるように成り行きを見ています。

ハリス中佐と老紳士が印象的でした。
老紳士は、医学博士のグリーン氏です。

彼は穏やかなまなざしで言います。

「日本人の皆さん、私はまだあなたがたの気持ちがのみこめないので、武装した兵を必要としました。
日がたつにつれ、武装しない兵をごく少数とどめるだけにしたいと思います。
皆さんはそうさせてくれますか」とにこっと笑った。

ある日、日本刀が幾振りも隠されていたのが発見されます。
グリーン博士は激しく怒った。

「ここの日本人が私を裏切ったのが悲しい。
私の憤りを和らげうる人があれば、言うがよい。」

可南子さんは、軍医の意を受けて発言します。

芸術としての日本刀の在り方、名刀の奇蹟の数々、新田義貞が海の神に捧げて潮を引かせた刀、悪鬼を切り妖魔をはらった刀などの伝説等々。

日本の言葉で昼行灯という言葉があります。
これを人にあてて薄ぼんやりした人のことをいいます。
マレー人の言葉では、白昼に灯を点じていくとは、心正しくうしろ暗いことのない人をいいます。

「人種と言葉の差のあるところ、感情と思慮にも差があるはずです」とユーモアを交えて可南子さんは説きました。

苦りきったグリーン博士の顔は、いつか和らぎ、何度もふきだしそうにした。

グリーン博士は、時折、可南子さんのロンドンなまりの英語を懐かしむように眼を閉じて聞います。
グリーン博士はロンドン生まれだったのです。

可南子が席につくと、グリーン博士は言います。

「発見された日本刀は直ちに捨てます。日本刀を捨てたものの追求はやりません。」


軍医たちは語りあいます。

「いつか警備隊員で色男ぶってるのがいたろう。
あいつが上村美保江さんに失礼なことを言ったのさ。
すると彼女は、『汝は警備隊員か侵略隊員か』と毅然として言ったそうだ。
後でグリーン博士は『お前の頭の中の辞書にはレディという項がないのだろう』と言ったそうだ。
そこでその兵は転属を志願して二度と顔を見せなくなったそうだ。」

「それはね、可南子さんが教えたんだ。
降伏直後、3人の女性を集めて、イギリスの女性という超短期講座を開いたそうだ。だからあの4人はイギリスの兵隊につけこまれることはない。
だけど、その3人は、イギリス人の将校に階段で会えば、どうぞお先に道を譲るけど、可南子さんは決して譲らないね。
僕は何度も見ているよ。
あの子はロンドン育ちだけど、それだけじゃない。
国は負けても、個人の権利をそのために自分で進んで割り引くのは卑劣だという信念があるのだね。」

グリーン博士がかくも寛大だったのには、昭和17(1942)年イギリス軍が降伏して日本軍が入ったとき、博士も捕虜になった経験があったからです。

監獄はひどかったが、やがて日本軍が、敵と味方を一つに視て、双方をあわせて供養した無名戦士の碑を建てたという話を聞いた。

そして、たびたび監獄に来て、私財を投じて食糧や薬や日用品をながいあいだ贈ってくれた何人かの日本人がいた。

グリーン博士は、「自分たちが生き延びたのはこのお蔭です。いつの日か報いたい」と語り合っていた。

「わたしは、チャンギー監獄で日本人によって人間愛を贈られたのです。わたしはこれに答えなければならない。」

雨季に入ってグリーン博士はロンドンに帰り、後任としてカンニング博士がくることになった。

ある日、カンニング博士が着任します。

前日に可南子さんがタイプした、残留60人の日本人の名簿を博士に提出した。

グリーン博士がその名簿を読み上げた。
「上村美保江、守住浪子、成田由美子それから二木可南子」

「Oh! フタキ。フタキですね。」

「そうです。カンニング博士」

「私はこの名をずっと尋ねていたのです。」

まもなく二木可南子さんが呼ばれて部屋に入ってきた。
カンニング博士は、またたきを惜しむように可南子さんを凝視した。

「ドクター・カンニング、お忘れになっている言葉をどうぞ」と可南子さんは毅然として言った。

「あっ、おかけください」

「ぶしつけに見つめて大変失礼しました。私があなたをみつめたのは、あなたの顔に見出したいことがあったからです。タダスケ・フタキを知りませんか?」

可南子さんの心は胸打ったが、声に変化はいささかもありません。

「私の父です。」

「OH!」

「1940年、東京へ帰るまでロンドンにいた二木忠亮ならばです。」

「そうです。そうです。そして1942年にシンガポールに日本軍の通訳でいた人です!」

「父です、確かに。」

可南子さんの頬が赤く染まった。

「あなたはあの人の娘か。」

「父をご存じですか?」

「忘れるものですか。」

「父は生きていますか?」

「ああ、あなたも私と同様、あの人の現在を知らないのですか。」

カンニング博士は可南子のそばに来て抱き寄せ、
「カナコの父が、カナコの前に立つまで、私がカナコの父になります。」とささやいた。

カンニング博士も日本軍のマレー攻撃で捕虜になってチャンギー監獄に入れられていたのです。

200名の捕虜はそこから連れ出されて、タイとビルマをつなぐ鉄道の大工事にかりだされた。

その時の捕虜係通訳が二木だった。

二木は捕虜の辛苦をます生活の中で献身的につくします。
病人やけが人、衰弱者があるごとに二木はできるかぎりのことを尽くした。
捕虜たちは二木を、神の使徒ではないかと噂しあった。

二木は長期間捕虜達と一緒だったけれど、1944年に入って突然姿を消し、二木の後任者も彼がどうなったかを知らなかった。

カンニング博士は可南子に遭遇してから、イギリス軍、アメリカ軍、オーストラリア軍、オランダ軍と二木の生死を照会したが一向にわからなかった。

激しい雷雨が去ったある日、カンニング博士が、

「カナコ、誰かカナコを呼んできてくれ」と言った。

可南子さんが姿を見せると

「カナコ、お父さんは生きていたよ! 妻から電話で知らせてきた。 グリーン博士も電話で知らせてくれた!」

そのときの可南子さんの深い微笑みを、後でカンニング博士は「東洋の神秘の花」とたたえたそうです。

「カナコ、お父様はフィリピンにいた。アメリカ軍が今朝知らせてくれた。すぐに希望のところに二木を送還するそうだ。」

これを聞いて可南子さんの眼に涙があふれてきた。

可南子さんは一人シンガポールにとどまり、フィリピンから来た父と再会できたのでした。


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たおやかに
  やまとなでしこ
    咲きにけり
 りんと気高く たじろぎもせず
~~~~~~~~~~


父を慕って、シンガポールの医薬部に単身、赴任した可南子さん。
強いというか、たくましいです。

敗戦によって施設が接取されることになったときに、
「愛国心は勝利のときだけのものではない」と、自ら残留を望んだ可南子さん。
この精神性の高さ。素晴らしいです!

そして、万一、残ってもらう女性の身に何かありそうになったら、「自分は人間として最善をつくすために死にます。これだけがあなたがたの残留に対して、わずかに確約できる全部です!」と、嗚咽した軍医官もすばらしい。

自分の彼女でもなんでもないのです。
いってみれば同じ職場のスタッフの女性です。

その女性のために「万一のときは、自分は人間として最善を尽くして死にますっ!」

しかも、

「それが自分に確約できる全部ですっ!」

多少の訓練は受けていたとはいえ、軍医官です。お医者さんです。
そのお医者さんが、職場の女性のために、自分に残されたすべてを賭して、あなたを守って死にます、って言うんです。

ボクなどには到底及びもつかない精神の高みです。
しかし自分もそういう男でありたいと、本気で思います。

「いいえ、もしそういうことがあれば、私はこれを飲みます」と青酸カリを見せる可南子さん。
そして可南子さんは言いました。

「できたらどうぞ、わたくしの死骸にガソリンをかけて、マッチをすっていただきたい」
これって、死後の自分の遺体をきれいなままで守りたいっていうことです。
もうこんなこと言われたら、ほんと絶句です。

そしてイギリス軍が接取にやってきたときも、凛として是非を主張した可南子さん。

イギリス人の軟弱男が、女性に下品な口をきいたとき、「汝は警備隊員か侵略隊員かっ!」と、凛として言い放つ。すごいです。

そうした凛とした人としての高みにある女性。それが大和撫子というものだと思うのです。

可南子さんにいたっては、階段の道すらも譲らない!!気丈です! 

考えてみてください。
当時のイギリスは、大英帝国です。
イエローは、家畜以下の存在でしかない。

身長だって、当時の日本女性は150cm少々。
対する英国人は、平均身長190cm以上。

大柄なイギリス人将校が前からやってきて、小柄な可南子さんが、道さえ譲らす凛として胸を張って階段をすれ違う。

現代日本人よ、その凛々しい姿を見よっ!と言いたくなります。

そうした気丈さに心打たれたイギリス人の将校が、可南子さんのために、父親を探してくれるんです。

父親が見つかった知らせを受けたときの可南子さんの微笑みを、博士は

「東洋の神秘の花」

と讃えた。
わかる気がします。

当時のことです。捕虜の日本人女性は化粧などしていません。
スッピンです。

でも、命の輝きというか、人格からにじみ出る美しさというのは、下手な化粧などよりも、はるかに気高く美しい。
そういうものだと思います。

可南子さんのオヤジさんも立派な方です。

捕虜のために、ほんとうに必死で、私財までつぎ込んで働いた。
当時、日本人にすら、配給食や医薬品が行き届かない時代です。

飽食に慣れたイギリス人の生活水準と、日本のそれとでは天地ほどの開きがあった。そういう中で、捕虜のために最善を尽くしたお父さんも、ほんとうに立派な方です。


この物語には、後日談があります。

ある日、グリーン博士が、
「帰還の目処がついた、昭和21(1946)年の桜の花咲く頃に、あなたがたは日本に帰れるでしょう」とうれしい知らせを告げにきたとき、ちょっと気になることを言ったのです。

「ジェロンの収容所にいる日本人諸君が、あるイギリス人に不満をもっているそうですね。そういう話を聞いていますか?」

「いえ、聞いていません」

「私も確実には知らないのですから、今の話は取り消します。」

それは実は、こういうことです。

ジェロン収容所はシンガポールから5マイル離れたところにありました。

日本への復員船が3隻あったのだけれど、輸送指揮官の少佐が男だけ乗せて、女性の乗船を許さなかったのです。

その後、暴風雨が吹く季節風が吹く時期となり帰還船は停まってしまいます。

そこで日本人女性のなかで、怨嗟の声が起こったのです。
それに残った男どもが声を合わせるから、不満はますます大きくなる。

3月下旬にやっと1隻入ったが、このときもやはり女性の乗船は許されません。

少佐に対する怨嗟の声は、ますます高まった。

やっと次の引き上げ船がタンジョン・バガーの大桟橋に入ってきたとき、ようやく女性たちと子供全員の乗船が許されます。

女性たちは満腔の不満を胸いっぱいにして乗船してきた。

するとそのイギリスの少佐がお別れにきてこんなことを話しました。

「皆さんは私を怨んでいたそうですね。

でも私は皆さんに少しでも楽に日本で帰れることのほうが、私は大切だったのです。

私は船が入選するたびに検分しました。
そして一番気になるところを見に行きました。

この船には婦人用のトイレを心して作ってあります。

これならば、ほかのところもよいだろうと思いました。

私は戦時用の輸送船にあなたがたをおしこめて、不快な不自由な思いをさせたくなかったのです。」

女性たちの顔から恨みや不満の表情が消え、感謝の表情に変ってきた。

そしてその船が桟橋を離れる時、少佐へのせめての感謝のしるしにと、どこからともなく「蛍の光」が歌われ、歌声は60人ほどの女性たちの声で唱和されたのです。

イギリス軍の兵隊達はいついつまでもその船の影が見えなくなるまで見送っていたそうです。

このイギリス人少佐の日本人復員女性にたいする対応は、彼の意識の中に、二木可南子さんによる、日本人女性に対する畏敬の念があったからだといわれています。

たったひとりの女性の毅然とした姿が、勝者である英国人将校の心まで変え、多くの日本人女性を救ったのです。

このことは、私たち戦後の日本を生きる者も、忘れてはいけないエピソードではないかと思います。

『あなたが大切なの』

2013年08月29日 12時25分42秒 | 色んな情報
『あなたが大切なの』


目が覚めたら生きていた。

朝起きたらもうご飯ができていた。

窓を開けたら美味しい空気があった。

毎日ご飯が食べられる。


買い物に行ったら欲しいものが買えた。

美味しいものを食べて美味しいと感じる。

結婚して子供が生まれた。

子どもがすくすく育っている。……


「こんなこと、当たり前だと思ったら

大間違いです。

世の中に当たり前のことは

たったひとつしかないんです。

それは、産まれてきたすべての命には

必ず終わりがあるということ。

それだけが当たり前のことで、

それ以外のことはすべて奇跡なんですよ」


助産師の内田美智子さんがこう話していた。


内田さんといえば、

一昨年、この社説でも紹介した

『いのちをいただく』の著者。


毎年牛を殺して肉にする仕事をしている

坂本さんと、畜産農家で「みいちゃん」

という牛と一緒に育った女の子の話を綴った

感動的な絵本だ。


この年末から年始にかけて、

内田さんは連日新しい命を取り上げた。

その中には15歳の少女もいた。


分娩室で彼女は「痛い、痛い!」と

泣き叫びながら、やっとのことで

3000グラムを超える大きな赤ちゃんを産んだ

妊娠に至った経緯には、

言うに言えない事情があった。


しかし、産まれたばかりの赤ちゃんを

抱きながら、少女は「ママよ、私がママよ」

と何度も語りかけていたそうだ。


しばらくして、ずっと寄り添っていた、

30代後半だろうか、40台前半だろうか、

若くして祖母になったばかりの

母親に向かって言った。


「ママ、ありがとう」


同じ頃、国会議員の野田聖子さんが

不妊治療の末、50歳にして男の子を出産した

「50歳だろうが、15歳だろうが、

生まれてきた子は乳飲み子。

手がかかるのは同じ。

周囲のサポートは同じように必要です。


中学生だろうが、国会議員だろうが、

母親は一人しかいないんです。

育てられることに感謝して欲しい」

と内田さんは言う。


30年以上もお産の現場にいる。

そこは「おめでた」ばかりではなかった。


妊娠が分かってから

女性は約10ヶ月の月日を経ながら、

少しずつ

「母親になる」という決意をしていく。

それは自分の命を賭けて産むという決意だ。


わずか50年前、約2000人の母親が

お産のときに命を落としていた。


内田さんが助産師になった30年前は300人、

一昨年でも35人の母親が自らの

命と引き換えに子どもを産んだ。

死産もある。


ある妊婦は10ヶ月目に入って

胎動がしなくなったことに気が付いた。

診察の結果、胎児は亡くなっていた。

でも、産まなければならない。


普通、お産のとき、

「頑張って。

もうすぐ元気な赤ちゃんに会えるからね」

と、妊婦を励ますが、

死産のときには掛ける言葉がないという。

泣かない子の代わりに、

母親の泣き声が分娩室に響き渡る。


その母親は内田さんに

「一晩だけこの子を抱いて寝たい」と言った


真夜中、看護師が病室を見回ると、

母親はベッドに座って子どもをだいていた。


「大丈夫ですか?」と声を掛けた看護師に、

母親は、

「今、お乳をあげていたんですよ」と言った。


見ると、母親は乳首から滲み出てくる乳を

指に付けて、子どもの口元に移していた。


「このおっぱいをどんなにか、

この子に飲ませたかったことか。

泣かない子でも、その子の母親でありたい

と思うのが母親なんです。

何千年の時を経ても

母親は母親であり続けるんです。」

と内田さん。


父親・母親世代に内田さんは、

「子育ては時間が取られるなんて思わないで。

育てられるだけでも幸せなことなのよ」

と語り、


学校に呼ばれたときには、

「お母さんは命賭けであなたたちを産んだの。

だからいじめないで。死なないで」

と子ども達に訴える。


「命が大切なんじゃない。

あなたが大切なの」と。

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本当に、命の大切さが伝わってきます。


わたしも、今を生きていることは、

大変貴重なことだと思えます。


あなたが大切なのと、

子供さんに言えるならば、

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震えるほど泣けてくる

2013年08月29日 11時57分30秒 | 色んな情報
震えるほど泣けてくる

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「…(終戦時において)陛下に対する
占領軍としての料理の仕方は、四つありました。

一つは東京裁判に引き出し、
これを絞首刑にする。

一つは共産党をおだてあげ、
人民裁判の名においてこれを血祭りにあげる。

三番目は、中国へ亡命させて中国で殺す。
そうでなければ、
二〇個師団の兵力に相当するかと怯えた彼らです。

また第四番目は、闇から闇へ、
一服もることによって陛下を葬り去ることでありました。


いずれにしても、
陛下は殺される運命にあったのです。

天皇は馬鹿か、気狂いか、偉大なる聖者か、
いつでもつかまえられる。

かつては一万八〇〇〇人の近衛師団に
守られたかもしれないが、
今や全くの護衛を持たずして、
二重橋の向こうにいる。…


陛下の割腹自刃の計画は、三度ありました。
貞明(皇太后)様は、(侍従に、)
陛下から目を離さんように命じました。

じつに一番悩まれたのは、
陛下でありましたでしょう。


九月二七日、
陛下がただ一人の通訳を連れて、
マッカーサーの前に立たれたことは、
皆様方もよくご承知の通りであります。

ついに天皇をつかまえるべき時が来た。

マッカーサーは、
二個師団の兵力の待機を命じました。

マッカーサーは、
陛下は命乞いに来られたものと勘違いし、
傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえ、
ソファーから立とうともしなかった。

陛下は直立不動のままで、
国際儀礼としてのご挨拶を終え、こう言われました。


『日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります』


――弱ったのは通訳でした。その通り訳していいのか

――しかし陛下は続けました。


『しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように』


天皇は、
やれ軍閥が悪い、
やれ財界が悪いと言う中で、
一切の責任はこの私にあります、

絞首刑はもちろんのこと、
いかなる極刑に処せられても…
と淡々として申された。

このような態度を見せられたのは、
われらが天皇ただ一人であったのです。

陛下は我々を裏切らなかった。

マッカーサーは驚いて、
スクッと立ち上がり、
今度は陛下を抱くようにして座らせました。

そして部下に、

「陛下は興奮しておいでのようだから、
 おコーヒーをさしあげるように」と。

マッカーサーは今度は一臣下のごとく、
直立不動で陛下の前に立ち、

「天皇とはこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなものでありましたか!私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」
と。

陛下は、再びスクッと立たれ、
涙をポロポロと流し、

「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」
と。

そののちマッカーサーは、
陛下を玄関(ホール)まで伴い、見送ったのです。


皆様方、日本は八〇〇〇万人と言いました。
どう計算しても八〇〇〇万はおらなかったでしょう。

いかがです?
一億の民から朝鮮半島と台湾、樺太をはじめ、すべてを差し引いて、どうして八千万でしょうか。

じつは六六〇〇万人しかいなかったのです。

それをあえて、マッカーサーは、
八〇〇〇万として食糧をごまかして取ってくれました。

つまりマッカーサーは、
いわゆる、陛下のご人徳にふれたのです。

米国大統領からは、
日本に一〇〇〇万の餓死者を出すべしと、
マッカーサーに命令が来ておったのです。

ただ一言、マッカーサーは、
『陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた』
と言いました。


彼は陛下のために、
食糧放出を八〇〇〇万人の計算で出してくれました。

それが後で、ばれてしまいます。
彼が解任された最大の理由はそれであった
というのが、事の真相です。

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あの戦争は昭和天皇でさえ止められない程、
巨大な力がうごめいていました。

憎むべきは昭和天皇でなく、アメリカでもなく、
軍部でもありません。人の際限なき欲望なのです。

ただ、現在日本国で日本人が生活できてるのは
先人達のおかげだということは素直に感謝し誇りに思います。

このような事実がを知らない多くの人々に
伝えるためにシェアお願いします。