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【GHQを驚かせた占領下の「皇居勤労奉仕」誕生秘話】

2013年08月12日 21時39分30秒 | 色んな情報
【GHQを驚かせた占領下の「皇居勤労奉仕」誕生秘話】

Takeo Hiranuma Supporters /平沼赳夫氏をサポートする会
-戦にやぶれしあとのいまもなほ民のよりきてここに草とる(昭和天皇の御製)-

皇居勤労奉仕。
読者のみなさんは、この言葉を耳にしたことがおありだろうか。
全国各地から多くの人々がグループを作って上京し、皇居の中で四日間、ボランティアの清掃活動を行っている。その数、平成に入ってからの実績で言えば、一年間を通じておよそ一万人。この活動のことを「皇居勤労奉仕」と呼んでいる。
  *
清掃活動はまったくの無報酬であるのはもちろん、交通費も宿泊費もすべて自己負担だ。それでも約一万人もの人々が毎年、皇居での勤労奉仕を続けている。一般にはほとんど知られていない事実だ。しかし十分、注目に値するだろう。
では、この皇居勤労奉仕はいつ、どのような経緯で始まったのか。
この点については、幸いなことに、いくつか関係者の証言が残っている。まず、昭和天皇の側近に仕えた木下道雄侍従次長(当時)の証言を紹介しよう。

時は昭和20年12月。つまり終戦の年の年末のことだ。当時、日本は言うまでもなく占領下にあった。皇居も各門にはアメリカ兵が見張りに立っているありさまだった。

その皇居自体も、外観こそ戦前と変わらぬ様子であったものの、一歩、中に入ると戦災の跡が歴然として痛々しいまでの変貌ぶりだった。木造の建造物はほとんど焼失していた。明治時代に建てられた端正雄大な宮殿も焼け落ちて礎石や瓦、レンガなどが散乱し、目も当てられない状態だった。手入れが行き届かないため、雑草があちこち伸び放題に生い茂っていた。これは皇居前広場も同様だったから、外からも一目瞭然にわかった。

そんな折、皇居の坂下門の門外に60人ばかりの青年の一団が到着した--。


【皇居の清掃奉仕を申し出た若者たち】

この若者たちは、門衛の皇官警察官を通して、次のように申し入れたという。
「私たちは、宮城県栗原郡の各村のものでありますが、二重橋の前の広場に雑草が生い茂って、たいへん荒れている、ということを聞きましたので、草刈りやお掃除のお手伝いのため上京してきました。‥どうかお手伝いさせて下さい」と。

このことを筧素彦総務課長(当時)から電話で知らされた木下氏は、ただちに筧氏と一緒に門外で彼らと面会。その熱意に打たれて「一同の厚意に謝するとともに、遠路はるばる上京されたのだから、二重橋前もさることながら、皇居の内は人手不足のため、宮殿の焼跡には、いまだ瓦やコンクリートの破片が到るところに山積している。どうか、皇居の内にきて、それを片付けては下さらぬか、と提案したところ、この予期しない言葉に一同の喜びはたいへんなものであった」--。
木下氏の証言によれば、皇居勤労奉仕はこのような形で始まったことになっている(同氏『皇室と国民』。)

当時の交通事情を考えると、宮城県栗原郡の地元から上京してくるだけで、大変な苦労があったはずだ。しかも終戦直後だから経済情勢は極めて悪く、食糧の入手さえ困難な状況下でのことだ。その上、皇室そのものの行く末もなお不透明だった頃である。
出獄した日本共産党の面々は虚脱した国民の前で「天皇制の打倒」を叫び、GHQは昭和天皇側近だった内大臣の木戸幸一を戦犯容疑者として捕らえ、皇族の長老、梨本宮守正王まで拘引される始末だった。

そうした中で、60人もの若者たちが意を決して上京してきたことは、じつに驚くべきことと言ってよい。ただし、木下氏の証言だとも六十人の青年グループが突然、皇居に押しかけて「手伝い」を申し出たように受けとれるが、じつはこれ以前に勤労奉仕の受け入れをめぐるやりとりがあった。
この点については筧氏の証言がある。


【宮内省 総務課長の勇断】

それによれば、ことのいきさつは以下の通りだった。
この年の11月22日、宮城県から上京してきた二人の人物が宮内省(当時)を訪れた。この時、二人に応対したのが筧氏だった。

この二人は、地元で指導的役割を果たしていた。一人は青年団運動のリーダー、鈴木徳一氏、46歳。もう一人は東久邇宮(*ひがしくにのみや)内閣の緒方竹虎国務大臣の秘書官だった長谷川竣氏(のちの衆議院議員)、33歳。彼らは現今の思想悪化を憂いつつ、なお皇室のことを思って荒れた皇居の清掃にあたりたいと願う青年男女がすでに地元に60名にもおよんでいることを告げ、勤労奉仕の許可を求めたのであった。

この熱意ある申し出に対し、筧氏はどう対応したのか。氏の証言を引用しよう。
「当時はすでに占領下にあって、ことごとに占領軍の抑圧を受けている極めて酷い事情の下にあるので、こういう申し出をされる方も命がけなら、それを受け入れる決断をする方もまた異常の覚悟を要する状態でした。(中略)これを組織による意思決定の形をとったら、(中略)万一の場合、上の方にご迷惑が及ぶことがあっては一大事であると考え(中略)一切の責任を負って自分だけの独断でやることを決意しました」(日本教文社編『皇居を愛する人々』)

かくて筧氏は、信頼するただ一人の上司にだけ打ち明け、その内諾を得るや、ただちに二人に勤労奉仕の許可を申し渡したのであった。何とも恐れ入った勇断と言うほかない。

この時、鈴木・長谷川両氏は、何の書類審査もなく即日、許可されてビックリ仰天したという。それも無理はない。ただでさえお役所仕事というのは手続きが煩雑で、時間がかかる。ましてや天皇陛下のお側近くで仕える宮内省に、まったく前例のないことを申請しようというのだから、二人とも相当に手間暇がかかることは覚悟していたはずだ。それなのにただ一回の口頭の申し入れただけで、ただちに願いが聞き届けられたのだから。

【拡大する勤労奉仕にGHQが疑念】

宮城県栗原郡の若者たちは「みくに奉仕団」と名乗った。正確には男性55名、女性7名の計62名で、団長の鈴木氏と副団長の長谷川氏を除き、ほとんどが 22、3歳の若さだった。苛酷な占領下のことゆえ、彼らの行動に対しGHQがどのような対応をとるか予測がつかず、「娘っ子のうちには、両親兄弟と永い別れの水盃をかわしてきたものもいる」という(木下氏証言)。

むろん、占領当局によって拘束されるようなことはなかった。ばかりか、奉仕の初日に一同にとって思いもよらぬ感激的な場面が待っていた。みなの前に昭和天皇が姿を現されたのだ。
鈴木氏の証言を紹介する。

「奉仕はだんだん進んで正午近くになった頃です。静かだった奥御殿の石垣の上に、かすかに人の群の気配がするので、ひょっと見上げると、陛下がお立ちになって、こちらをご覧になっていられます。(中略)お付きの方が見えて、陛下がお呼びだという。私は作業衣のまま石段を上って御前にまいりますと、木下次長さんがお取次ぎで、いろいろ御下問を賜りました。(中略)やがてご政務所へお帰りになりましたが、その御後姿を拝し一同期せずして君が代を合唱しました。誰の眼にも涙がいっぱい光っていました」(前掲書)

その後、女官を伴って香淳皇后もお出ましになった。両陛下のお出ましに一同がどれほど感激したか、察するに余りあるだろう。
「みくに奉仕団」のことが各地に伝わると、我も我もと次々と奉仕団が結成され、勤労奉仕の申し出が宮内省に殺到した。何しろ翌21年には早くも188の奉仕団が名乗りをあげ、一万人余の人々が勤労奉仕に参加しているのだ。ピークは昭和26年で、何と4万人近くの国民が参加した(奉仕団は831団体)。

こうした動きに対し、GHQもさすがに疑念を抱き、背後に強力な組織があって、巨額の資金を投じ、彼らにとって良からぬ策謀をめぐらしているのではないかと、独自の調査を行ったらしい。その情報をキャッチした海外のメディアが奉仕団に取材をかけるようなこともあった。総力戦に敗れた国の君主制は第一次大戦時のドイツや第二次大戦時のイタリアのように滅びるのが通例だ。なのに日本の皇室の場合、滅びるどころか多くの国民がボランティアで皇居の清掃活動を行っている。彼らが不審に思うのも当然だ。だがもちろん、そこには何の背後関係もなかった。人々のひたむきな皇室への思いだけがあったのだ。

石原莞爾不在の東京裁判

2013年08月12日 21時11分39秒 | 色んな情報
石原莞爾不在の東京裁判

Takeo Hiranuma Supporters /平沼赳夫氏をサポートする会
 8月2日


石原莞爾と言えば、満州事変を思い浮かべる人が多いでしょう。戦後のWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)によって戦争についての罪悪感を植えつけられている日本人は日本軍が満州事変を起こして侵略したと思っているでしょう。ところが石原莞爾は東京裁判で裁かれていない。同じ満州事変に関わった板垣征四郎は死刑になりました。WGIPに洗脳されていてもこういう不整合に気づいている人もいるかもしれません。実は私もその一人でした。実際には満州国は正当な国家であり、日本の侵略ではなく、満州と支那はそもそも別ものです。東京裁判はインチキ裁判でした。

石原莞爾は昭和16年(1941年)には予備役になっており、終戦は講演先で玉音放送を聴いています。昭和20年9月以降全国に講演旅行を続けています。アメリカのジャーナリストのマーク・ゲインは関係者を取材し「日本は新しき救世主以上のものを得つつあった」と評しています。

昭和21年1月以降は持病が悪化し、入院。米、英、ソの検事が臨床尋問した際には「戦犯の中で第一級は、空襲、原爆投下で非戦闘員を殺害し国際法を蹂躙したトルーマンで、本当の元凶は鎖国の日本を脅かし、開国させ、日本を台湾、朝鮮、満州に赴かせたペリーである」と答えました。東条英機と意見が対立していたというではないかとの問いには、「東條には思想も意見もなく、意見のない者と意見の対立はない」と答えています。
石原莞爾は「満州国を作ったのは自分である。その人間を呼ばないで、どうして戦犯裁判など始められようか。私のいない東京裁判など滑稽である」とも言っていましたが、昭和21年(1946年)4月には石原莞爾は戦犯リストから削除されました。
石原はそれでも昭和22年(1947年)5月に東京裁判酒田出張法廷へ板垣征四郎の弁護側証人として出廷し「満州事変は支那軍の攻撃に起因し、本庄繁関東軍司令官の決断による自衛権の発動である」と強調します。

石原莞爾が戦犯リストからはずされたのは病気を患っていたことが理由とされていたようですが、石原は「もし、証言台に立てるのであれば裁判官や検事たちに堂々と”日本の言い分”を述べてやるのだが」というようなことを言っており、日本陸軍最高の理論家が法廷に出現することを連合国側が避けたとも言われています。石原は言論で対抗しましたがGHQは新聞各紙に圧力をかけ、石原の言論を封じ、所属していた東亜連盟の解散を命じました。それでも石原はトルーマンとマッカーサー軍政を批判し続けました。

石原莞爾は板垣征四郎が死刑判決を受けたとき、「石原も遠からず追いつくことと考えますから、若し道のあやしいところがありましたらお待ちください、道案内は自信がありますから」と伝言を書き、板垣の遺髪を国柱会の霊廟に納めること、法華経を上げての簡素な葬式を手配しました。

石原は昭和24年(1949年)8月15日、終戦からちょうど4年目に生涯を閉じます。


参考文献
「渡部昇一の昭和史(正)」渡部昇一著
「歴史読本」2009.9『石原莞爾の生涯』阿部博行
新潮45・2009.8「石原莞爾『終戦日記』で読み解く日本再建への執念」早瀬利之
参考サイト
WikiPedia「板垣征四郎」「石原莞爾」

心から平和を願われた昭和天皇様

2013年08月12日 20時57分55秒 | 色んな情報
心から平和を願われた昭和天皇様
 平沼赳夫氏をサポートする会
 8月6日

一九四五年二月、岩田氏(広島県出身岩田幸雄氏)は、当時の杉山陸軍大臣私邸に招かれ、次の如くその胸中を聞かされたのです。
杉山『岩田君、君は軍籍の無い一民間人であるにも拘らず、この戦争では日本軍のために挺身して偉大な貢献をして呉れ心から感謝している。その労苦に報いるためにも、一日も早く新兵器(原爆)を開発し、劣勢を挽回すべく懸命の努カをしていたが、事情があって残念ながら新兵器製造は中止した。実は御上(天皇)から強いお叱りを受けたのだ。
君の提出して呉れた秘録映画から、各国が新兵器開発に血眼になっている様子がよく判り、自分としては猶予は許されず、製造を急がせていた。
そして完成すれば最初ハワイに落とし、その威力を示し、戦況を日本軍有利に導く計画であった。
わが日本軍がウランを入手し、新兵器開発が今将に現実のものとなった段階で、東條首相がその旨天皇陛下に上奏した。戦局は極めて困難な状況下にあり、起死回生の決定打として、天皇にお喜び戴けるものと思って申し上げたのだが、意外に強い口調で反対された。その理由として「数ヶ国が、新兵器開発を競っているとのことだが、日本が最初に完成し使用すれば、他国も全力を傾注して完成させて使用するだろうから、全人類を滅亡させることになる。それでは人類絶滅の悪の宗家に日本がなるではないか。またハワイに投下する計画とのことだが、ハワイには日本の同胞が多数移住し、現地アメリカ人民と共に苦労し、今日を築きあげたところだ。そのような場所に新兵器を使用することは賛成できない」と申された。
東條首相は、天皇陛下の御意思に反することは出来ないということであったが、自分として敗戦となれぱ日本が滅びてしまい、全てを無くすと考え、製造促進を主張し意見が衡突した。〈中略〉
小磯内閣が誕生し、自分は再び陸軍大臣として入閣したので、飽く迄自分の責任に於て、秘密裡に新兵器開発を急がせていた。ところが、新兵器を積むロケットの燃料製造過程で誤爆事故が突発し、再度天皇陛下の知られるところとなった。
天皇陛下に呼ばれた私は、「まだやっていたのか!」と強くお窘めされ、誠に面目なく、これ以上開発を進めることは出来なくなった。私は日本が勝っても負けても、此の責任はとる覚悟だ。例え勝てたとしても、天皇陛下の大御心を煩わせた罪は万死に値する。更に多くの部下を死に至らしめた責任から逃れることはできない。
此処で話した事は誰にも話さないで呉れ給え。此の事を知っている者は、天皇陛下と東條と自分だ。何れにしてもその時が来れば、自決してお詫びする覚悟だ』
この貴重な一編の秘話こそ天皇の真実像を窺い知ることが出来、人類撲滅の核兵器を断固阻止され、八紘為宇、世界の恒久平和を希求されて止まなかった昭和天皇の御遺徳を偲ぶことができるのであります。

忘れないで下さい。昭和天皇様が国民を想う心

2013年08月12日 20時49分36秒 | 色んな情報
忘れないで下さい。昭和天皇様が国民を想う心

Takeo Hiranuma Supporters /平沼赳夫氏をサポートする会
 8月6日


日本の敗戦の年である昭和20年、戦後の混乱の中で、
国民は大変な苦しみに耐え忍んでいました。
特に食糧難は深刻でした。
必要な栄養は配給では到底摂取出来ず、ヤミで補うという状況でした。

人々はたけのこの皮を1枚ずつはぐように、
自分の衣類や家財などを少しずつ売って食いつないでいく
いわゆる「竹の子生活」という苦しい暮らしをしていました。

また、この年は明治43年以来の不作の年となりました。
天候不順、戦争による労働力不足、粗末な農機具、肥料や農薬生産の減少により、
米の収穫が例年より40パーセント近くも減少しました。

しかも敗戦により国家として成り立っていない中、
農民は収穫した作物を政府に出さずに闇ルートに横流ししていました。
その結果、政府の配給米が底をつく状況になりました。
大蔵大臣が「食糧がすぐに輸入されなければ1千万人の日本人が餓死するであろう」
と述べ、国民は迫りくる飢餓の恐怖におびえていました。

このような中、国民の食糧事情に最も胸を痛めていたのが昭和天皇でした。
昭和20年12月、政治家の松村謙三は宮中からお召しがあり、
天皇陛下からお言葉がありました。

「戦争で苦しんだ国民に、さらに餓死者を出すことは堪え難い。
皇室の御物の中には国際的価値のあるものもあると聞く。
その目録を作製させたから、米国と話してこれを食糧に替えたい」とのお言葉でした。

さっそく幣原首相がマッカーサーに面会してこれを伝えると、
感動したマッカーサーは
「自分としても、米国としても、その面目にかけても
御物を取り上げることはできない。
断じて国民に餓死者を出すことはさせないから、ご安心されるよう申し上げて下さい」
と答えたと言います。

食糧を求める国民の声はますます高まっていました。
昭和21年5月19日には食糧メーデーが行われました。
参加者は25万人といわれ、坂下門から皇居内にも群集が押し入りました。
教科書にも載っている
「国体は護持されたぞ。朕はたらふく食っているぞ。汝、臣民飢えて死ね。御名御璽」
というプラカードはこの時のものです。これは共産党によるものでした。
プラカードを持った者は不敬罪に問われました。

皇居前広場ではトラックを3台並べその上にテーブルをのせて演壇がつくられました。
演説が続き、最後に共産党の指導者・徳田球一が演壇に立ちました。
徳田はおもむろに皇居を指さし、
「オレたちは餓えている。しかるに彼らはどうだ」と集まった人々に訴えました。
                         
メーデーの翌日、マッカーサーは
「規律なき分子がいま開始している暴力の行使は、今後継続を許さない」と警告し、
食糧メーデーはGHQの命令で収拾しました。
そしてマッカーサーは吉田茂をGHQに招き
「自分が最高司令官である限り、日本国民は一人も餓死させない」と約束しました。
その約束通りGHQは6~7月にかけて20万トンの輸入食糧を放出し、
8~9月にはそれぞれ20万トンの食糧が放出されました。
これによって日本国民は餓死という最悪の危機を乗り越えることができました。