やさしい時間

「写真でブログ」タイトルを変更しました
何気ない日常を写真とともに綴ります

母と共に

2010年09月09日 | 家族  思い出
母が東京に移ったのには訳がある。

ある日、伯母(母の姉)に異変が出始め、そんな情報が母に入り始めた。

「待ち合わせに来ないことが増えた」
「人にお金をあげているようだ」
「毎日同じものを食べている」
「鍋を焦がしたりしている」
「銀行の人と喧嘩した」

様々なことがあちこちの人から聞こえ始めて
時々様子を見に行くようになった。
それは15年程前の話。
段々に認知症が進み、通いでは面倒見切れなくなり
そのうち住み着いてしまった。

伯母夫婦には子供がなく、
私たち兄弟は二人からその時々に可愛がられていたと思う。
ただ、伯母には宗教があり、また性格的にも変わった人で、
そんな関係で、大きくなるにつれて兄の他は
なるべく関わらないようになっていった。

母に請われ仕方なく伯母の家に行くと
伯母の理不尽で執拗な叱責に合い、
やはり行くべきではなかったと悲しい気持ちで帰るのだった。

そんなことで、私たち兄弟3人(兄以外)は
若いころはほとんど伯母夫婦との接触を避けて生きて来た。

ところが、伯母が認知症になり、
母が介護に通うようになり、母が大変だということを知ると
兄弟其々自分たちの方法で、関わるようになっていった。
特に伯父が亡くなってしまうと、伯母を抑制できる人がいなくなり、
母一人での介護は難しくなった。
だからといって、頻繁に助けに行くこともできず、
結局伯母は施設に入ることになった。

母は伯母を施設に入れたことをとても気に病み、
自分がしっかり介護すれば在宅で看れたのではないかと
思っていたようだった。
そんな気持ちを察して、伯母が施設に入って以来、
弟は毎週土曜か日曜日に母の家に通っている。
母を連れて伯母の施設に行き、お昼を一緒に食べ、
食材の買い物をして帰った。
感心なことにほとんど毎週続けてくれた。

伯母の状況が変わり、母の肺がんが悪さし始め、、、
母自身の状況も年々変わったが、
弟の介護は変わらず続いていた。

私は弟にすっかり甘えていた。
これまでの10年程はどんなに大変だっただろうか。
仕事もして、子供との遊びもして、介護もする。
疲れるに違いない。
自分の生活はどうなんだろう。

母の家に数日いて、一番心に引っかかったのは、
弟の心の問題だった。

「こんな状況で一人暮らしなんて無理なのに、ご家族は何を考えているんですか」
「小バエがこんなにいたんでは仕事に入れません」

そんなことをケアマネやヘルパーに言われた時、
普通ならやり過ごせるけれど、疲れていたりすると
全部自分に受け止めてしまうかもしれない。
何も言えない家族のことを、
介護に関わる人はもっと分かってほしいと切に思う。

結局、弟とは会えず仕舞いだったのが心に残る。


今回私へのヘルプの内容は
・母の現状を判断する
・今後生活する上での必要なサービスを考え、週間スケジュールを作る
・主治医との連携
・問題点の発掘

母も認知症だ。
段々進んで来ている。
しかも肺がんがあり、脳転移している。
脳にあったがんは数ミリの細かいものだったけれど、
30個もあり、そのうち15個をガンマーナイフで照射した。
今後は1ヵ月に1回の割で、MRIをして様子を見て行く。

今回、主治医との話で、今後のことが少し見えて来た。
病気のこと、生活のこと、同時に考えないと話は進まない。
生活の立て直しを新しいケアマネにお願いして、
家族のことは、北九州から見守ることにした。


母には一人で生活するのが大変だという認識が生まれた。
だけど、誰かの家に移ることは考えていない。
ならばどうしたって一人で暮らして行かなければいけない。
家族は自分たちのできる精一杯をして、
出来ない所はフォーマルケアに依存するしかない。
母には申し訳ないけれど、これが現実だから仕方ない。
母にも頑張ってもらわないといけない。


同じ日本に住んでいるけれど、
やっぱり遠い北九州から東京の母を思う。


(利用者さんの家から北九州の海を見る)









その先を語ろうね

2010年08月23日 | 家族  思い出
今日は、父の命日。
早いものでもう22年も経ってしまいました。

父との思い出はあまりありません。
何でかな~?
きっと私は父のことを
理解できなかったのかもしれません。
ただ怖いだけの存在でした。

父がおばあちゃんの家で亡くなってから、
もっと父と話したかった、と思うようになりました。

サボテンが好きで、お手製の温室で育てていました。
手作りの餃子が好きで、時々山のように作ってくれました。

もしかしたら、父はおちゃめで、
愛すべきキャラクターだったのかもしれないのに、
お酒を飲むと人が変わってしまって、
急に怒りだしたり、暴れだしたりしたために、
怖いというイメージばかりになってしまいました。

私もお酒が好き。
だけど、お酒に飲まれないように
父のようになってしまわないように、、、と
お酒を飲む時はいつもそんなことを
頭の片隅で思っているのかもしれません。

父が最初に脳梗塞で倒れたのは50歳でした。
早すぎますよね。
私はその歳をとうに越えてしまいました。
父の亡くなった歳もあと5年で追いつきます。
私は父の分も長生きします。
そして、父が見られなかった先の世界を
父の代わりに見たいと思います。
そのうち、父と語りあえるように、、、


~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~・・~


父は写真は好きだったかな・・・?



角島からの帰り道に、コスモスに出会いました。
今年、初めてのコスモスです。
マクロレンズを借りたので、
ちょっと遊んでみました。


こちらは、単焦点レンズで。



風が強く、なかなか焦点が合いません。
今日は練習、ということで、、、





最近、またまた写真の楽しさを知りました。
そして、奥深さも改めて思い知りました。

上手になりたいと思うだけではダメですね。
もっと勉強しないと、、、

もっと綺麗な写真が撮りたいと思う
今日この頃、、、

阿蘇の朝

2007年12月04日 | 家族  思い出
夕べの大雨がまだ霧になって覆っている。
山の向こうから次の雲がたれ込めてくる。
阿蘇の朝、
旅館からは外輪山の壁のような山が見えた。


あれから一年、
姑のいない阿蘇には用事もなく、
訪れたのは7月のお墓参り以来でした。

この季節の阿蘇は全てが冬枯れて、
一面が茶色の世界です。

哀しみを連想させる冬枯れた景色…


姑の一周忌の法要が無事に終わりました。