3月15日(金)
今朝は暖かだった。一日中、この暖かさは続いている。
庭の桃の花も、未だ十分奇麗だが、枝の先には薄緑の若葉が伸び初めている。
しかし、私の関心は桃の樹と言うより、かつての上司だったM氏の事ばかりを考えていた。
昨日、御茶ノ水から帰宅したら、M氏の訃報があったと、姉から聞いて驚いた。
長い間、体調がすぐれなかったM氏の事は十分わかっていたが、矢張り、驚きと残念さは隠せない。
早速、知らせがあった元勤務先へ電話をする。
かつての勤務先の電話番号すら忘れてしまった私は、随分、ご無沙汰をしているが、何と言ってもM氏との思い出の多い勤務先だった。
M氏は、きつい人だったが、本当は優しい人だったのだと、後で気付くほど、厳格そのものの上司だった。
M氏に「あなたも同じ年に海外派遣に出掛けたじゃないか。一緒に発表会へ行ったよ」と言われて、ああ、あの時の男性だったのだと、初めて気がつくぐらい、M氏の事を覚えていなかった。
M氏から言われて初めて驚く様なうかつな私だったのだから、大変な部下を迎えたと嘆かれるのも致し方の無い話だ。今、考えても、自分の愚かさを恥じる。
その頃の私は自分の置かれた立場についての理解が浅く、M氏は、随分、心配されたと今更ながらに思う。
私が赴任した当初は「自分の所に、新米で、しかも女の補佐役とは……」と、私を目の前にして嘆かれた。それも当然な事である。当時、大切な周年行事を後、半年で迎えると言う土壇場に立っておられたからだ。
早朝は当然だが、終電近く迄、自分なりに努力したが、相当に辛かった。当時の私は、長い入院後、食事が異常に細かった時である。でも、弱音は吐けない!
しかし、60周年記念式典が終わった日に「ご苦労様、有難う!」と、M氏は、ご自分の花束を私に下さった。どんなに嬉しかった事か、私は未だに忘れられない。
その後は、私の立場も考えて下さり、一緒に国際理解教育の研究組織を作って活動する等、陰になり日向になって指導して下さり、後の私の道を拓いて下さった。
もっと、せめて後一年、M氏のご指導を受けたかったが、残念ながら退職される事になった。事務室で私に言われた言葉が忘れられない。
「ご苦労様でした。よくやりました」と、何時も厳格なM氏がぽつりと言われた。
「そのお言葉だけで、私は大変嬉しいです」と感激しながら私は答えた。
僅か二年間のお付き合いで、M氏は定年退職を迎えられ、JICAの一員としてドミニカへ赴任された後は、時折、連絡をする様になった。
ある時、ドミニカのM氏に頼まれて、近所の医院へ薬をもらいに行った。
「何故、家族でもないあなたが来るの?お嬢さんはどうしたの?」と医師に聞かれた。
私の説明に「M氏はあなたを余程、信頼しているのだなぁ」と言われた。
はるばる、ドミニカからエアメールで論文のご指導を戴いた事がある。その話を聞いたある先輩が「すごいよ!M氏らしい!」と感心した。
私は嬉しかったし、更に勉強をしなければと身の引き締まる思いだった。
遠く離れたドミニカから、何時までも、私の事を気にして下さったM氏の優しさが今更の様に有難く思われる。
僅か2年間のお付き合いであったが、その後の私の仕事と精神面で、どれだけ様々な事柄を処していけたか、最高の師として尊敬していた大切な方だった。
M氏が亡くなったのは3月8日と、うかがった。
何と不思議な事だ。久し振りにご挨拶をと、自作のカレンダーのはがきを郵送した頃と、ほぼ、同じ時らしい。
結局、見ていただけなかったのだと思うと、悲しい。もっと、早くお便りを差し上げたら良かったのに……
何時も、必ず、M氏らしい几帳面で美しい文字の、細やかな返事を下さった。
それなのに、私は、何時もいつも、文字が書けなくなったと言う理由をつけて、プリントでお便りをしていた。
しかし、不思議な事に、今回は文字が下手であっても手書きでと決心してお出しした。しかし、結局、それは間に合わなかったのだ。残念でたまらない。くやしい。
足腰が心配で、お悔やみに高崎迄お伺いする事は出来そうも無い。
せめて、遠くからM氏のご冥福をお祈りするのみである。
高崎の奥様に電話を差し上げた。
数えで八十八歳で亡くなられた。昨年の12月半ばから入院されて、その後、3月2日に退院後は奥様が看病をされた。
3月8日に安らかにご逝去、10日通夜、11日告別式が行われた。と、奥様からうかがった。
ご冥福をお祈りします。
結局、私のカレンダーを見て戴く願いはかなわなかったのですね。残念です。

今朝は暖かだった。一日中、この暖かさは続いている。
庭の桃の花も、未だ十分奇麗だが、枝の先には薄緑の若葉が伸び初めている。
しかし、私の関心は桃の樹と言うより、かつての上司だったM氏の事ばかりを考えていた。
昨日、御茶ノ水から帰宅したら、M氏の訃報があったと、姉から聞いて驚いた。
長い間、体調がすぐれなかったM氏の事は十分わかっていたが、矢張り、驚きと残念さは隠せない。
早速、知らせがあった元勤務先へ電話をする。
かつての勤務先の電話番号すら忘れてしまった私は、随分、ご無沙汰をしているが、何と言ってもM氏との思い出の多い勤務先だった。
M氏は、きつい人だったが、本当は優しい人だったのだと、後で気付くほど、厳格そのものの上司だった。
M氏に「あなたも同じ年に海外派遣に出掛けたじゃないか。一緒に発表会へ行ったよ」と言われて、ああ、あの時の男性だったのだと、初めて気がつくぐらい、M氏の事を覚えていなかった。
M氏から言われて初めて驚く様なうかつな私だったのだから、大変な部下を迎えたと嘆かれるのも致し方の無い話だ。今、考えても、自分の愚かさを恥じる。
その頃の私は自分の置かれた立場についての理解が浅く、M氏は、随分、心配されたと今更ながらに思う。
私が赴任した当初は「自分の所に、新米で、しかも女の補佐役とは……」と、私を目の前にして嘆かれた。それも当然な事である。当時、大切な周年行事を後、半年で迎えると言う土壇場に立っておられたからだ。
早朝は当然だが、終電近く迄、自分なりに努力したが、相当に辛かった。当時の私は、長い入院後、食事が異常に細かった時である。でも、弱音は吐けない!
しかし、60周年記念式典が終わった日に「ご苦労様、有難う!」と、M氏は、ご自分の花束を私に下さった。どんなに嬉しかった事か、私は未だに忘れられない。
その後は、私の立場も考えて下さり、一緒に国際理解教育の研究組織を作って活動する等、陰になり日向になって指導して下さり、後の私の道を拓いて下さった。
もっと、せめて後一年、M氏のご指導を受けたかったが、残念ながら退職される事になった。事務室で私に言われた言葉が忘れられない。
「ご苦労様でした。よくやりました」と、何時も厳格なM氏がぽつりと言われた。
「そのお言葉だけで、私は大変嬉しいです」と感激しながら私は答えた。
僅か二年間のお付き合いで、M氏は定年退職を迎えられ、JICAの一員としてドミニカへ赴任された後は、時折、連絡をする様になった。
ある時、ドミニカのM氏に頼まれて、近所の医院へ薬をもらいに行った。
「何故、家族でもないあなたが来るの?お嬢さんはどうしたの?」と医師に聞かれた。
私の説明に「M氏はあなたを余程、信頼しているのだなぁ」と言われた。
はるばる、ドミニカからエアメールで論文のご指導を戴いた事がある。その話を聞いたある先輩が「すごいよ!M氏らしい!」と感心した。
私は嬉しかったし、更に勉強をしなければと身の引き締まる思いだった。
遠く離れたドミニカから、何時までも、私の事を気にして下さったM氏の優しさが今更の様に有難く思われる。
僅か2年間のお付き合いであったが、その後の私の仕事と精神面で、どれだけ様々な事柄を処していけたか、最高の師として尊敬していた大切な方だった。
M氏が亡くなったのは3月8日と、うかがった。
何と不思議な事だ。久し振りにご挨拶をと、自作のカレンダーのはがきを郵送した頃と、ほぼ、同じ時らしい。
結局、見ていただけなかったのだと思うと、悲しい。もっと、早くお便りを差し上げたら良かったのに……
何時も、必ず、M氏らしい几帳面で美しい文字の、細やかな返事を下さった。
それなのに、私は、何時もいつも、文字が書けなくなったと言う理由をつけて、プリントでお便りをしていた。
しかし、不思議な事に、今回は文字が下手であっても手書きでと決心してお出しした。しかし、結局、それは間に合わなかったのだ。残念でたまらない。くやしい。
足腰が心配で、お悔やみに高崎迄お伺いする事は出来そうも無い。
せめて、遠くからM氏のご冥福をお祈りするのみである。
高崎の奥様に電話を差し上げた。
数えで八十八歳で亡くなられた。昨年の12月半ばから入院されて、その後、3月2日に退院後は奥様が看病をされた。
3月8日に安らかにご逝去、10日通夜、11日告別式が行われた。と、奥様からうかがった。
ご冥福をお祈りします。
結局、私のカレンダーを見て戴く願いはかなわなかったのですね。残念です。
