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《遺骨用に指を切りとり缶に入れ焼却》日本兵5000人死亡 “孤立無援の島”の軍医が残した「悲痛な日記」

2021-10-11 15:30:00 | 日記

下記は文春オンラインからの借用(コピー)です

 太平洋に浮かぶ小さな島で、日本軍の将兵6500人が孤立無援の“置き去り”状態になり、5000人が餓死、病死した悲劇があった。極限状態に陥った「絶海の孤島」で、何が起きていたのか――。昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏が寄稿した。
◆◆◆
飢餓で、靴用クリームを舐める者も…
 メレヨン島の食糧事情は、さらに悪化していった。キノコや雑草、木の葉を口にする者もいたが、下痢を起こして身体の衰弱を早めてしまう場合が多かった。靴用のクリームを舐める者まで現れた。
 やせ細った兵士たちは、食べ物の話をした。汁粉や羊羹の話題がよく出たという。
 極限を超えた飢えや渇きの中で、多くの兵士たちが無念の思いと共に餓死していった。餓死者の遺体は、どれも骨と皮だけのような状態であった。当初は遺体を埋葬していたが、やがて穴を掘る体力もなくなり、そのまま放置されることもあったという。
 栄養失調による餓死者の他、アメーバ赤痢やデング熱、脚気といった疾病にも苦しめられた。医薬品も不足し、患者にはヤシの実の果汁をブドウ糖液の代わりに注射した。戦病死者の数も日に日に増えていった。
 さらに、将兵たちを悩ませたのが、「自分たちの存在意義」を見出すことの難しさだった。メレヨン島を無視するかたちで進軍した米軍は、日本本土への空襲を繰り返していた。にもかかわらず、自分たちは「絶海の孤島」に取り残されたまま、何もすることができない。
 祖国、故郷が焦土とされていく中、将兵たちの嘆きと苛立ちは深まるばかりだった。
見せしめの処罰
 食糧を巡る混乱は泥沼化する一方だった。食糧を奪ったことが判明した者には、見せしめの処罰が行われることもあった。ヤシの木に後ろ手で縛られ、衰弱し切った兵士は、「殺してくれ」と泣き叫んだという。
 歩兵砲中隊の指揮班長だった田邊正之は、以下のような秘話を打ち明けている。
〈旅団長(引用者注・北村勝三陸軍少将)は、破廉恥行為をなした将校には自決を強要された。若い将校で自ら命を絶った者も数名あった。食い物の恨みは怖いと言うが、食糧に関係した上官殺傷事件もあった。某隊員二名が共謀し、中隊長と小隊長に手榴弾を投げたのだ。幸い軽傷に終わるも、その兵二名は手榴弾で自決した〉(『永遠の四一』)
 平時の正義や礼節、道徳など、とうに吹き飛んでいた。そこにあったのは、人間の剥き出しの本性だった。北村旅団長にとっても、部下に自決を強いることは、島内の規律と秩序を守るためとは言え、苦渋の決断だったろう。北村旅団長は「食糧さえあれば」と涙していたという。写真はイメージ 
島に到着した日本の潜水艦
 二式飛行艇が不時着してから58日目、メレヨン島に一隻の潜水艦が補給のためにたどり着いた。伊号第369潜水艦が危険を排して航海に臨み、寄港に成功したのである。食糧や医薬品を降ろした艦内に、小森宮正悳ら12名の二式飛行艇搭乗員は収容された。
 現在、メレヨン島は「見捨てられた島」などと称される。しかし、この表現自体は必ずしも正確とは言えない。日本軍は潜水艦による補給を複数回にわたって試み、何度か成功している。
 無論、小さな潜水艦では、物資の運搬には限界があった。島が孤立したのは事実である。補給を「無視」したわけではないが、「軽視」していたと言われても仕方がないであろう。
 こうして、小森宮らはメレヨン島から離れることができた。5月24日、伊号第369潜水艦は横須賀港に帰港した。
メレヨン島から生還の叔父は「不思議と蟹だけは食べなかった」
 小森宮の甥にあたる康之さんに話を聞いた。康之さんは今は亡き叔父についてこう振り返る。
「『島では何でも食べた』と話していましたね。それから、これは飢餓生活の影響だと断言できるわけではないのですが、叔父はとにかく『食べること』が大好きで、大変な美食家でした」
 康之さんが続ける。
「ですが、不思議と蟹だけは食べないんですよ。戦争前は食べていたらしいんですがね。『蟹という字を見るだけでも嫌だ』なんて言っていました。こういったところは、島での体験によるのかもしれません」
とある軍医が書き残していた日記
 小森宮らが島を離れた後も、島内の飢餓地獄は続いた。
 島内の患者療養所で軍医を務めていた中野嘉一は、ほぼ毎晩、日記を書いていた。島には電気がなかったため、缶詰ローソクの明かりを頼りに綴ったその日記には、島内の日常が淡々と記されている。(以下、『メレヨン島・ある軍医の日記』より引用。適宜、旧字を新字に改めた)
〈午前七時山田、兼松上等兵死亡。元気体格大なる男なりしに悲しむべし。死ぬ前日迄治療に従事。昨夕は健胃錠処方をかいてくれと頼んだことは彼の最後の言葉だった〉(6月8日)
 患者療養所といっても、椰子の木を使って建てた粗末な丸太小屋である。医薬品の欠乏により、助かるはずの命が多く失われた。写真はイメージ 
 ちなみに中野は慶應義塾大学医学部の出身。戦前は東京武蔵野病院に勤務し、麻薬中毒のために同病院に入院した太宰治の主治医を務めた人物でもある。妻子を日本に残してのメレヨン島での日々であった。
 そんな中野の日記をさらに見ていこう。
〈昨夜死亡した測候所患者の指切(遺骨用)にゆく。〔遺骨用に指を切りとり缶に入れこれを焼却、指骨をとる。このことは他の部隊でも行われた〕〉(7月17日)
日本の敗戦
 8月15日、日本は敗戦。戦争は終結した。中野がその事実を知ったのは、3日後の18日のことであった。
〈隊長急用司令部へ。何かあるらし! 五時隊長帰隊。重大時局発表︎ 遂に日本停戦協定〉(8月18日)
 中野はその翌日の日記にこう綴っている。
〈遂に戦いは終ったのだ。あっけない気もするが生命だけ助かったという、安心の境地に入る〉(8月19日)
>戦わずして玉砕する悲劇
> 結局、メレヨン島に米軍が上陸することは最後までなかった。メレヨン島では白兵戦などの地上戦は起きなかった。
> 島の将兵たちは9月20日、病院船「高砂丸」に収容され、孤島を脱した。中野の日記には、こう記されている。
>〈午前十一時メレヨン礁外を出港。愈々ドラがなり、出港用意が叫ばれた。船は動き出した。メレヨンの英霊にありがたく感謝する。俺らのかえれるのも戦友のおかげだ〉(9月20日)
> 結局、生きて日本に帰ることができたのは、6500人ほどいた将兵のうち、1626人に過ぎなかった。メレヨン島から生還した復員軍人たち(1945年9月26日、大分・別府港) 
> メレヨン島は「戦わずして玉砕した悲劇の島」として歴史に刻まれることになった。将兵たちは敵兵と戦うことすらできず、飢えや病いによって斃れていったのである。
> 以上がメレヨン島における惨劇の実態だが、この歴史的事例から浮かび上がってくるのは、「サイパン島が陥落した場合、メレヨン島はどうするのか」という戦略の欠如である。当時の大本営は「希望的観測」に引きずられ、「失敗した場合」や「最悪の事態」への対策が不十分だった面が否めない。「必勝」を期するあまり、それが叶わなかった時への対応に「隙」が生じたのである。
> さらに、東京では延々と協議が繰り返されるばかりで、具体的な対策の決定が遅々として進まないという側面もあった。
> これは現在の「コロナ対策」や「ワクチン計画」においても、共通する部分があるのではないか。
>終戦後、部下の遺族を訪ね歩いた旅団長
> 軍医の中野嘉一は帰国後、自宅のある愛知県豊橋市に戻ったが、家は空襲で跡形も無くなっていた。妻子は妻の実家のある千葉県に帰ったという話であった。
> 妻の実家で中野を迎えたのは、つらい現実だった。妻は無事だったが、子どもは戦時中に病いによって亡くなっていたことを中野は知った。
> その家には中野の位牌が置かれていた。すでに戦死したと思われていたのである。妻が言った。「身代わりに子どもが死んでくれたんですね」。
> メレヨン島防衛を担っていた独立混成第50旅団長・北村勝三陸軍少将は復員後、部下の遺族のもとを訪ねる旅を続けたが、それを終えた昭和22年8月15日、割腹自決を遂げた。
>(文中敬称略)


孤独死だけではない「男性のおひとり様」問題がますます深刻化するワケ

2021-10-11 13:30:00 | 日記

下記の記事はプレジデントオンラインからの借用(コピー)です。

現在の日本でいちばん多い世帯は、夫婦と子どもからなる家族ではなく、単身で暮らす「おひとり様」。特にここ数年は、65歳以上の単身世帯が増えているのだそう。社会学者の筒井淳也先生が「中でも深刻なのは高齢男性の単身者問題」と語る理由とは──。
生活力がなさすぎる
日本では2010年以降、65歳以上の高齢者の単身世帯が大きく増加しています。内訳を見ると、今のところは高齢女性のおひとり様が多いのですが、10~20年後には男性も増えてくるでしょう。妻に先立たれた人だけでなく、近年増加中の生涯未婚の男性も加わってくるためです。
今、65歳以上で一人暮らしの男性は、妻に先立たれた人がほとんどです。この世代は家事を妻に任せっきりにしてきた人が多く、自分で自分の身の回りのことができないという傾向があります。
日常生活を送る上で自立できていないわけですが、本人たちがそれに気づくのは妻がいなくなった後。多くの男性は、妻のほうが後に亡くなると思い込んでいるので、一人暮らしになった時に備えて家事力をつけておこうとは考えません。
料理も洗濯も掃除もままならない状態で、ある日突然一人暮らしになる。そうなれば、生活に深刻な問題が起きるだろうことは想像に難くありません。高齢者のおひとり様で大切なのは、第一に「自分で自分の身の回りのことができる」ことだと言えるでしょう。
また、身の回りのことができても、孤立した状態では安心して暮らせません。その意味で、第二に大切なのは「周囲との関係を維持できる」ことです。
「自立=稼ぐこと」は勘違い
例えば体調が悪くなったり、孤立感を覚えたりしたらどうするか。助けを求められる相手や、支え合える相手が身近にいればいいのですが、そうでない場合は心身ともに問題が深刻化してしまいます。
しかし、長い間仕事一筋で生きてきた男性は、会社外での人間関係を築くことが苦手な傾向にあります。さらに、他者に助けを求めることにも慣れておらず、生活に問題が起きても家族や友人、行政などに対して「助けて」とは言えない人もいます。
こうした事態を防ぐには、おひとり様になる前から本人が「自立」を心がけておく必要があります。自立とは、働いて稼ぐことだけではありません。ひとりでも身の回りのことができる、周囲との関係を維持できて困った時は助けを求められる、この2点も大事な要素なのです。
「自立=稼ぐこと」と考えている男性には、早いうちに自立のイメージを変えておいてほしいと思います。ただ、長年の思考や行動のクセを変えるのは難しいもの。
お膳立てがないと人間関係を築けない男たち
特に、今の65歳以上の男性の多くは会社人間でもあり、接待文化の中で育っています。人間関係も、そうした役職という肩書やお膳立てがあればつくれるのですが、ゼロの状態からまったく知らないコミュニティーに入るのは苦手な場合が多いでしょう。
男性には、一度気が合わないと感じたら、そのコミュニティに居続けられないという傾向があります。一方、女性には、コミュニティの中でも気の合う少人数だけで集まって、他の人の陰口を言うことで共感を深め合える人が少なくありません。
こうした陰口は、男性からすれば陰険なようにも思えますが、人間関係を維持するためのひとつの手段なのです。男性はそれがうまくできず、気の合わない人がいたらいっそのことそこから抜け出そうとしてしまう。そのために交友関係が狭くなってしまいがちだと私は考えています。まずはこの点を自覚して、地域活動などの機会があったら、まずは気軽に参加してみてほしいと思います。
スポーツクラブなどに入るのもいいでしょう。たとえ互いの私生活にはタッチしない浅い関係でも、他者と会話する場があるだけで孤立感は防げます。ずっと欠席している、連絡が取れないといった場合には、そうした相手が心配して行政につないでくれる可能性もあります。
「家族がいる」が前提のしくみは見直しを
では、こうしたおひとり様への備えは、本人が努力するしかないのでしょうか。私は、周囲や社会にもできることはあると考えています。企業は、退職後の人生に関する研修などを通して、意識の変化を促せるはずです。高齢単身世帯に声かけをする地域ボランティアなども支えになるでしょう。
ボランティアは収入や時間に余裕がないと難しいものですが、幸いなことに最近は在宅ワーカーも増えています。そうした人たちが、余った時間を無償労働に当ててくれるようになったらどれほど心強いか。その可能性を広げるためにも、「会社にいる時間」の削減には引き続き取り組んでいくべきです。
そして、今後はおひとり様男性が増えてくることを考えると、社会のサポート体制も考え直していかなければなりません。前述のように、男性は家族ではない他人に助けを求めるのが不得手なため、家族がいないと孤立してしまいがちです。この場合に起きる問題は孤独死だけではなく、けがや病気で生活を維持できなくなっているのにサポートが得られないという事態もあり得ます。
入院すればケアマネジャーやヘルパーが紹介されることもありますが、どう支えてもらうかを決める場では、家族の同席や承認を求められることもしばしば。現状のケアの仕組みは「家族がいる」ことが前提で、単身者向けにはなっていないのです。
高齢単身者が増えるということは、身近な家族のいない高齢者が増えるということです。日本は、ここをしっかり支える仕組みをつくっていかなければなりません。介護や福祉の制度を実情に合うよう改善すると同時に、病院、施設、自宅、それぞれの場所で暮らす単身高齢者に対して、よりきめ細かな支えやより多くのスタッフを用意していくべきでしょう。
問題が起きても気づかれないまま深刻化する
女性は年齢を重ねても、単身者同士でシェアハウスに住んだり、施設で交流の輪を広げたりと、新たな人間関係をつくるのが得意な人が多いようです。でも、高齢男性のシェアハウスはあまり聞いたことがありませんし、施設でもプライドが邪魔してか、レクリエーションなどで皆の輪に入らない場合が少なくないと聞きます。
男性の高齢単身者の多くは、自分から人に働きかけることが不得手なのです。そのせいで、問題が起きても周囲に気づかれにくく、どんどん深刻化してしまう。
しかし、本人の意識変化を促す仕組みや、自ら助けを求められない人を放置しない社会的仕組みがあれば、孤独死や生活崩壊のような事態は防げるはずです。今後ますます増えていく高齢単身者のために、企業や行政、そして私たち一人ひとりが「何ができるか」を考えていく必要があると思います。

筒井 淳也(つつい・じゅんや)
立命館大学教授
1970年福岡県生まれ。93年一橋大学社会学部卒業、99年同大学大学院社会学研究科博士後期課程満期退学。主な研究分野は家族社会学、ワーク・ライフ・バランス、計量社会学など。


眞子さまの渡米に黄信号も 「PTSD告白」がビザ取得の障壁になる可能性

2021-10-11 11:00:00 | 日記

下記の記事はNEWSポストセブンオンラインからの借用(コピー)です。

国民、宮内庁、そして秋篠宮さま。どのような角度から苦言や批判を浴びようが、否、それらの声が強まれば強まるほどに、ふたりの結びつきはさらに強まっていくのかもしれない。秋篠宮家の長女・眞子さまと小室圭さんの結婚のことだ。
「10月1日の皇嗣職大夫の会見で、眞子さまと小室圭さんが、儀式や披露宴を行わない形で、同月26日に結婚することが発表されました。結婚の前に眞子さまは、天皇皇后両陛下、上皇ご夫妻、宮家にも最後のご挨拶をなさるようです。ただし、小室さんと一緒ではないと聞いています」(宮内庁関係者)
 そうして眞子さまは、皇族が身分を登録する「皇統譜」から抜け、戸籍を手に入れ、“小室眞子”となられる。そこから始まるのは、米ニューヨークでの夢にまで見た新婚生活への準備だ。
「ニューヨークでの新居は、小室さんはまだ決められずにいます。ふたりの将来の決めごとはふたり一緒に、と考えているのかもしれません。まずは眞子さまとの国内の仮住まいを決め、晴れて同居生活をスタートしてから具体的に話を進めることになるでしょう」(皇室ジャーナリスト)
 その話し合いは、心躍るものに違いない。周囲の治安がよく、建物のセキュリティーが万全であることは当然として、ふらりと散歩できるセントラルパークが近くにあった方がいい、日本食も恋しくなるだろうから和食店が近くにあるともっといい──などとお互いの希望を語り合うのだろうか。
 眞子さまは、ニューヨーク生活の“先輩”である小室さんの意見に耳を傾けられながら、自らの心を蝕んだ“国民からの誹謗中傷”の声が届かない新天地での生活を夢見られるのだろう。しかし、である。
「実は、眞子さまのアメリカ行きに黄色信号が灯っているのです」
 とは、さる皇室関係者。
「結婚して戸籍を手に入れられた眞子さまは、出国に向けてパスポートとビザを取得されることになります。パスポートについては何の問題もないのですが、焦点となっているのは、アメリカ行きのビザ取得についてです」(皇室関係者)
 日本国籍を持っていれば、90日以内の観光やビジネス目的での渡米の場合、ビザは不要だ。しかし、3か月以上アメリカで暮らすとなると話は別。事前にビザを申請し、取得していなければならない。小室さんも、2018年8月にフォーダム大学ロースクールへ留学した際に学生ビザを取得。2021年5月下旬に修了し、いまはニューヨークの中心部にある法律事務所で働いている。
「小室さんはF-1ビザという通常の学生ビザを持っているはずです。『OPT』といわれる外国人のための研修制度を使って卒業後1年は滞在延長をしながら働いているのでしょう。12月中旬までに発表される弁護士試験に合格すれば、この法律事務所が主導する形で就労ビザである『H-1Bビザ』を申請し、取得できれば最長で6年間の滞在が可能となります。
 眞子さまはというと、小室さんの『配偶者ビザ』を取得する可能性が濃厚です。ただ、この場合は労働許可証を取れないので、ニューヨークで働くことはできません。就労ビザ取得のハードルはかなり高く、眞子さまが取得できる可能性は限りなく低いと言わざるを得ません」(外務省関係者)
 眞子さまは結婚後、ニューヨークのギャラリーや博物館に勤務するという報道もあるが、許可なく働けば不法就労となってしまう。不法就労が発覚すれば強制送還され、小室さんとのニューヨーク生活は終わりを迎える。
面接の審査官次第
 それよりも心配しなくてはならないことがある。
「そもそも、ふたりでニューヨークに行けるかの方が問題ではないでしょうか」(前出・外務省関係者)
その理由は、ビザの取得条件にあるという。
「どの種類のビザを取得するにも申請書の記入と面接が必要ですが、申請書には『自分自身や周囲の安全や生活に脅威となるような精神的または肉体的な疾患があるか』という質問事項があります。
 眞子さまは、先日の皇嗣職大夫の会見で『複雑性PTSD』の状態がいまに至るまで続いていると伝えられました。眞子さまは中学生の頃から精神的に苦しまれてきたということですが、これをもって他人に攻撃的とはいえません。ただし、自分自身の生活を脅かすレベルの状況か、慎重に見極められることになるでしょう」(前出・外務省関係者)
 アメリカ行きの夢の切符を手に入れる直前での病気の公表。これについては、世間からの逆風を鎮めるためだったとの見方もあるが、それがビザ取得の最大の障壁になってしまっているのだ。
「皇嗣職大夫が、個人や宮内庁だけの判断で病気を公表することはあり得ません。ワクチン接種の有無でさえ、『プライベートなこと』と明かさないくらいなのですからね。わざわざ会見で言及したということは、眞子さまが公表を許可されたか、『公表したい』と望まれたからであることは間違いありません。それが自らの夢の壁となってしまっているのですから、眞子さまは、非常におつらい立場にあると推察されます」(別の宮内庁関係者)
 病状をどこまで厳しく問われるかは、アメリカ大使館で面接を担当する審査官次第。また、単にPTSDの症状があるだけであれば、ビザの申請が却下される可能性は高くなかったという。
「ただ、眞子さまと小室さんの結婚に関するニュースはもはや日本国内だけでなく世界中で報じられています。居住先に選ばれたアメリカでは、大きな関心事。日本のアメリカ大使館で働く審査官が何も知らないということはないでしょう。生活に脅威がある精神疾患の有無について『NO』と答えれば『なぜ中学時代から精神疾患があるのに』と聞かれるでしょうし、『YES』と答えれば、ビザの取得に圧倒的不利となります」(前出・外務省関係者)
 一方、この点について眞子さまと小室さんは「一切、心配してないのでは」という声もある。なぜなら、ビザが下りるかどうかは、“誰が申請したか”が大きくかかわるのが、アメリカという国だからというのだ。
「アメリカの場合、特権階級のビザ申請に対して優遇措置をとることがあります。最近の例でも、トランプ前大統領の妻・メラニア夫人の両親はスロベニア出身なのですが、すんなりと永住権とアメリカ国籍を取得した事実があります。移民にうるさいはずのアメリカが、特権階級には手のひら返しなわけです。
“皇室特権”を使えば、眞子さまはもちろんのこと、ビザ取得の可能性がかなり低い小室さんの母・佳代さんも含め、一家全員でビザか永住権を取得、というのも現実的にありうるのです」(国際部記者)
 小室さんは、留学や就職に際して、「プリンセス・マコのフィアンセ」と、アピールしていたとされる。ふたりの夢の新婚生活のためであれば、この“特権”を生かさない道はないのかもしれない。


物忘れに集中力低下… 加齢で脳が衰えるって本当?

2021-10-11 08:30:00 | 日記

下記は日経グッディオンラインからの借用(コピー)です   記事はテキストに変換していますから画像は出ません

「脳の機能は加齢によって衰えるもの」「脳の老化は止められない」。そう思っている人は多いでしょう。その考えは、ある意味では正しいといえるし、間違っているともいえます。
なぜなら、私たちの脳は一定の発達を遂げたあとは、脳細胞が徐々に減り、萎縮していきます。脳の体積も減っていき、機能も低下していきます。こうした加齢による脳の変化は避けられない事実である一方で、脳の機能はいくつになっても高められることが近年分かってきたからです。
具体的には、(1)脳の一部では年齢を重ねても神経細胞が新たにつくられること、そして(2)脳には外部からの刺激によって変化する力があることが分かってきたと、東北大学加齢医学研究所教授の瀧靖之さんは言います。
脳は10代で最も大きくなり、その後ゆっくりと老化が始まる
脳の構造は「大脳」「小脳」「脳幹」の3つに大別されます。このうち、全体の80%を占めているのが大脳。大脳はさらに、4つの領域に分かれています。ものを見る視覚機能を司る「後頭葉」、音を聞く聴覚に関連する「側頭葉」、触覚や運動機能を司る「頭頂葉」、そして、思考や判断、感情や理性、コミュニケーションといった高度な働き(高次認知機能)を担う「前頭葉」です。
大脳の発達には、個人差があるものの、成長する順序や時期にはおおよその流れがあり、瀧さんはその様子を、「後ろから発達して、前から壊れる」と表現します。
大脳は後ろから順に発達して、前から壊れ始める。原画=(C)Peter Lamb-123RF、(C)aalbedouin-123RF
生後からすぐに発達するのが、脳の後方に位置する後頭葉と側頭葉。3歳になる頃には、見る・聞くことは、大人と同じレベルまでできるようになります。また、言葉の理解も生後6カ月頃から進んでいきます。3~5歳頃には、脳の中央部の発達に入り、頭頂葉にある感覚野や運動野の成長スピードが加速します。
最後に発達するのが、脳の前方に位置する前頭葉。前頭葉の発達は12歳前後の思春期がピークで、人によっては20歳頃まで成長。この前頭葉が完成すると脳の体積は最も大きくなり、子どもの脳から大人の脳になります。
そして、大人の脳が完成した直後から、脳の老化がゆっくり始まるのです。それも、「最後に発達を終えた前頭葉から、すぐさま萎縮し始めます」(瀧さん)。
脳にはいくつになっても「変化する力」がある
もっとも、20歳代で脳の加齢がゆっくり始まるといっても、そのスピードは緩やかで、直ちに脳機能に影響が及ぶわけではありません。ただ、脳の神経細胞の数はどんどん減っていき、ごく一部を除いては、その後に増えることはありません。その代わり、神経細胞同士の結合、すなわち「神経細胞間のネットワーク」を増やすことはできます。そして、健康な脳を維持するために大切なのは、実は神経細胞の数よりも、このネットワークのほうです。
「脳の発達」とは、神経細胞同士が結びついていき、それにより脳の体積が大きくなることを意味します。この脳の発達には、先述したようにそれぞれのピークがあります。そして発達のピークの時期を過ぎると、脳の回路を増やすことは難しいとかつては考えられていました。ところが、ピーク期より時間はかかるものの、脳に刺激を与え続けることで、いくつになっても既存のネットワークを強化したり、新たなネットワークを広げたりすることができることが分かってきました。
「脳はいったん完成すると、その後は形態が変わることはなく、加齢や病気による萎縮が起これば変化すると考えられてきました。しかし、2004年に科学雑誌『ネイチャー』に掲載されたドイツの大学の研究チームが行った実験報告をはじめとする様々な研究から、成人してからも神経細胞同士をつなぐ情報伝達回路を変化させ、それによって脳の体積を増やすこともできることが明らかになっています。こうした脳の変化する力は『可塑(かそ)性』と呼ばれています」(瀧さん)
いくつになっても、少なくとも「海馬」は神経細胞が新生する
「可塑性」のほかにも、近年の研究で明らかになったことがあります。先ほど「脳の神経細胞の数はどんどん減っていき、ごく一部を除いては、増えることはない」と述べましたが、このごく一部の例外では、いくつになっても神経細胞が新たにつくられていることが、1998年、米国のソーク研究所のチームによる研究で判明したのです。
その例外が起こっているのが、「海馬」と呼ばれる領域です。
脳の細胞は脳が完成した後に新しく生まれることはないと考えられてきたが、少なくとも記憶を司る「海馬」は、何歳になっても神経細胞が新生していることが近年分かった。画像=(C)decade3d-123RF
海馬は記憶のコントロールという重要な役割を担っています。「アルツハイマー型の認知症は、この海馬の萎縮から始まり、高次認知機能を司る前頭葉の萎縮へとつながっていきます。その結果、思考力や判断力といった認知機能の低下が起こり、最終的には歩く、食べるといった生きるために必要な運動領域のコントロールも失っていくのです」(瀧さん)
つまり、認知症の予防をはじめ脳の健康を保つには、海馬と前頭葉の体積を維持することが重要だと考えられるわけです。「いくつになっても海馬で新たな神経細胞がつくられることに加えて、外部の刺激によって変化する『可塑性』によっても、海馬をはじめとする脳の体積を増やせることが分かっています。このことは、脳は何歳からでも変えていくことができるという大きな希望といえます」(瀧さん)
大人の脳には刺激を与え続けることが重要
大人の脳を成長させたり、健康な状態を維持したりするためには、脳に「刺激」を与え続けることが重要です。神経細胞をつなぐ情報伝達回路のネットワークは、使えば使うほど太く、丈夫になっていきます。
それには、主に3つの刺激を与えることが重要だと、瀧さんは指摘します。その3つの刺激とは「好奇心」「有酸素運動」「コミュニケーション」です。また逆に、脳の老化、萎縮につながる要因も、大きく3つあるといいます。それは「喫煙・飲酒」「肥満」「ストレス」です。