下記の記事は婦人公論.jpからの借用(コピー)です。
胃潰瘍だと思って病院を受診したら
あれは35歳のある日のこと。みぞおちに差し込むような痛みを感じました。でもそのときは「胃潰瘍かな」くらいにしか思っていなくて。市販の薬より効果的な薬をもらいたいと考えて、かかりつけの内科へ行ったんです。
すんなり処方してもらえると思っていたのに、なぜか医師は、診察するなり「ちゃんと調べたほうがいい」と、大学病院への紹介状を書き始めた。咄嗟に「ありがとうございます」と言ったものの、心のなかでは「面倒だな、どうせたいしたことないのに」と思っていました。
ところが大学病院で検査を受けた結果、担当医から「膵臓にウズラの卵くらいの大きさの腫瘍がある」と告げられてしまったのです。「なんで私がこんな目にあわなきゃいけないのよ」と、行き場のない怒りがこみ上げてきたのを覚えています。
なにしろ当時私は離婚してシングルマザーになっていたので、まだ5歳の息子と二人暮らし。どうしろっていうのよ、と。しかも医学書には、膵臓がんは早期発見が難しいとか、進行が速くて生存率が低いとか書いてあるし……。詳しい検査結果が出るまでの間が、とにかく苦しかった。
幸いにして、腫瘍は良性でした。でも医師から、悪性に変化する可能性が高く、痛みの症状も出ているから手術したほうがいいと勧められて。結局、膵臓の3分の2と脾臓の摘出手術を受けることになりました。
2週間の入院と聞いて気になったのは、仕事のこと。息子は母に預かってもらうとしても、そのころ原稿の締め切りを月に60本ほど抱えていたんです。多くの人に迷惑をかけてしまうこと、仕事を逃してしまうかもしれない不安など、いろいろなことが頭をよぎりましたね。でも命には代えられないと腹を括り、いっそこれまで忙しくてできずにいたことをしようと、心を切り替えたんです。たとえば、いつか読もうと思っていた本を読むとか、DVDを見るとか。
ちなみに、どんよりした気分を一掃しようとネイルサロンへ行ってから入院したんですけど、あれは失敗。主治医から、爪は手術中や術後の健康状態を確認するための重要なバロメーターなのにって叱られてしまいました(笑)。今思えば動揺していたのだと思います。8時間に及ぶ大手術だと聞かされていたから。
手術は成功したものの、腹部を縦に20センチくらい切ったので、麻酔から覚めたあとが痛くて痛くて。それなのに私は、翌日にはカラダを「く」の字に曲げながら点滴台を杖にして廊下を歩いていました。どうしてもタバコが吸いたくて、喫煙所まで行かねばならぬ、と命がけで。
医師からは咎められたけど、「イライラするときに吸わなくて、いつ吸うんですか!」と逆切れ(笑)。でも、無理して歩いたのが術後のリハビリとして効果的だったらしく、予定より早く退院できたんです。
食べても太らないことを指摘されて
膵臓の手術を受ける前、医師からは「術後、確実に糖尿病になります」と宣告されていました。膵臓は、血糖値をコントロールしているインスリンを分泌する臓器。それをほとんど摘出するのだから、と。とはいえ、半年もすると手術の傷跡も目立たなくなってくる。いつのまにか糖尿病のことなどすっかり忘れ、手術前と変わらない日常を過ごしていました。
ところが手術から3年ほど経ったころ、友達に「なんでこんなに大食漢なのに太らないの?」と言われて。確かに、フルコースを平らげて、ハシゴ酒をして、帰りに〆でラーメンを食べる……みたいなことをしても太らない。そればかりか痩せていく一方でした。
そういえばここのところ寝起きに激しい立ちくらみがするな、と思って、糖尿病の知り合いに「どう思う?」と尋ねてみたら、「朝のめまいは糖尿病の特徴的な症状だ」と。そこで慌てて病院へ行き、血糖値の検査を受けたら、やはり発症していました。
最初は薬で様子を見ていましたが、血糖値が十分に下がらず、インスリン注射を自分で打つことに。「そこまでやらなきゃいけないの?」と疑問を抱きましたが、そういう人は私だけじゃないんでしょうね。病院では、まず糖尿病を放っておくとどうなるかの説明を受けるんです。神経障害で足を切断した人とか、網膜症で目が見えなくなった人の症例写真を見て、事の重大さに気づきました。
8年経った今では、すっかり習慣です。毎朝、指先に針を刺して採取した血で血糖値を測り、その数値に合わせた量のインスリンを腹部に注射しています。
血糖値を測るようになってわかったのですが、人間のカラダって精密機械みたいによくできてるんですよ。前日に何を食べたか、お酒をどれくらい飲んだかが面白いくらいはっきりと血糖値に反映される。
空腹時の血糖値の基準値は年齢によって違うけど、40代の女性だと大体100mg/dL。それが前日に炭水化物をしっかり食べると130に、深夜にラーメンを食べた翌朝は160まで数値がはね上がります。
逆に何も食べずに過ごすと、60くらいに下がって低血糖になるんです。目がかすんで、このまま見えなくなってしまうのではないかと不安におののいたこともあって、健康に生きるための要は食生活なのだと思い知りました。
とはいえ、私は乱れた食生活から糖尿病になったわけではないので、高血糖の対策は炭水化物を控えめにすることくらいしか意識していません。低血糖に関してはお腹が張るのがサインだとわかってきたので、気づいたら甘いものを口に入れるようにしています。
人って、禁じられると余計にやりたくなるじゃないですか。そのせいか、やたらと甘いものを欲するようになっちゃって。でも主治医は「上質なものを少量にしておきましょうか」と寄り添ってくれる。
「何を考えているんですか!」などと怒られていたら、私はこの医師とは相性が合わないと感じて、病院ごと変えていたでしょう。それも患者の権利ですから。そういう性格なので、友達などの近しい人から病院や医師を紹介してもらうのはやめたほうがいいと学びました。(笑)
室井さんが持ち歩いている「糖尿病患者用IDカード」。低血糖や交通事故などの緊急時、周囲の人や医療関係者に糖尿病であると知らせることができる
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ちなみに糖尿病患者が恐れるのは、地震や台風などの災害。私自身、避難生活を余儀なくされた場合、インスリンが切れたらどうなるのかと不安でした。でも日本糖尿病協会が発行している「糖尿病患者用IDカード」の存在を知ってから、常に持ち歩くようにしています。表には「わたしは糖尿病です」という文字と、緊急時の対処法が。裏には氏名、家族の連絡先、かかりつけの病院名と主治医の名前が書いてあるので安心です。
いずれにしても糖尿病とは一生向き合っていかなければなりません。これからも体調の変化に気をつけながら、といってもあまり深刻にならず、うまくつきあっていく覚悟です。
「後悔しても知らない」友達の言葉で病院へ
もう病気はたくさんだと思っていたのに、昨年の夏、初期の乳がんと診断されました。さすがに「嘘でしょ!」って叫びましたね。でも、考えてみれば糖尿病はがんのリスクを20パーセント高めるといわれているし、私が膵臓とともに摘出した脾臓はがんの抗体をつくる働きがあるといわれているし。
つまり私はがんを発症しやすい体質になっていたわけで、自分はどれだけ呑気だったのかと反省しきり。ただ私は悪運が強いのか(笑)、不思議な流れで早期発見することができたのです。
2019年6月、ツイッターで5年ぶりに漫画家の友達とつながり、食事をしました。そのとき、彼女のアシスタントの女性が乳がんで亡くなったことを知ってショックを受け、帰宅後も頭から離れなかったんです。とりあえずお風呂に入ろうと浴室へ行くと、操作ミスで浴槽にお湯が溜まっていなくて。
しかし、すでに真っ裸の私。お湯張りが完了するまで手持ち無沙汰になり、ふとおっぱいをモミモミして乳がんのチェックをしてみたんです。すると、あれ? 梅干しの種みたいなしこりがあるけどまさかね、と思いました。
深夜に起きていそうな友人に電話をして事情を説明したら、普段は穏やかな彼女が「絶対に病院へ行って! 後悔することになっても知らないからね」と語気を強めて言うのです。あのとき友人が強固に背中を押してくれなかったら、気のせいだと流していたかもしれません。
翌日の午前中に、糖尿病の治療をしている病院へ行きました。予約なしでは無理だと言われたのに、大雨でキャンセルが出たからと運よく乳がんの名医に診てもらうことができました。細胞検査を受けるよう促され、X線やエコー検査などを受けた結果は「ステージI」の乳がん。幸いリンパ節への転移はなく、ごく初期のものということでした。
手術で腫瘍を取り除いてから放射線治療に移ると説明を受けましたが、先々まで病室に空きが出ないらしい。ところがまたもや奇跡的に、お盆で多くの入院患者が一時帰宅する時期なら、と言われ、8月9日に手術することに。とんとん拍子で治療が進み、自分でもビックリでした。
ただし私の場合、手術前に先生から「なんでこんな余計なことをしたんだ!」と責められたことがあって……。それは若いころにした豊胸手術のこと。乳がん手術をする際、癒着した筋肉をはがして食塩水パックを取り出すのが大変だと聞かされました。パックが潰れる危険性があることからマンモグラフィー検査を受けることができず、発見が遅れてしまうというリスクもあるのだとか。
おっぱいを大きくして男にモテたというなら、「豊胸した価値があった」と開き直ることもできます。でも実際には肩こりが激しくなるばかりで、男運の悪さは変わらず。本当に愚かでした。
手術直後はおっぱいの皮がペローンと垂れてしまいさすがにショックでしたが、3ヵ月ほどで見事元の位置におさまり一安心。お茶碗のように丸かったおっぱいが小皿みたいになっちゃいましたけどね。(笑)
放射線治療も、せっせと病院に通って無事終了。おっぱい全体が赤紫色になったり、肌がざらざらになったり、歯ぐきが下がって差し歯が抜けたり、だるかったりと多少の副作用はありましたが、半年経過した今はすこぶる元気です。セーフだったと喜んでる場合じゃない
膵臓に腫瘍ができたころまで遡って思うのは、ホームドクターの大切さです。風邪でも何でも、まず訪れて気軽に相談できる医師がいなければ、病院へ行くことすら億劫で取り返しのつかないことになっていたかもしれません。
それから、乳がんかもしれないと思ったとき、糖尿病でお世話になっていた病院を選んだ自分は冴えていたなと思います。持病を抱えている場合には、専門医同士で情報を共有してもらうのがベスト。たとえば私は現在乳がんのホルモン治療を続けていますが、ならばインスリンの量を少し増やしましょうと微調整することで、2つの病気の治療におけるゴールデンバランスを保つことができているのです。
私は怖がりなので、少しでも体調が悪いと友達に相談したり、医師に訴えたり。病気に限らず、何かあると大騒ぎしてしまうのは自分の悪い癖だと思っていましたが、今は自分のカラダや体調に関しては心配性なくらいでちょうどいいと考えています。
病気はつらいけど悪いことばかりではありません。息子に「私、乳がんだって」と知らせても心配するそぶりを見せませんでしたが、私の友達の家を一人訪ねて、「あのひと、死ぬの?」と訊いていたそうです。すごく嬉しかったし、「私はまだ死ねない」と心の強さを備えることもできました。
実は乳がんで入院したのを機に、タバコをやめたんです。セーフだったと喜んでる場合じゃないと気づいて。病は人生を好転させるチャンスだったとポジティブに捉えています。
室井佑月
作家・タレント
1970年青森県生まれ。ミス栃木、モデル、女優、レースクイーン、銀座のクラブホステスなどを経て97年に『小説新潮』の「読者による『性の小説』」に入選、文筆活動に入る。テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍中。
下記は文春オンラインからの借用(コピー)です
実家に母と同居しながら、気ままな独身生活がこの先も続くと信じていた科学ジャーナリストの松浦晋也氏。しかし、母親が認知症を患ったことで、それまでの生活は一変する。自身を認知症だと認められない母、進行する症状、崩壊する介護態勢……。感情よりも理屈で考えたくなる性格だと自認する松浦氏は、こうした事態をどのように乗り越えたのだろう。
ここでは同氏の著書『母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記』(日経BP社)の一部を抜粋。「敗退、戦線再構築、また敗退の連続だった」と振り返る奮闘の日々を紹介する。
◆◆◆
「自分の母を介護します」と、Kさんが退職
ショックな出来事が起きた。ここまで1年以上にわたってヘルパーを務めてくれたKさんが、2016年7月末でヘルパーを退職することになったのだ。Kさんのお母さんの認知症が進行してきたので、実家に戻って本格的に介護するとのこと。「これまで、仕事としてずいぶんとお年寄りの介護をしてきましたが、今度は自分の母親を介護する番なんですよ」と言う。
Kさんは、主力となってくれた3人のヘルパーさんの中では、一番の話し好きだった。よく母に話しかけ、母もKさんとの会話を楽しんでいた。明るく屈託のない人で、Kさんが来てくれたおかげで、私はずいぶんと助けられた。
Kさんは、若い時に、テレビアニメーション制作の現場で働いていた。その頃の思い出話も面白かった。テレビアニメ史上に残る傑作「アルプスの少女ハイジ」(1974年)では、作品制作の指揮を執る高畑勲氏を間近で見ていたという。「太陽の王子ホルスの大冒険」(1968年)、「火垂るの墓」(1988年)、「かぐや姫の物語」(2013年)などの、あの高畑勲監督である。
「何が恐ろしいって、ハイジを作っていた頃一番怖かったのは、高畑さんがぼそっと言う『これ、全部作り直そう』というリテイクの一言でした。もうスタッフ全員が戦々恐々としていましたよ。“高畑さんっ、やめてっ。その一言だけは言わないで!”って」
最後のヘルパー勤務の日、Kさんには花束を贈呈して労をねぎらった。
連絡先を交換しておいたところ、数カ月後にメールが届いた。
「自分の母の介護は今までと勝手が違って苦労しています」ということだった。
Kさんほどの経験豊富なベテランのヘルパーであっても、肉親の介護となると苦労するのだ。家族が主体となって老人の介護を行うことの難しさを、私は改めて実感した。
トラブル続出、全面崩壊へ
Kさんがいなくなった穴は、なかなか埋まらなかった。何人かのヘルパーさんが交代で入ってくれるようになったが、いきなり知らない人が何人も家に入ることに、まず、母は拒否反応を示した。「あなた誰。どうしてここにいるの」から始まって、「あなたの作る御飯はまずい。こんなもの食べられない」まで─ヘルパーさんに怒りを向け、まるで3月にメマリー(編集部注:アルツハイマー型認知症の症状進行を抑制する薬)を服用し始める前に戻ったかのようだった。
その時点でできる限りの態勢を組み、「これで大丈夫」と思っても、認知症と老化の両方が進行していくので、いずれは破綻する。また次を組まなくてはいけない。母の場合、2015年の春に組んだ要介護1の介護態勢は2015年秋頃からほころびはじめた。それに対応すべく要介護3の認定を得て2016年3月に組んだ態勢は、同年8月頃から行き詰まり始めた。8月、9月と、母の状態は悪くなっていったのである。アルツハイマー病もさることながら、老化に伴う身体機能の低下が顕著だった。
8月の初め、朝起きると母は左腕に大きな擦り傷を作っていた。もちろん何が起きたか、母は覚えていない。応接間の土壁を見ると、丁度母の肩の高さから弧状のこすり跡がついている。それで夜中にトイレに起きた時に転倒したと理解した。右脇腹が痛いといい、痛みはなかなか取れなかった。整形外科に連れて行こうとしても、「医者は嫌。絶対嫌」と突っぱねる。
それでも痛みが続くので、引っ立てるようにして連れて行くと、今度は肋骨を1本、骨折していた。肋骨の骨折は痛みをこらえて、骨がくっつくのを待つしかない。整形外科では、母のアルツハイマー病の進行を実感することになった。1年前に肩脱臼で受診した時と比べると、明らかに医師との会話がちぐはぐになっていた。
衰えを感じたことを挙げていけばきりがない。
足が弱り、歩くのが遅くなった。
一度座り込むと、なかなか立ち上がろうとしない。
夏は暑いので、老犬を連れての散歩は、早朝、または夕方にしていたが、かつてはさっさと歩いていた道を、時々立ち止まっては壁に寄りかかり息を整えないと歩き通せなくなってきた。危険なので、それまで母が持っていた犬の引き綱を、私が持つようになった。毎週1回、金曜日のリハビリのデイサービスには相変わらず通っていたが、半日のトレーニングでは母の体力低下を押しとどめることはできないようだった。
洗濯機にリハビリパンツを入れ大惨事に
失禁の量が増えて、朝起きると介護ベッドのシーツを汚していることが増えた。吸水量300ccのリハビリパンツを使っていたのだが、それでは足りなくなり、寝る前には600ccのリハビリパンツをはかせることにした。例によって「こんなにもこもこで感触の悪いもの、はきたくない」と主張する。ヘルパーさんたちと協力して、はいてもらうように持って行くのに大変苦労した。
失禁は家にいるときだけではなく、デイサービスに行っている最中にも起きるようになった。リハビリパンツの吸水量を超えて尿が漏れてしまうのだ。このため、デイサービスに行く時に替えのズボンを持たせることになった。汚したズボンはビニール袋に入って戻ってくる。母が帰ってくると、まず汚れたズボンを洗濯するのが日課となった。
8月の半ば、デイサービスからの帰宅後、母の荷物に入っていた失禁で汚れたズボンを洗おうとしてトラブルが発生した。ズボンの中に、使用済みのリハビリパンツが入ったままになっているのに気がつかず、そのまま洗濯機に放り込んで洗ってしまったのだ。リハビリパンツの尿を吸った吸水ポリマーが洗濯槽の中に飛び散り、ズボン、そして一緒に洗った洗濯物に付着し、大変なことになった。一度全部洗濯物を出して、洗濯槽を可能な限り掃除する。床一面に新聞紙を敷き詰めたのち、洗濯物を空中で叩いて吸水ポリマーの粒を落とす。
ズボンの中にリハビリパンツが残っていたのは、明らかにデイサービス側のミスだ。だが、これは責められないぞ、と思った。玄関に求人ポスターが貼ったままの小規模多機能型居宅介護施設、なかなかKさんの代わりの人が定着しないヘルパーさん、そしてこのデイサービス側のミス─おそらくだが、全部人手不足が原因だ。
現行の公的介護保険のサービスは、人手不足で維持できるかどうか難しくなっているらしい。が、たとえそうであったとしても、私は抜本的な制度改革を行う立場にはないし、その知恵もない。自分にできること、やらねばならないことは、母の介護だ。状況がどうであろうと、母を介護し、母の人生をサポートし、きれいに全うさせねばならない。人生が映像作品なら、納期が許す限りにおいてリテイクできる。が、現実は待ったなし。今、この瞬間にうまくできるか失敗するかだけなのだ。
「死ねばいいのに」が止まらない
介護に割けるリソースは無限ではない。母の失禁の始末と汚れた衣類の洗濯、歩くのを嫌がる母をせっついての散歩、各種の通院の付き添い─やらねばならないことは増えていき、私にかかるストレスは、再度深刻になっていった。
それに輪を掛けたのが、収入の減少だった。
今、自分の預金口座の残高の推移を振り返ると、2016年後半から急速に残高が減っている。母にかかる手間が増えたことで、精神的にも時間的にも仕事ができなくなってきたのだ。
通帳の額が減っていく恐怖は、体験者でないと理解できないだろう。減り方の曲線を未来に延長していけば、そこには確実な自分の破滅が見える。破滅から脱出したければ仕事をすればいいのだが、介護の重圧の前にそれもままならない。
幻覚が出た2015年春とは、少々違う形ではあるが、再度、私は精神のバランスを失いつつあった。この頃から、何かと「死ねばいいのに」という独り言が出るようになった。一度は、雑踏の中を歩いている時に、なんの脈絡もなしにこのフレーズがポロッと口から出て来たりもした。前を歩いていた若い女性、あれは女子高生だったか─が、ビクッと体を震わせて、私を避けていったのが印象的だった。
主語はない。
が、明らかだ。
「母が死ねばいいのに」だ。母が死ねばこの重圧から自分は解放される。が、それを口に出すのはためらわれるので、主語なしの「死ねばいいのに」なのだ。これだけ自分で自分を分析できるのに、それでも口を突いて出る「死ねばいいのに」を止めることができなかった。
「なんで。痛い、このっ」介護ストレスで実母に手を上げた私が暴力を止めることができた“決定的な理由”とは
65歳以上の人口の割合が全人口の21%以上を占める「超高齢社会」に突入した日本。当然のことながら、介護を必要とする「要介護高齢者」の数も増加し、誰もが「介護」と無縁でいられない時代になったといっても過言ではない。
そんな介護の厳しい現実について、赤裸々かつ哀愁を交えて描かれた一冊が科学ジャーナリストの松浦晋也氏による『母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記』(日経BP社)だ。論理的な世界で働き続けてきた筆者は、親の介護にどのように向き合ったのだろうか。同書の一部を抜粋し、紹介する。
◆◆◆
果てなき介護に疲れ、ついに母に手を上げた日
衰える足腰、量が増える失禁、度重なるトイレでの排便の失敗─老衰とアルツハイマー病の両方の進行により、2016年の秋の母は弱り、ますます介護に手間がかかるようになっていった。10月に入ると、これらに加えて過食も再発した。
いつも午後6時頃に夕食を出すようにしていたのだが、少しでも遅れると台所をあさり、買い置きの冷凍食品を散らかすのだ。「お腹が空いてお腹が空いて、いてもたってもいられない。御飯を作ってくれないあんたが悪い」─食欲は原始的かつ根源的な欲求ということなのだろう。何度言っても、懇願しても怒っても止まらなかった。
自分が壊れる時は、必ず前兆がある。
今回の場合、前兆は、「目の前であれこれやらかす母を殴ることができれば、さぞかし爽快な気分になるだろう」という想念となって現れた。理性では絶対にやってはならないことだと分かっている。背中も曲がり、脚もおぼつかず、転んだだけで骨折や脱臼する母を私が本気で殴ろうものなら、普通の怪我では済まない。殴ったことで母が死んでしまえば、それは殺人であり、即自分の破滅でもある。が、理性とは別のところで、脳内の空想は広がっていく。
簡単だ。
拳を握り、腕を振り上げ、振り下ろすだけだ。
それだけでお前は、爽快な気分になることができる。
なぜためらう。ここまでさんざんな目に遭わせてくれた生き物に、制裁の鉄槌を落とすだけではないか。握る、振りかざす、振りまわす─それだけで、お前は今感じている重苦しい重圧を振り払い、笑うことができるのだぞ。
悪魔のささやきという言葉があるが、このような精神状態の場合、間違いなく悪魔とは自分だ。そのささやきは、ストレスで精神がきしむ音なのだ。
とうとう手が出てしまった
10月23日土曜日、私は少し台所に立つのが遅れた。すると母は冷凍食品を台所一杯に散らかし、私の顔を見て「お腹が減って、お腹が減って」と訴えた。明日の日曜日も自分が夕食を作らねばならない。「明日は遅れないようにしよう」と思う私の脳裏で、別の声がはっきりと響いていた。「殴れ、明日もやらかしたら殴れ」。
翌24日の夕刻、いつもの日課の買い物に出た私は、少し予定が遅れた。大急ぎで戻って来たのは午後6時過ぎ。5分と過ぎていなかったと記憶している。
間に合ったかと思った私を迎えたのは、またも台所に散らかった冷凍食品と、母の「お腹が減って、お腹が減って」という訴えだった。
気がつくと私は、母の頬を平手打ちしていた。
「なんで、なんで。痛い、このっ」
母はひるまなかった。
「お母さんを殴るなんて、あんたなんてことするの」と両手の拳を握り、打ちかかってきた。弱った母の拳など痛くもなんともない。が、一度吹き出した暴力への衝動を、私は止めることはできなかった。拳をかいくぐり、また母の頬を打つ。「なんで、なんで。痛い、このっ」と叫ぶ母の拳を受け、また平手で頬を打つ。
平手だったのは、「拳だともう引き返せなくなる」という無意識の自制が働いたからだろう。その時の自分の気持ちを思い出すと、「止めねば」という理性と「やったぜ」という開放感が拮抗して、奇妙に無感動な状態だった。現実感もなく、まるで夢の中の出来事のように、私と母はもみ合い、お互いを叩き合った。いや、叩き合うという形容は、母にとって不公正だろう。私は痛くないのに、母は痛かったのだから。自分を止めるに止められず、私は母の頬を打ち続けた。
我に返ったのは、血が滴ったからだ。母が口の中を切ったのである。
暴力がやむと母は座り込んでしまった。頬を押さえて「お母さんを叩くなんて、お母さんを叩くなんて」とつぶやき続ける。私は引き裂かれるような無感動のまま、どうすることもできずに母を見つめるしかなかった。
そのうちに、母のぶつぶつの内容が変化した。
「あれ、なんで私、口の中切っているの。どうしたのかしら」─記憶できないということは、こういうことなのか! この瞬間、私の中に感情が戻って来て、背筋を戦慄が走り抜けた。洗面所に向かった母を置いて、私は自室に籠もった。なにを考える気力も湧かないまま、携帯電話を見ると、ドイツにいる妹からのLINEの連絡が入っている。
「今日コネクトした方が良ければ連絡ちょうだい。
来週は秋休みになるので自宅にいません。再来週の11/6はいます」
妹とは、毎日曜日の午後6時か7時頃に、スカイプをつないで、母に孫たちの顔を見せるという習慣をずっと続けていた。都合がつかない時は、柔軟に中止したり延期したりしているので、その連絡だ。
今日が日曜日で助かった─。すぐに私は返事した。
「今、少し話をしたい。スカイプスタンバイします」
妹に話すことで危機を脱する
スカイプを通じて妹に、私が何をしてしまったかを話した。誰かに話さなくては自分が狂ってしまいそうでたまらないということもあったし、話すことで再発を防がねばならないという意志もあった。何をしても母の記憶には残らない。この状態で暴力が常習化し、エスカレートすることを私は恐れた。妹は事情をすぐに理解したようで「分かった。私からケアマネのTさんに連絡を入れる。もう限界だということだと思うから、ちゃんと対策しよう」と言ってくれた。
翌日、すぐにTさんは連絡してきた。
「妹さんからメールが届いて、事情は理解しました。まずは松浦さん自身が少しお休みをとる必要があると思います。とりあえずお母様にはショートステイに2週間行ってもらいましょう。休養して時間を稼いで、その上でこれからのことを考えるといいと思います。必要なことは全部私のほうで手配しますから」
そして付け加えた。「正直、私から見ても、ここしばらくの松浦さんは、もう限界だなと思っていました。よくここまでがんばられたと思います」
よくがんばった─おそらくは暴力を振るってしまった家族に対して、どのような対応をすればいいかが、マニュアル化され、確立しているのだろう、と私は思った。が、たとえそうであっても、この言葉は心に沁みた。
こうして急に、母をショートステイに送り出すことになったが、その前にいくつかやらねばならないことがあった。歯医者の定期検診に連れて行き、歯の掃除をしてもらった。妹に頼んで冬用下着を通販で送って貰い、試着させてサイズが合うかどうかを確認した。
ショートステイに行く前日、内科医院に連れて行ってインフルエンザの予防接種をした。抗体が定着するまで数週間かかるから、冬の本格的流行に先立って、早めにやっておかねばならない。予防接種の同意書には、本人のサインが必要だった。「ここに自分の名前を書くんだよ」と言うと、母は「自分の名前が書けない」と当惑したような顔で言った。「ひらがなでもいいんだよ」というと、しばらく考えてから、やっと漢字で自分の名前を書いた。かつてのはつらつとした筆跡からは想像もつかない、弱々しいサインだった。
母がショートステイに出ると、家にいるのは老犬と私だけとなった。2週間の空白─実に2年4カ月振りに私が得た休息だった。
自宅での介護は限界、介護施設に母を託す選択
ショートステイなどの施設を使って、家族と本人を引き離すというのは家庭内暴力が発生した際の基本的な対応なのだろう。11月、12月と、ケアマネTさんは、11日間のショートステイの後3日間の帰宅、また11日間のショートステイと3日間の帰宅というローテーションを組んだ。公的介護保険の補助が出るとはいえ、ショートステイには1日5000円程度の出費が伴う。収入が激減している私にはかなりきつい状況だ。ありがたいことに、共働きをしている妹が、緊急に送金してくれたので、収入的危機は回避できる見通しがついた。
ケアマネTさんと話し合い、自宅で私が中心になって母を介護するのはもう限界であって、ここから先は施設のプロに母を託するべきであるということになった。
私の気持ちはといえば、悔悟と安堵がぐるぐるに混ざったものだった。
「ここまでか、ここまでしかできなかったか、もう少しなんとかならなかったか」と、「これでやっと終わる」が入り交じってぐるぐると身の内を走り回り、母がショートステイに行っていても、あまり休息できたという実感はなかった。
事実、まだ安堵できる状況ではなかった。老人介護施設には定員があり、昨今の老齢人口の増加によってどこも混雑していた。望んだからすぐに入居できるというものではないのだ。一言で老人介護施設といっても、その種類は非常に多い。大きくは、健常な老人の入居する施設と、認知症などで介護を必要とする老人向けの施設とに二分され、さらに公的施設と民間施設とに分かれる。これだけで区分が4つあることになるが、それぞれ規模や目的によってさらに細かい種類が存在する。大人数の施設、少人数の施設、生活していくことが目的の施設に、医学的な治療やリハビリテーションを目的とした施設などなど。
母のように取りあえず目立った疾患はなく、老衰とアルツハイマー病により要介護3の認定を取得している場合には、「介護が必要な老人が、生活を営んでいくための施設」が、入居の対象ということになる。
入居先探しは長期戦を覚悟
我々兄弟は、Tさんのすすめで、母を預ける先として、特別養護老人ホーム、グループホーム、民間の老人ホームを検討することにした。
特別養護老人ホームというのは、要介護3以上の認定を受けた老人が入居できる公的な介護施設だ。生活の場としての施設なので、継続的医療行為が必要な場合は対象外となる。広域型と地域密着型とがあり、広域型はどこに住民票があっても入居可能。地域密着型は定員29名以下と小規模で、その地域の老人のみを受け入れる。公的施設だけあって、入居費用が比較的安価だ。施設の建設年次によって、設備の充実度合にかなりの差があり、ひとり一部屋の個室のところもあれば、病院の大部屋のようなところもある。やはり、安さは魅力で希望者が多く、入居まで1年以上自宅待機というケースもあるという。
それに対してグループホームは、主に社会福祉法人やNPOなどの民間が主体となって運営する、地域密着型の介護施設だ。その地域に住む老人を受け入れ対象としている。規模は10名から20名程度で、少人数で家族的介護を行うことを特徴としている。施設は基本個室。こちらも公的な補助が入っており、入居費用が極端に高いということもない。ただし、こちらも人気は高く、入居前の待機が長くなる傾向がある。
民間の老人ホームは言うまでもないだろう。全般に入居費用は高い。上を見れば切りがない世界だ。が、逆に言えば金次第でどんなサービスでも選択することができる。やはり高いということがネックになるのか、入居はさほど難しくはない。ここでも「地獄の沙汰も金次第」なのである。
実際問題、民間の老人ホームは、我々兄弟の収入に比して入居費用が高過ぎ、とてもではないが利用はできなさそうだった。となると特別養護老人ホームか、グループホームだが、どちらもそう簡単に入居できそうな雰囲気ではなく、「これは長期戦となる」というのが、2016年の末の段階での見通しであった。
松浦 晋也
下記の記事はハルメクWebからの借用(コピー)です。
寝付きをよくするために必要なこととは?
睡眠の悩みを解消するには、寝付きを良くすることと睡眠の質を高めることの双方が必要です。しかも、深睡眠が訪れるのは、眠りの前半のみ。まず「寝付きが悪い」という悩みを解消するために、眠気のリズムに関係する2つの体の仕組みを知りましょう。
* 「恒常性維持」と呼ばれる、体内の状況を一定に保つための働き。日中活動を続けると、眠気が蓄積され自然と眠くなり、眠りをとると解消される。
* 「既日リズム」と呼ばれる体内時計により、太陽の光に反応してホルモン分泌が行われ、夜になると自然と眠くなる。
つまり寝付きを良くするには、日中の活動量・運動量を高めるとともに断眠状態を続けて眠気を蓄積することと、体内時計を整えることが大切です。日中の活動量が少ないという人は、ウォーキングなど運動を毎日したり、長時間の昼寝を控えたりした方がいいでしょう。
また体内時計を整えるためには、朝と日中に太陽光を浴び、反対に夜は明るい光を避けるようにしましょう。
睡眠の質を高めるために必要なこととは?
睡眠の質を高めるためにも、恒常性維持と体内時計を整えることは大切です。それに加えて、メラトニンの分泌をなるべく促せるようにすることと、睡眠を阻害する要素を減らしていくことが大切です。
睡眠を阻害するNG要素
* 寝具が合っていない
くたびれたマットレスや、合わない枕を使い続けていませんか?寝具がくたびれていると寝返りを打ちづらくなり、睡眠中に腰など体の一部が痛くなり眠りを妨げることがあります。
また、睡眠中は深部体温が下がるように、体温を逃がさなくてはいけません。冬場は電気毛布、湯たんぽを使わないように。ストレッチと入浴をして体の深部から温めて布団に入り、徐々に体温を下げていくことを心掛けましょう。
* 睡眠中に音がする
睡眠中の騒音は眠りを妨げます。また、睡眠のBGMとしてヒーリングミュージックやラジオを流しているという人もいるかもしれません。音楽とリラックスの関係性は効果が研究されており、入眠前にかけるのはいいでしょう。しかし「眠りに入って4時間以内に、『深睡眠』を2回以上とれるかがカギ」なので、入眠後も音楽やラジオが流れ続けているのはNG。タイマーをかけましょう。
* 夫婦で一緒のベッドに寝ている
寝返りの振動だけでも睡眠を阻害します。ベッドを横並びにする場合は、マットレスだけでも分けた方がいいでしょう。パートナーのいびきがうるさいという場合は、睡眠時無呼吸症候群の可能性があるので治療に取り組むか、寝室を分けるという手も。
更年期や中途覚醒に隠れた病気に注意!
「睡眠障害には病気が隠れている可能性もあるので、生活習慣を変えても不眠が長期間に及ぶようであれば、医療機関で受診をした方がいいでしょう」と白濱さん。専門機関では正しい睡眠習慣を身に着けられるように治療をするとともに、睡眠障害に隠れた病気の治療も行います。
更年期は要注意
「更年期で女性ホルモンの変化が起きると、自律神経のバランスが崩れて睡眠パターンが乱れることが多いです。治療ではホルモン値の検査をして、婦人科と連携して更年期障害への対処をすることがあります」と白濱さん。
更年期障害だけでなく、50代以上の女性の睡眠を阻害している可能性のある病気は以下です。睡眠外来もしくは症状に合った外来を受診しましょう。
また意外と多いのが、むずむず脚症候群。ひざから下がむずむずして落ち着かない症状です。原因がある場合とない場合がありますが、原因がある場合は鉄分が欠乏しているか、妊娠中か、腎不全やヘルニアなどの脊髄の病気が挙げられます。眠る前にマッサージをすると改善することもありますが、いずれにせよ睡眠外来で相談をした方がいいでしょう。
中途覚醒につながる睡眠を阻害する病気の例
* 睡眠時無呼吸症候群
* むずむず脚症候群
* 夜間頻尿(前立腺肥大、神経性膀胱など)
* うつ病
* 認知症
* パーキンソン病など神経内科疾患
次からは、深睡眠につながる生活習慣をご紹介します。
「睡眠のために生活様式をがらりと変えるというのも難しいですし、覚えきれないと思うのでポイントを押さえて、少しずつ生活習慣に落とし込んでいくようにしましょう」(白濱さん)深睡眠ポイント1:目覚めたら朝日を浴びる
体内時計を整えるには、決まった時間に起きて日光を浴び、1時間以内に朝食をとりましょう。朝に太陽光を浴びた14~16時間後にメラトニンの分泌が始まるように、体内時計がリセットされます。つまり、7時に朝日を浴びれば21~23時には、自然と眠くなります。
深睡眠ポイント2:必須アミノ酸を毎食摂取する
食事は「トリプトファン」が含まれる、みそ汁がおすすめです。「トリプトファン」とは、必須アミノ酸の一種で、質の良い睡眠をとるために必要な栄養素で、魚類・肉類・卵・大豆製品・乳製品などに多く含まれます。
トリプトファンがビタミンB6と結合することで、幸せホルモン「セロトニン」となり、さらにセロトニンが深い眠りを得る上で大事な睡眠ホルモン「メラトニン」の分泌を促します。
また必須アミノ酸である魚類・肉類・卵・大豆製品・乳製品は、脳の興奮を抑えて、気持ちを落ち着けリラックスさせる効果のあるGABAも生成します。しっかりとタンパク質を毎食とることを意識しましょう。
快眠のためのおすすめ食材
魚類・肉類(特に豚肉はビタミンB群も多く含む)・卵・大豆製品(みそ、豆腐など)・乳製品、さつまいも、バナナ、ナッツ類、玄米
食事は、就寝前の3時間前に済ませる
食事をとることで胃腸が動き、交感神経が活発になり覚醒状態になってしまうため、食事は就寝の3時間前には済ませるようにしましょう。
また夕食は消化のいい食事を心掛けるといいでしょう。消化に悪い肉類(ハム・ソーセージ・ステーキ)を食べると、胃の中で長くとどまり睡眠の質を下げます。また白米、白パン、加糖飲料など、精製された炭水化物が含まれる食材は血糖値が変動しやすく、自律神経が乱れやすくなるため夕食に取るのはおすすめしません。
お腹がすいていると寝られないという人には、白濱さんは「コンビニで売っているような寒天ゼリー」をおすすめします。「仕事で疲れると脳が誤作動しやすくなり、お腹が減っていなくても甘いもの欲することがあります。そんなときは、僕も寒天ゼリーを食べています」
深睡眠ポイント3:昼寝は15時まで、20分間に留める
長時間の昼寝や夕方頃の昼寝は、夜間の深い睡眠を妨げる要因になってしまいます。昼寝をするときは、15時までに20分を限度とすること。
昼寝の前にコーヒーや緑茶、紅茶などでカフェインを摂取しておくのもおすすめ、昼寝後の覚醒度がアップします。短時間の昼寝「パワーナップ」であれば、頭がしゃっきりとして昼寝後の生産性が上がると言われています。座ったまま寝るなどして、眠り過ぎを防ぎましょう。
深睡眠ポイント4:夜寝る前に明るい光を浴びない
寝る数時間前からスマホはやめて、寝室には持ちこまないようにしましょう。スマホのブルーライトは体内時計を乱し、眠りの質を下げる恐れがあります。夜間にパソコンやスマートフォンを操作しないといけない場合は、ブルーライトカットのレンズが入った、シニアグラスを使うのも一つの手です。深睡眠ポイント5:深部体温を上げる入眠前習慣を行う
いろいろあり過ぎて覚えきれないという人は、睡眠のためのナイトルーティン、入眠前習慣だけでも身に着けるといいでしょう。深い眠りを手に入れるためには、体温を上げて下げるということが大切です。特に50代以上の女性の場合は、冷え性という方も多いでしょう。冷え性だと、睡眠時に深部体温が下がりづらくなってしまうので深睡眠に入りづらくなってしまいます。
寝る前の1時間半以内にコンパクトに入眠前習慣をまとめて、血行がいい状態になるよう心掛け、副交感神経が優位になるようにしていきます。少なくとも夜、お風呂に入る時間帯くらいから、丁寧に睡眠を意識しましょう。
おすすめのナイトルーティン
* 温かい飲み物、水を飲む
水分不足だと夜間に足をつる場合がありますので、水を飲みましょう。白湯やハーブティーなど、ノンカフェインの温かい飲み物は、体温も上がり、体がほぐれるのでおすすめ。カフェインが含まれるお茶やコーヒーは、夕方以降は飲まないようにしましょう。
* 心配事はメモを取り後回しに
眠る前になると、明日は何をしようなどと考えて不安になる人もいるでしょう。覚えておきたいことは紙にメモをしておいて、心配事は次の日に持ち越しましょう。
* 入浴は、ぬるめのお湯に浸かる
入浴は体の芯から温めることが大切です。お風呂の設定温度は、40度にしてゆっくり浸かりましょう。熱い風呂は体の表面だけ熱くなり、交感神経を高めるのでNGです。また、入浴時もお風呂の電気は暗くするといいでしょう。
* 寝る前は深睡眠ストレッチを行う
寝る前にハードな運動をすることは避けましょう。ヨガやストレッチなどの体を伸ばすことならば、血行が良くなると同時に副交感神経が高まり深い眠りに誘われます。白濱さんが考案する、深睡眠ストレッチがおすすめです。
「眠りの質が上がる1日3分の深睡眠ストレッチ」は次の記事でご紹介します。
取材先・監修
RESM新横浜 睡眠・呼吸メディカルケアクリニック 院長 白濱龍太郎さん
しらはま・りゅうたろう 2002年、筑波大学医学群医学類卒業。東京医科歯科大学大学院統合呼吸器病学修了。東京共済病院、東京医科歯科大学附属病院を経て、13年にクリニックを開設。
下記の記事はFRIDAY DIGITALらの借用(コピー)です。
「国家公務員にも応援いただいているんです」
「数々の裁判をしたがこんな経験初めて」
10月26日に眞子さまとご結婚が間近になってきた小室圭さん。だが、いまだ波乱の中にいるといってもいいだろう。
先日、小室佳代さんの遺族年金不正受給疑惑と傷病手当の不正受給疑惑を東京地検に刑事告発した、ジャーナリストの篠原常一郎氏が10月12日、自身のユーチューブを更新し、進捗状況を明かした。
6日に提出したが、東京地検から3日後には簡易書留が届いており「返戻する」という通知文が入っていたという。あくまで不受理ではなく、
「犯罪構成要件に該当する具体的事実を特定してもらう必要がある。犯罪構成要件に関する具体的事実が記載されておらず、具体的な証拠に基づいた記載もなく、告発事実が十分に特定されているとはいえません。犯罪地または犯人の所在地を管轄する警察署等に相談されることをご検討願います」
と、内容をもう一度見直してほしい旨が書かれていたようだ。
篠原氏は報道された資料や不正受給を裏付ける計算書などを添付して送ったというが、それだけで受理はできなかったという。篠原氏はこれまで数々の裁判を経験してきたというが、東京地検特捜部から刑事告発が成立するまでの指南のような内容が書かれていたことは初めてらしく、本人は“好感触”を実感したようだ。
以前別件で刑事告発した際は、3か月後に不受理という通知が来たといい“今回も不受理できた”にもかかわらず“返戻”という形になったことは珍しいそうだ。
「今回のこの刑事告発の動きは政府関係者にも知られており、中には篠原氏を応援している国家公務員もいると言っていました。さらに篠原氏は“特捜も同じ気持ちなんじゃないか”と期待を膨らましていた。
一方でこれだけ不正受給の証拠などが報道されているのに捜査機関が動かないことへの苛立ちはあるようです」(女性誌記者)
国民に愛される皇室を憂慮し、積極的に動いているという篠原氏。“これは長い戦いになる”と説明しているところを見れば、眞子さまと小室圭さんがご結婚したあとでも、佳代さんの問題を追及し続けるつもりかもしれない。
帰国後2週間の隔離期間が終わり、今後の動きに注目が集まる小室さん。眞子さまとのご結婚の前に、金銭トラブルと佳代さんの不正受給疑惑には決着をつけておいたほうがいいのではないだろうか…。
下記の記事はダイアモンドオンラインからの借用(コピー)です
認知症と睡眠時間の長短に注目した調査は幾つかあるが、追跡期間が10年足らずなど、20年以上をかけて進行する疾患との関連を見いだすには、物足りないものが多かった。
しかし先日、英国のホワイトホール(日本の霞が関に相当する官庁街)に勤務する公務員をおよそ25年間追跡した大規模調査の結果が報告された。
同調査では、1985~88年の登録者のうち、50歳時点の睡眠時間が判明している7959人(平均年齢50.6歳)を追跡。参加者は全員が完全雇用で、正規/非正規雇用が混在する一般集団より心身の健康状態が良好であった。
登録時点で健康的な「7時間睡眠」は、3624人(女性30.9%)、6時間以下が3149人(同32.9%)、8時間以上は1186人(同38.5%)だった。
25年間の追跡期間中、521人が認知症を発症。発症時の平均年齢は77.1歳だった。
50歳、60歳、70歳時点の睡眠時間と認知症リスクとの関連を解析した結果、1日7時間睡眠をとっていた人の発症リスクが最も低く、逆に1日6時間以下の人は発症リスクが上昇。もう少し詳しくみると、中年期から7時間睡眠を継続している人に比べ、6時間以下の睡眠時間しか確保できなかった人は、認知症の発症リスクが30%上昇していたのである。
8時間以上の長時間睡眠や、一時期のみ短時間睡眠だった人でも発症リスクは上昇したが、7時間睡眠者との間で明らかな差はつかなかった。このほか、50歳時点の睡眠時間は認知症リスクと強く関係した一方、70歳時点の影響は弱かった。ため込んだ「睡眠負債」の解消を定年後に図ったところで、時すでに遅し、かもしれない。
ちなみに、アルツハイマー型認知症のリスク遺伝子として知られる「APOEω4」の有無で調整しても、睡眠時間と発症リスクとの関連は変わらなかった。
さて、日本人の睡眠時間はOECD先進7カ国中の最下位で、背景に通勤時間の長さがあるといわれている。賛否両論のリモートワークだが、睡眠時間の確保という意味では利点がありそうだ。
(取材・構成/医学ライター・井手ゆきえ)