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バナナや牛で飢えをしのぎ…30年間も密林に留まり続けた”日本軍情報将校"の戦闘力

2021-10-26 15:30:00 | 日記

下記の記事はプレジデントオンラインからの借用(コピー)です。

旧日本軍の将校だった小野田寛郎さんは、1945年に太平洋戦争が終結してから30年近くの間、日本の敗戦を信じずフィリピンで戦闘を続けていた。日本の捜索隊が100人以上訪れたにもかかわらず、なぜ小野田さんは戦争をやめなかったのか。自身の手記『たった一人の30年戦争』(東京新聞)より一部を紹介する――。
私の戦争を終わらせにきた一人の青年
春、終戦の日がやってくる。
10月8日に公開された、小野田寛郎さんの半生を描いた映画『ONODA 一万夜を越えて』
私の“終戦記念日”は、昭和四十九年、元上官の谷口義美少佐から「任務解除命令」を受け、フィリピン空軍司令官に投降した三月十日である。
この季節になると、私はもう会うこともできなくなった一人の青年を思い出す。鈴木紀夫君(昭和六十一年十二月、ヒマラヤで遭難死)。私の運命を百八十度転換させた男である。
「おいッ」
私は男の背後から声をかけた。
炊事のため火を燃やしていた男は立ち上がってこちらを見た。大きな丸い目、長髪、青黒いズボン(ジーパン)でサンダルをつっかけている。
「ボク、日本人です。ボク、日本人です」と繰り返し、彼はぎこちなく軍隊式の挙手の敬礼を二度した。手が震えていた。
私は腰だめの姿勢で銃を構えていた。安全装置をはずし、右人差し指が引き金にかかっている。顔を男の真正面に向けたまま、眼球だけを左右に走らせた。人の気配がすれば男を射殺する。
「小野田さんですか?」
男はうわずった声で聞いた。
「そうだ、小野田だ」
「あっ、小野田少尉殿デアリマスカ」
急に軍隊調になった。
「長い間、ご苦労さまでした。戦争は終わっています。ボクと一緒に日本に帰っていただけませんか」
私は彼を怒鳴りつけた。
「オレには戦争は終わっていない!」
敵が日本語のできるやつを送り込んできたのか?
私は四日前からジャングルの斜面に立ち、この青年の行動をずっと監視していた。彼は捜索隊が「和歌山ポイント」と呼ぶ川の合流点に、白い蚊帳かやのテントを張っていた。野営するからには狙撃兵を連れた討伐隊か、パトロールに違いない。
私は軍帽と上着を裏返しにして小枝の葉で擬装し、監視の輪をしだいに狭めていった。
落日を背に青年に接近した。
「小野田さん、陛下や国民が心配しています」
「お前はだれの命令を受けてきたのか?」
「いえ、単なる旅行者です」
(怪しい男だ。敵が日本語のできるやつをオトリに送り込んできた)
私は警戒心を強めていた。
ただ一つ、男には私に銃の引き金を引かせることをためらわせた点があった。サンダル履きのくせに、毛の靴下を履いていた。軍人ではない。もし住民だとしても、靴下を履く階層は靴を履く。
昭和四十九年二月二十日、ルバング島山中。これが私に祖国日本への生還の道をひらいてくれた鈴木紀夫君との遭遇だった。このとき、彼は二十四歳、私五十一歳。
のちに知ることだが、日本の敗戦から三十年近くがたとうとしていた。
密林で暮らし、バナナや水牛をとっては食べる日々
日はとっくに暮れていた。闇やみがジャングルの静寂を支配していた。
「小野田さんはここに骨を埋めるつもりですか」
「任務解除の命令がない限り、ここを動くわけにはいかんのだ」
すでに三時間がたとうとしていた。夕暮れどき、東の空にあった星が、真上まで動いている。私には星が時計である。時刻は九時近くだろう。
「小野田さん、“お宅”はどちらですか?」
突然、鈴木君が妙なことを聞いた。お宅? そんなものあるわけがない。私は「残置諜者ざんちちょうじゃ」(※)としてこの島で諜報、ゲリラ戦を戦っているのだ。
※敵の占領地内に残留し、味方の反撃に備えて各種の情報を収集しておく情報員
彼の頭には、二年ほど前、グアム島で発見された横井庄一さんのこと(捜索隊が置いていった日本の新聞で、私は知っていた)があり、私が洞窟どうくつにでも住んでいると思ったようだ。
私たちの部隊は一五度ほど傾斜した密林の斜面で暮らしていた。主食はバナナとヤシ、いぶし肉である。潜伏初期は水牛や馬、野ブタ、山ネコ、尾まで入れたら一メートルもある大トカゲなども食べたが、においがきつくてまずかった。
密林の中でも、バナナ畑やヤシ林が近く、牛が獲りやすい場所を選んで、住民たちが「バハイ」と呼ぶ小屋をつくった。寝室は竹や木を組んで高床にして、じゅうたん代わりに住民から“徴発”した航空会社のバッグをほどいたものを敷いて暮らしていた。
三十年近いこの習慣で、日本に帰還した当初、寝床を一五度ほど傾けなければ眠ることができなかったほどだ。
あっけらかんと“最高機密”を聞いてくる
「オレは逃げ隠れして生きているんじゃない。全島の状況を常時把握するために偵察で動き回っているんだ。それに一カ所に定住していたら、すぐ発見され、ズドンだ」
私はちょっとカンにさわった。
「そりゃそうですよね」
鈴木君はあっけらかんとした顔だ。だが次の質間は、私の急所に触れた。
「小銃の弾丸はあといくつ残ってるんですか。どこに置いてあるんですか?」
「余計なこと聞くな!」
まったく大胆なことを聞く男だ。弾丸の数は私にとって最高機密だ。
三時間ほどの間に、私は生まれ故郷の和歌山のこと、鈴木君が最近の日本の世相や、鳥の住民が私を「山の王様」「山ネコ」と呼んで恐れていることなど、いろんな話をした。
私はまだ確かめねばならないことが残っていた。徹夜しなければならないが、やむをえない。
テントに入らず、大地にあぐらをかいた。
「では、今晩はゆっくり飲み明かしましょう」
彼はジンのびんを持ち、紙のコップを差し出した。
「オレは酒は飲めないんだ。戦前、中国で商社員やってたころさんざん練習したんだが」
彼は「残念だなあ」と一人で飲み始め、「小野田さんは甘党ですか」と豆の缶詰を開けた。
私は彼が先に口にするのを待った。毒殺を警戒したからだ。私の疑いには頓着とんちゃくなく彼は食べ始めた。私も豆をひとさじ、口に含んだ。三十年ぶりの祖国の味だった。
戦争を続けているのに「戦前の日本人に会いたい」
「ところで、君が島へきた本当の目的は?」
小野田寛郎『たった一人の30年戦争』(東京新聞)
「小野田さんに会うためですよ。ボクは戦後生まれだけど、いまの日本と戦前では人間まで変わってしまっているんですよね。新聞で見て本当に陸軍の将校さんが残っているなら、戦前の日本人の考え方を生で聞いてみたい……と」
なんだかわけのわからない話である。
「オレは民主主義者だよ。いや、自由主義者の方がいいな。だから兵隊になる前は中国で随分勝手気ままに遊んだものだ」
「小野田さんは英雄です」と、彼はだし抜けにいった。私は当惑し「英雄とは文武両道に秀でた男をいう」と辞書のような解釈を持ち出し、「オレは英雄じゃない。軍人として与えられた任務をただ忠実に遂行しているだけだ」と説明した。
「一億玉砕、百年戦争を叫んで日本は戦争に突入した。でも現実は、二発の原爆で無条件降伏です。小野田さんは当然のことをしていると簡単にいうけど、ほかの日本人はあっさり手を上げてしまったんですよ。やっぱり英雄だと思うな」
彼と英雄論議をやっても、らちのあく話ではないので、私は話題を変えた。
「日本人はみんなメシを食えているのか。貧乏して苦労しているんじゃないのか?」
私にはどうしても確かめたいことがある。それは祖国のことである。
捜索隊が残した新聞や敵から奪取したトランジスタ・ラジオの日本語短波放送で、私はおおよその祖国の現状は察知していた。私の情勢分析では日本本土は米軍に占領され、カイライ政権がつくられている。しかし、本当の日本政府は満州“現中国東北部”のどこかに存在しているはずだった。
日本からの捜索隊を米軍の謀略だと思い込み…
ルバング島は、フィリピンの首都マニラから南へ約百六十キロ。北緯一四度、東経一二〇度、南シナ海に浮かぶ南北二十七キロ、東西十キロの小さな孤島である。マニラまでプロペラ機で飛んでもわずか三十分、日米の激戦地になったバターン半島ののど元にあいくちを突きつけるように位置している。真北には、あのマッカーサー米軍司令官が「アイ・シャル・リターン」の言葉を残して脱出、再上陸したコレヒドール島の砂浜が見える。
島の北側はフィリピン空軍の飛行場、一万数千人の住民が住むニッパヤシの家の集落があるが、南はゴンチン山系の険しい密林が断崖だんがいの海岸線に落ち込んでいる。
私は情報が隔絶されたこの島で三十年近く、祖国の敗戦を信じず「残置諜者」として戦ってきた。
私は日本の現状をまったく知らなかったわけではない。
約三十年の間に九十三回の討伐(フィリピン空軍の記録では百三十三回だった)を受け、二十七年間、行動を共にした小塚金七一等兵が戦死してからは、大掛かりな「救出捜索」という名の“討伐隊”がやってきた。彼らが残した日本の新聞や雑誌から、おおよその日本の状況はつかんでいた。
しかし、私はこれらを米軍が日本兵をおびき出すために新聞、雑誌を巧妙に改ざんした謀略、宣伝工作だ、と信じて疑わなかった。
いまになってみれば、情報将校としてお恥ずかしい限りの現状誤認である。私に弁解の余地はないが、歴史の偶然は、当時の私の情勢分析通りに進んでいったのである。
「満州から徹底抗戦する」同時期に朝鮮戦争が勃発
昭和十九年十二月、私は比島(フィリピン)方面軍司令部から「ルバング島で遊撃(ゲリラ)戦を指導せよ」という赴任命令を受けたとき、参謀部に呼ばれ今後の戦局推移の説明を受けた。
「盟邦ドイツの降伏は時間の問題だろう。戦況はわが軍にますます不利だ。サイパンが陥落し、海軍はレイテ沖海戦で壊滅的打撃を被った。米軍は今後まず沖縄上陸作戦を敢行。九州・大隅半島に上がり、浜松を拠点化、九十九里浜上陸を目指す。本土決戦は必至である。最悪の場合、米軍による日本本土占領もありうる。その場合、日本政府は満州(現中国東北部)に転進、関東軍を中心に徹底抗戦を図る。大陸には陸軍八十万人の兵力が温存されている。反撃攻勢の時期は三年ないし五年後と想定される」
五年半後の昭和二十五年六月、朝鮮戦争がぼっ発した。マニラ湾の米艦艇、空軍基地の動きが急に慌ただしくなった。西風の日、海岸に機帆船の残がいが漂着した。日本船籍を示す「○○丸」の字が読みとれた。私はついに日本が大陸から反攻に転じた、と判断した。
私の状況判断を決定的に誤らせる歴史の偶然は、まだ続く。
ベトナム戦争を「日本軍による反撃が始まった」と…
三年ほどでマニラ湾米海軍基地の激しい動きが止まった。参謀部の最悪の想定通り、米軍は「日本本土占領」を完了したに違いない。祖国はどうなっているのだろう? 長い静かな時が流れた。
昭和四十年冬の朝、突如、東の水平線から三機編隊の白い飛行機雲が垂直に上昇すると、島の真上を長い尾を引いて飛び、南シナ海西の水平線に消えていった。米軍の大型爆撃機だ。
朝六時と夕方六時、連日、定期便のような飛行が目撃された。七個編隊から九個編隊、多いときは十七個編隊五十一機という日もあった。
どうやらルバング島のレーダーサイトをチェックポイントにして飛んでいる。方角、往復の飛行時間から計算して仏印(フランス領インドシナ=現ラオス、ベトナム、カンボジア)だ。
米軍がこれほどの戦力を投入するからには「仏印方面で日本軍が再度、猛反撃に出たのだ」と私は確信した。これがベトナム戦争の北爆とは、当時の私が知るはずもなかった。
戦争が継続している証拠が、もう一つあった。
そもそも「任務解除命令」が届いていない
日本人まで動員して「戦争は終わった」と呼びかけながら、なぜ師団司令部から「停戦命令」「任務解除命令」が届かないのか。もし、帝国陸軍が満州で新国軍に再編成されていても、兵籍簿、命令系統は引き継がれているはずだ。私の任務はまだ解かれていない、と判断した。
参謀部から聞かされた今後の戦局推移をもとに、私なりに日本の現状を推論すると、日本本土には米占領軍のカイライ政権が誕生、アメリカ式民主主義に衣替えしたようだ。だが、あくまで大東亜共栄圏確立を目指す真の日本政府は満州に樹立され、戦争を続行している。
大陸の日本新政府は、毛沢東の中共(中国共産党)軍と相いれない蒋介石政権と軍事同盟を結び共同戦線を張っている。満州国、ジャワ、スマトラなどが同盟国で、インドもチャンドラ・ボースが首相になって独立を果たし、友好国になっているかもしれない。
30年間で百件ほどの死傷事件を起こしていた
私は陸軍中野学校で「大東亜共栄圏完成には百年戦争が必要だ」と教え込まれてきた。陸軍参謀本部内の一部には開戦当初から「これは勝てる戦争ではない」という見方もあった。
勝てない戦争なら、負けないように戦えばいい。アメリカは民主主義の国だ。戦争がいつ果てるともない泥沼状態と化し、兵が死に、国民生活が疲弊すれば、アメリカ世論は反戦、厭戦えんせんに傾く。
日本はそれを計算し、降伏でなく条件講和に持ち込む戦略だ、と考えていた。
いま思えば、見当はずれの推論である。しかし、私はそれを信じ1人で戦争を続けていた。
後の昭和四十九年三月、上官・谷口義美少佐の命令を受けて私が投降したとき、隊長のアサンサ少佐に『大統領命令で取り調べは禁止されているが』と、未解決凶悪事件のリストを見せられた。百件ほどの死傷事件(※)が並んでいた。
※小野田さんは1974(昭和49)年3月、谷口少佐からの命令で任務解除を認識、マルコス政権下のフィリピン軍に身柄を拘束され、日本政府に引き渡された。当時のマルコス大統領は「オノダの過去のすべてを赦す」と恩赦を与え、小野田さんが起こした刑事事件を不問としている。
いささか余談になるが、何年か前、ある講演会で「私は本当にそう信じ込んでいたので、いまだに日本の政府が、アメリカのカイライ政権に見えて仕方がないんです」といったら、爆笑とともに拍手をもらった。
今や経済大国になっているなんて信じられない
星が降るような夜空だった。ルバング島の二月の夜は、肌寒いほど冷え込んでいた。時刻はもう真夜中を過ぎているだろう。
写真=iStock.com/Dovapi
※写真はイメージです
私は日本の現状について、質問をつぎつぎと鈴木紀夫君にぶつけてみた。
彼の答えは私が、捜索隊の置いていった新聞や雑誌、敵から奪取したトランジスタ・ラジオで知り得た知識から一歩も出るものではなかった。
(本当のところはどうなんだ。日本本土は米占領軍のカイライ政権下にあり、真の日本政府は満州で健在なんだろう?)
だが、敵か味方かわからないこの青年に、単刀直入に真相を質ただすわけにはいかなかった。
「小野田さんはどうも納得してないようだけど、ボクの話で、日本は敗れたとはいえ、いまは立派に復興して世界有数の経済大国になっている事実がわかってくれたでしょう」
私は冷たくいった。「ああ、君の話は実につじつまが合っている。オレの持ち合わせの知識では論破できない。しかし、世の中には小説というものがあるからな。君の今晩の話は、よく出来た『小説・日本敗戦記』として承っておくとしよう」
鈴木君は「あーあ、バカらしい。もう話すことはない」といって仰向けにひっくり返り、ジンの酔いも手伝ってか眠り込んでしまった。
夜が明け始めた。
ついに私への命令書が届く
鈴木紀夫君と別れてほぼ二週間がたっていた。
私はフィリピン空軍レーダー基地を偵察するため「ヘビ山」に登った。「あてにしないで待ってるよ」と彼にいった通り、期待するものは何もなかった。
近くのヤシ林の方向で住民の声が聞こえ、捜索隊が設けた連絡箱があるのを、ふと思い出した。
(敵の手の内でも見ておくか)
箱にビニール袋が貼はりつけてあった。あのとき鈴木君が撮った私の写真が二枚入っていた。
見た瞬間、あれ、二人の叔父に似ている、と思った。私はこの三十年近く、川に映る自分の顔しか見ていなかった。
手紙が入っていた。
「山下奉文大将の命令書を持って、小野田さんの上官・谷口義美少佐と島にきました。同じ場所で待っています。三月四日 鈴木紀夫」
少佐の「命令は口達す」という文書もあった。「口達す」――これこそ私が長い間待っていたものだ。諜報など特殊任務要員には命令書のほかに、直接、本人に口頭で命令を伝えることになっている。その役目で谷口少佐がきたらしい。
「命令を下達する」。そして…
「和歌山ポイント」まで二日かかった。
(敵のワナの可能性もある)
私は包囲された場合の突破作戦を考え、日没まで警戒した。
日が落ちた。一気にテントに接近した。外に洗濯物を取り入れている鈴木君の後ろ姿が見えた。
「小野田さんだッ、小野田さんだ。谷口さん、小野田少尉です!」
「おお、小野田君か。いま出て行く」
少佐が姿を現した。
「小野田少尉、命令受領にまいりました」
私は不動の姿勢をとった。
少佐は菊のご紋入りのたばこを差し出した。
「命令を下達する」。少佐は最初、山下奉文大将名の「尚武集団命令」を淡々と読んだあと、「参謀部別班命令」に移った。
「参謀部別班命令 九月十九日一九〇〇 バガバッグ
一、大命ニ依り尚武集団ハスヘテノ作戦行動ヲ停止セリ
二、参謀部別班ハ尚武作命甲第二〇〇三号ニ依リ全任務ヲ解除サル
三、参謀部別班所属ノ各部隊及ヒ関係者ハ直ニ戦闘及ヒ工作ヲ停止シ夫々最寄ノ上級指揮官ノ指揮下ニ入ルヘシ 已ムヲ得サル場合ハ直接米軍又ハ比軍卜連絡ヲトリ其指示ニ従フヘシ
第十四方面軍参謀部別班長 谷口 義美」
少佐は、少し間をおいて「終わり」と告げた。
私は次の言葉を待った。少佐は何もいわず、ゆっくりと命令書をたたんだ。
昭和四十九年三月九日、私の三十年戦争は終わった。強風を必死で雨戸で押さえていて不意に風がやんだため、突然、体ごと外に放り出された――ちょうどそんな感じだった。
小野田 寛郎(おのだ・ひろお)
旧日本軍将校
1922年、和歌山県亀川村(現:海南市)生まれ。1939年、旧制中学校卒業後、商社員として「田島洋行」漢口(現:武漢)支店勤務。1942年、和歌山歩兵第61連隊に入隊、陸軍中野学校二俣分校などを経て、1944年12月、比島派遣軍司令部参謀部付としてフィリンピンに派遣される。ルバング島で遊撃指揮・残置諜者の任務を与えられて以降30年間、任務解除の命令を受けられないまま戦闘を続行。1974年3月、作戦任務解除命令を受け、日本に帰還。その後ブラジルに移住、ルバング島の経験を生かした青少年育成のための財団法人『小野田自然塾』を設立している。


「内臓脂肪は15日で劇的に減る」ぽっこりお腹をへこませる基本ルール

2021-10-26 13:30:00 | 日記

下記の記事はプレジデントオンラインからの借用(コピー)です。

ついてしまったぜい肉は、どうすれば減らせるのか。医師の池谷敏郎さんは「内臓脂肪は、つきやすいが、落としやすい。私は以前、15日間でベルト1穴分やせたことがある。ゆるい糖質制限と簡単な運動で十分な効果は得られる」という――。
※本稿は、池谷敏郎『15日間でお腹が凹んでリバウンドなし 名医のお腹やせ』(KADOKAWA)を再編集したものです。
診察室で「太りました」とため息をつく患者たち
コロナ禍で、私たちの日常は大きく変わりました。仕事はリモートワークが中心に。不要不急の外出は憚はばかられ、友人との歓談や人脈を培う交流会、音楽、美術などアートシーンに触れる機会も激減です。引きこもりがちな日々の楽しみは、どうしたって「食べること」。私の診察室を訪れる患者さんの多くが「太りました」「お腹がぽっこり出てきました」とため息をついています。
肥満の原因はとてもシンプルで、食べ過ぎと運動不足によるエネルギー過多です。
私にも肥満の黒歴史があり、36歳のころ体重79kgの最大値を記録。身長は173cmですから堂々たるおじさん体型で、流行の服など似あうはずもありません。そこで一念発起し、15kgのダイエットに成功。以来59歳の今まで、体重、内臓脂肪、血管年齢とも当時のままを維持してきました。体調がベストなら、仕事のパフォーマンスが上がり、人生を前向きに楽しむことができます。
メタボリックシンドロームと診断される人が急増する昨今、地域医療を担う医師として、ダイエットの指導も大切な仕事です。そこで考案したのが「池谷流お腹やせメソッド」。ゆる糖質オフと、ゆる運動の組み合わせで、誰でも無理なくずっと続けることができます。今回はその概要をご紹介しましょう。
40代半ばからぽっこりお腹は加速する
体に蓄積される体脂肪は、主に「皮下脂肪」と「内臓脂肪」に分けられます。ぽっこりお腹の元凶は、皮下脂肪に加え、腸を支える腸管膜周辺にべっとりたまる内臓脂肪です。医学的には「内臓脂肪型肥満」と呼ばれ、男性なら腹囲85cm以上、女性は90cm以上の方が該当します。
体脂肪のもととなる主な食品は、牛肉、豚肉、バターなどに含まれる動物性脂肪。ご飯やパン、イモ類、甘いお菓子などの糖質も、摂り過ぎると体内で脂肪に変換され蓄積します。
若いころは女性ホルモンと男性ホルモンが、血液中の脂肪やコレステロール値を適度に保ちつつ、体脂肪を皮下脂肪へと誘導するため、太るといっても全身ふっくらタイプにとどまります。ところが男女ともに性ホルモンが低減する40代半ばからは、過剰な脂肪は一気に内臓脂肪に。ぽっこりお腹が加速します。
ぽっこりお腹は、生活習慣病の温床
脂肪細胞には、エネルギーの貯蔵庫となるだけでなく、ホルモンのような物質を分泌する働きがあります。たとえば健常な脂肪細胞は、アディポネクチンという動脈硬化を防ぐ物質を産生。しかし過剰に増殖し丸々太った内臓脂肪は、このアディポネクチンを十分に作れなくなる上に、血圧を上げる、糖の代謝機能を悪くする、血液中で血の塊を作りやすくするなどの悪玉物質を続々と放出します。
これらは血管の老化を早め、高血圧、糖尿病、脂質異常症、動脈硬化、さらに脳梗塞や心筋梗塞などの生活習慣病の誘因です。また肥満はさまざまな臨床データから、がんと認知症の発症リスクを高めることもわかっています。
「ゆる糖質オフ」で食生活を上手に改善
ご飯やパン、麺類を主食とする日本人の食生活は、炭水化物(糖質と食物繊維が合わさったもの)が50~60%を占めるとされます。したがって適度な糖質制限は手軽な上に、栄養バランスを崩しにくいダイエット法と言えます。私がすすめる「ゆる糖質オフ」のアプローチ法は大きく分けて次の2つです。
(1)糖質の摂取量をざっくり半分に減らす。
(2)糖質の吸収を抑える食べ方を覚える。
(1)の実践法は、まず主食を半分に減らすこと。目分量でかまいませんからご飯はお茶碗半量盛り。トーストは2枚だったら1枚に。麺やパスタも同様です。甘いお菓子は、1週間単位で半減を目指します。量を減らす、回数を減らす、食べていい「楽甘日」と我慢する「休甘日」を分けるなど工夫してください。半分で効果が乏しいようなら、さらに半分に減らします。
ご飯類は食事の「仕上げのひと口」にする
(2)は「インスリン」の過剰分泌を防ぐことが目的です。インスリンとはすい臓で作られるホルモンで、食事で摂った糖質を体がエネルギー源として代謝できるよう、サポートします。さらにもう1つ、インスリンには余った糖質を脂肪に変える働きがあるため、内臓脂肪を増やしていきます。このため別名「肥満ホルモン」と呼ばれるほど。糖質の吸収を遅らせ、インスリン分泌をコントロールする食事法を覚えておきましょう。
池谷敏郎『15日間でお腹が凹んでリバウンドなし 名医のお腹やせ』(KADOKAWA)
まず、食物繊維が豊富な野菜の副菜から食べること。人間は食物繊維を消化吸収できないので、胃腸に長くとどまり、糖質や脂質の吸収を抑制してくれます。次に肉や魚の主菜。タンパク質も糖質の吸収を阻害する作用があります。ご飯類は最後。仕上げのひと口にいただきましょう。
3食規則正しく食べることも大切。食事と食事の間が空くと、インスリンの分泌は活発になります。
ゆっくりよく噛んで食べることも心がけて。食事を始めて15~20分ほどたち、血液中の糖の値(血糖値)が上がり始めると、内臓脂肪から食欲を抑えるホルモン「レプチン」が分泌され、脳の摂食中枢は満腹を感じます。早食いの男性に大食い&肥満の方が多いのは、満腹感を得る前にたくさん食べてしまうからでしょう。
清涼飲料水やスポーツ飲料のガブ飲みも控えてください。水に溶けた糖質は小腸からすばやく吸収されます。コーヒー、紅茶も無糖が原則です。
内臓脂肪は短期間で減らせる
こんな簡単なゆる糖質オフで、お腹が凹むのか? と思われる方も多いでしょう。実は内臓脂肪は代謝が盛んで「つきやすいが落としやすい」という特徴があります。私がかつてダイエットを成功させたときのデータもあり、皮下脂肪に比べ、内臓脂肪は15日間で大幅に減っていきました。
ズボンのベルトで言えば“ひと穴”というところ。
また、内臓脂肪はインスリンの糖代謝機能を阻害する悪玉物質を放出しているため、血糖値を上げる原因の一つになっています。医師に高血糖、あるいは糖尿病の診断を受けている方は、ぜひこのゆる糖質オフを試みてください。たった15日でも、血糖値のコントロールが容易になるはずです。
モティベーションが上がったところで、ゆる運動を開始。筋肉を引き締め、さらなるお腹やせにつなげましょう。
写真=iStock.com/kuppa_rock
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ゆる運動でお腹を凹ませ、血管も健康に
ゆる運動の目的は、以下の3つです。
(1)ゆる運動=有酸素運動で内臓脂肪を燃焼し、同時に糖も消費する。
(2)腹筋群とインナーマッスルを鍛えてお腹を凹ませる。
(3)血管内に「NO(一酸化窒素)」を増やし動脈硬化を予防・改善する。
(1)有酸素運動とは、軽度から中度の負荷を継続的にかける、ゆるめの運動のこと。酸素を使い、脂肪をエネルギー源として燃やすので、内臓脂肪を確実に減らします。
加えて運動で筋肉が活性化すると、グルットフォーというタンパク質が現れ、血液中の糖の消費も盛んになります。糖は体内で余れば内臓脂肪となってお腹にたまりますから、まさに一石二鳥でしょう。
有酸素運動には汗ばむ程度のジョギング、ウォーキング、水泳、サイクリング、ヨガなどがあり、週3回1回30分が目安です。
インナーマッスルはすきま時間に鍛えられる
(2)お腹を凹ませるには、まず体表近くで腹部を取り巻く腹筋群を引き締めます。同時に体の深部にあるインナーマッスルを鍛え、腹壁を引き締めると内臓が本来あるべきスペースへと引き上げられます。
これらを鍛えるエクササイズはいろいろありますが、取り入れやすいのは「ドローイン」。鼻から息を吸ってお腹を膨らませた後、口から息を吐いてお腹をグッと凹ませます。その状態で30秒間浅い呼吸を繰り返してください。
要領がつかめたら、仕事や家事の合間に適宜行います。ウォーキングなど有酸素運動と組み合わせればさらに効果倍増! です。
運動が血管の自然治癒力を高める
(3)NOとは、血管の一番内側にある血管内皮細胞が分泌するガス状の物質です。NOは血管に張り巡らされた繊維や筋肉、自律神経に働きかけ、血管を拡張したり縮めたりしながら血圧を安定させます。ほかにも血管の柔軟性と弾力性を高めて老化を防ぐ、血管内皮細胞にできた傷を修復する、初期の動脈硬化を改善するなど優れた作用が。
運動をすると、筋肉からブラジキニンというタンパク質が放散され、NOの分泌を促します。つまり運動には血管に備わる自然治癒力を高める効果があるということ。生活習慣病の予防・改善に運動がすすめられる理由の一つです。
私のメソッドでコロナ禍を元気に乗り切り、スリムボディを取り戻してください。

池谷 敏郎(いけたに・としろう)
池谷医院院長、医学博士
1962年、東京都生まれ。東京医科大学医学部卒業後、同大学病院第二内科に入局。97年、医療法人社団池谷医院理事長兼院長に就任。


眞子さま“意味深”写真にこめた結婚許さぬ秋篠宮さまへの抵抗

2021-10-26 11:00:00 | 日記

下記の記事は女性自身オンラインからの借用(コピー)です。


「小室さんと共に、温かく、居心地が良く、笑顔あふれる家庭をつくることができれば、うれしく思います」

婚約内定会見で、そんなささやかな願いを口にしてから4年あまり――。眞子内親王はようやく小室圭さんとの結婚を成就させ、「小室眞子さん」としての新たなスタートを切る。

4年前の時点では、結婚披露宴は帝国ホテルで盛大に開かれるはずだった。しかし、結婚に関する儀式はいっさい取りやめに。

秋篠宮さまは、いまだに小室さんとの結婚に反対なのだという。そのお考えは、小室さんへの対応にもはっきりと表れていた。

10月18日、小室さんは秋篠宮ご夫妻に挨拶するため赤坂御用地へと向かった。だが、案内されたのはお住まいではなく、行事などで使われる赤坂東邸だった。しかも、およそ3年ぶりの対面にもかかわらず、30分もたたずに面会は終了したという。24日にも小室さんは会見の打ち合わせのため赤坂御用地を訪れたが、このときも赤坂東邸に通されたという。

「小室さんを眞子さまの結婚相手として認めたわけでも、許したわけでもない――。その考えをはっきり示すため、秋篠宮さまは小室さんに、秋篠宮邸への“出入り禁止”を通告されたのでしょう」(宮内庁関係者)

翌日の10月19日に眞子さまは宮中三殿を参拝。しかし、あくまで“私的”な参拝とされ、十二単ではなくロングドレス姿で、社殿には上がらず庭上での参拝となった。皇室担当記者は眞子さまの心情をおもんぱかる。

「待ちに待った結婚にもかかわらず、皇室として祝福するムードもなく、秋篠宮ご夫妻も厳しい姿勢を崩していません。眞子さまのお写真を拝見すると、ずいぶんとおやせになっているのがわかります。はたして、ここまで苦しむ必要があったのでしょうか……」

結婚を前に、眞子さまは10月23日、30歳の誕生日を迎えた。誕生日に際して公開された写真では、妹の佳子さまと一緒に明るい表情を見せてはいるものの、マスクをつけていない眞子さまの顔は“激やせ”といっていい。

前出の皇室担当記者は、その中の1枚が気になったという。

「眞子さまが烏瓜に触れている写真です。心身が限界に近い中でも、眞子さまはこの写真に強い決意を込められたのだと思います」
■和歌に小室さんへの思いを匂わせて…

今年3月の歌会始で、眞子さまは《烏瓜その実は冴ゆる朱の色に染まりてゆけり深まる秋に》という歌を詠んでいた。

宮内庁は、烏瓜の実が秋の色に染められていくように見える様子を詠んだ歌だという解説を添えていたが、前出の皇室担当記者は「小室さんへの愛を込めた歌だとみて間違いない」と語る。

「烏瓜には『よき便り』という花言葉があります。その烏瓜の実が秋の色に染まる……。つまり、この秋に、結婚という“よき便り”が来るようにと願われた歌だったのです。

眞子さまも、ご自身の歌がそのように解釈されていたことはご存じだったはずです。小室さんとの結婚が歌のとおり現実となった今、あえて烏瓜の写真を公開したのは、いまだに小室さんとの結婚を許そうとしない父・秋篠宮さまへの“勝利宣言”だったのではないでしょうか」

眞子さまといえば、’20年の歌会始では《望月に月の兎が棲まふかと思ふ心を持ちつぎゆかな》と詠まれている。小室さんは4年前の婚約内定会見で眞子さまのことを「月のように静かに見守ってくださる存在」と話しており、2人をつなぐ「月」という特別なキーワードを織り込んだ歌は、小室さんへの“愛の歌”ではないかと話題を呼んだ。

さらに、秋篠宮さまが初めて「結婚を認める」と発言される2カ月前には、勤務先の博物館のHPに掲載されたコラムに《まるで時計の針が再び動き出したかのような感覚》と綴られていた。眞子さまはこのように、和歌やコラムに“意味深”なメッセージを忍ばせてきたのだ。

「1年に1回、誕生日会見のある秋篠宮さまと違い、眞子さまにはご自身の考えを公式に発信する機会がありませんでした。小室さんに厳しい発言を繰り返し、眞子さまのお気持ちが冷めるのを望まれていた秋篠宮さまに対し、和歌で“小室さんへの思いは決して変わらない”と示すことは、眞子さまにとってせめてもの抵抗だったのかもしれません」(前出・皇室担当記者)


眞子さま「複雑性PTSD」公表後の会見に心配の声、何としても避けたいパニック発作

2021-10-26 10:30:00 | 日記

下記の記事は週間女性プライムからの借用(コピー)です。

 秋篠宮家の長女・眞子さまと小室圭さんの結婚準備が着々と進められている。18日には小室さんが東京・元赤坂の赤坂御用地を訪れ、秋篠宮さまご夫妻に結婚のあいさつ。翌日、眞子さまは皇居にある宮中三殿を参拝、結婚をご報告し、22日には天皇皇后両陛下に結婚のあいさつをされた。25日は上皇ご夫妻にあいさつをされる予定となっている。
 そして来たる26日。お二人は婚姻届を提出し、揃って結婚会見を行う。そこでどのようなことが語れるのか関心が集まっているが、気がかりなのが眞子さまの体調だ。
「10月1日、宮内庁から眞子さまと小室さんが26日に結婚されることが正式に発表されました。驚くべきことは、そこに精神科医でNTT東日本関東病院の秋山剛先生が同席されていたこと。そこで眞子さまが、複雑性PTSD(複雑性心的外傷後ストレス障害)と診断される状態にあることが明らかにされたんです」(皇室担当記者)
記者会見に出て大丈夫なのか
 宮内庁が公表した秋山医師の文書にはこう書かれていた。
 “眞子内親王殿下は、ご結婚に関する、ご自身とご家族及びお相手とお相手のご家族に対する誹謗中傷と感じられるできごとを、長期にわたり反復的に体験された結果、『複雑性PTSD』(複雑性心的外傷後ストレス障害)と診断される状態になっておられます”
 さらに文書には、眞子さまはある時期から<誹謗中傷と感じられるできごとに関する刺激は、できる限り避けておられる>こと、さらには<些細な刺激で強い脅威を感じられたり、集中困難、焦燥感、無気力といった症状がある>ということも記述されていた。
 宮内庁の会見によると、眞子さまが心を痛めているのは、今に始まったことではなく、中学生のころから誹謗中傷と感じられる情報に触れられ、精神的な負担を感じられていたという。
 そこで疑問なのが、果たして、この状況で26日の記者会見に出られるのかということ。これには多くの人が疑問を感じているようで、<会見に出て大丈夫なの?><眞子さまが心配>といった不安の声も。例え限られた数の記者しか出席しなかったとしても、カメラの向こう側には大勢の国民の“目”がある。現場の空気も祝福どころかピリついた緊張感に包まれることだろう。そこに立たれる眞子さまの心への負担は計り知れない。
「複雑性PTSDでは、ささいな刺激によるフラッシュバックや“自己調整”の障害という症状があります。そのため、会見中に感情や記憶・思考、身体の動きを上手くコントロールできないといったことが出てしまう可能性があります」

 そう話すのは、精神科医であり産業医でもある井上智介先生。「あくまでも可能性であり、“このようなことに注意したい”といったニュアンスで捉えていただけたら」と前置きしたうえで、こう解説する。
「まず自己調整とは、自分を自分でコントロールすること。私たちは、感情や記憶、思考、身体の動きなど、その場に適した塩梅でコントロールして表現しています。しかし、複雑性PTSDではその自己調整が難しくなる場合があり、何に関しても0か100でしか表現できなくなったりすることがあるのです」
 具体的に心身にどのような影響が出る可能性が考えられるのか。<感情><記憶・思考><身体の動き>の大きく3つに分けて詳しく説明してもらった。
<感情>
 複雑性PTSDでは、簡単に他人を信じることが出来ない症状です。会見で記者を目の前にすることで、<この中に、誹謗中傷を書いた人がいるのではないか><またバッシングの記事を書かれるのでは> といった思いがよぎり、強い恐怖や不安にさらされることもあります。
 さらに、この会見の様子が記事になることを想像し、過去の批判や侮辱的なコメントがフラッシュバックすることも。当時のつらい苦しい感情がまさに今起きているように再現されるので、パニック発作として、身体的に過呼吸、動悸や冷や汗、手の震え、めまいなどの症状が出ることも考えられます。
 また、PTSDの症状として、神経がピリピリと高ぶっている状態なので、皮肉や嫌味のある質問をされると、イライラや焦燥感を上手くコントロールできずに、表情や声色などに現れてしまう可能性もあります。
<記憶・思考>
 やたら鮮明に、過去をこと細やかに記憶していることがある一方で、記憶の一部が抜け落ちてしまっている可能性もあります。それはつらかったときのことだけではなく、何気ない日常生活の1コマが抜けていることも。なので、会見では、周りから見たら『そんなことを忘れるのか?』と思うような一面があるかもしれません。
<身体の動き>
 先に述べたように、動悸や冷や汗、手の震え、めまいなどの身体症状も特徴です。しかし、極度の緊張やストレスが強くなると、これ以上の刺激を受けないように、心の防御反応の1つとして感情が麻痺。そのため、表情がなくなりボーッと固まって動けなくなって(フリーズ)してしまうこともあります。
求められる配慮
6月16日、ドレス姿で香淳皇后が眠る武蔵野東陵を参拝された眞子さま
【写真】電車内で密着デート、小室圭さんと眞子さまのラブラブ姿をキャッチ
 もし、上記のような症状が出てしまえば、会見中断ということもあり得るかもしれない。「だからこそ、そのような症状が出ないように本人への配慮や工夫が必要」と井上先生。
「たとえば、最初の段階から『本人の体調を優先して、予定の時刻より早く切り上げる可能性もあります』や『本人が途中で退室する可能性もあります』くらいにアナウンスしておくのは有効です。無理して最後までいなければいけないプレッシャーが解け、ご本人も安心感が得られるでしょう」
 今回の会見は事前に提出された質問に答えていく形式となっており、そのあたりも安心材料となるかもしれない。さらに記者の質問の仕方にも注意が必要だ。
「質問をしてから、眞子さまが答えるのを急かさないようにすることも大事です。責められていると感じる言い方や、トゲのある表現をすると、本人にとって大きな負担になります。限られた時間だとは思いますが、1つ1つの質問にはゆっくりと時間をかけていくのが理想です。
 また、精神疾患はデリケートな問題。具合については『体調は大丈夫ですか?』くらいにとどめておき、この疾患自体の症状や過去のつらかった経験などを掘り起こすような質問は、フラッシュバックを誘発させるリスクが高いので、絶対に避けるほうがいいでしょう」
 26日の会見は、お2人にとって新しい門出となる第一歩。まずは大きなトラブルもなく会見が終わることを、眞子さまの体調とともに、見守りたい。 


「眞子さまは海外脱出を選ぶしかなかった」皇室批判を繰り返す人たちが誤解していること

2021-10-26 10:00:00 | 日記

下記の記事はプレジデントオンラインからの借用(コピー)です。

まるで時計の針を封建時代に戻したかのよう
秋篠宮家の長女である眞子さまが、長い春を実らせてようやく結婚されようとしている。
逆境を乗り越えて皇室内でも理解が得られ、結婚を迎えることについてまず何よりおめでとうございますと申し上げたい。
ところが日本の世論は異常である。
結婚相手の小室圭さんの母親と元交際相手との間の金銭トラブルが週刊誌で報じられて以来、小室さんや母親そして、眞子さま本人への極めて悪質な誹謗中傷が後を絶たない。
この誹謗ひぼう中傷は、小室さんがロースクールを卒業し、晴れてニューヨークでの就職先を決めて帰国して、結婚が秒読み段階となっている今いよいよボルテージを上げている。
10月10日には東京・銀座で結婚に反対するデモ行進が行われた。
なぜ他人の結婚に干渉したがるのだろうか。
それぞれが意見・感想を持つことは自由だろう。
しかし、自分の意思で選んだ人と結婚することは、極めて重要な人権である。結婚・恋愛は、人生の幸せに直結する、最も重要な選択だ。それを否定しようという社会の空気は、まるで時計の針を封建時代に戻したかのようである。
憲法24条は、「結婚は当事者の合意のみに基づいて成立する」と規定する。それを、国民世論によって妨害しようとする現象は日本の人権意識の低さを表すものだ。
否定的な報道で巨額の利益を得ているメディア
メディアの責任は重大である。
眞子さまと小室さんには執拗しつような人格攻撃を含んだ否定的な報道が沈静化するどころかヒートアップしており、それが二人への誹謗中傷を加速させている。
各メディアは、帰国時の小室さんの髪型を批判したり、一挙手一投足を取り上げ、臆測も交えて否定的な報道に興じているようである。
「水に落ちた犬をたたく」という言葉がある。一度世論が一つの方向に加熱した問題において、標的にされたたかれている人々をさらにたたき続ける現象だ。
それが今、この二人に集中してしまっているが、この現象は率直に言って、集団的ないじめにほかならない。
世論に迎合して、否定的な報道をすればするほど視聴率は上がり、閲覧数を稼ぐことができるのだろう。一部メディアは結婚を控えた若い二人の人格をおとしめ、明るい未来を否定する報道をし、またはそれに加担することで、巨額の利益を得ているわけである。良心の呵責かしゃくはないのだろうか。
内親王である眞子さまは立場上、いかに不当で事実に反する報道をされても、民間の報道機関を相手に名誉毀損きそん訴訟などを起こすことが非常に難しい。反論できない相手と分かっていながら誹謗中傷をあおるような報道を垂れ流して利益を得ようとするメディアの姿勢が厳しく問われなければならないと思う。
なぜ期待に応えなければ人格を否定されるのか
眞子さまが一般人でなく皇室に属することから、社会の期待に沿う結婚をしなければならないとして、期待に沿う行動を強要する発想は危険である。
なぜなら、そうした発想はとどまるところを知らないからだ。
皇室の誰としてこのような世論に安穏としていられないだろう。国民の期待などという漠としたものに応える結婚を求められ、それに反するならどこまでも誹謗中傷されるとするならば、誰一人として安心して結婚できないだろう。人格を否定される生き方を強いられる皇室にとどまり続けたい若いまともな皇族などいるだろうか。そして誰があえて火中の栗を拾って注目度の高い皇族と結婚したいと思うだろうか。
社会に完璧な人間など存在しない。人はだれも人間であるが故の未熟さや欠点を抱える。若者であればなおさらである。過去も含めた自分や、親族全員が何らトラブルも過ちもない完璧な人間など存在しない。そのような人間を配偶者として求めることは不可能である。
社会は皇室にバーチャルリアリティーを求め、それに応えられないならいくらでもたたきますよということだが、早く目を覚まして、その異常性に気付くべきである。「税金で生活している人に生き方の自由はない」という発想は危険
同様のプレッシャーは、国民から何かの拍子で関心を持たれたり、社会的関心事の的となったすべての人に及ぶことになる。例えばオリンピック選手や芸能人、犯罪被害者として報道された人にまでそうしたプレッシャーは及ぶ。
皇室をたたくことが正義なら、世論という名の凶器が多くの人にも波及することになるだろう。
さらに、眞子さまは国民の税金を使っての儀式や一時金支給を辞退されたが、税金を使っての結婚であるから批判して良いという発想も危険である。
状況は全く異なるが、世論状況は生活保護バッシングと酷似している。
生活保護を受けている人の私生活にみだりに立ち入り、その一挙手一投足を批判し、日々の過ごし方を非難して、生き方を責める現象にうり二つだ。
確かに皇室の在り方や予算の使い道について議論があってしかるべきだろう。しかし、税金の恩恵を被って生活している人間には生き方の自由など認められない、国民世論の言う通りの生き方をすべきだ、という発想は非常に危険である。
さらに問題となった「金銭トラブル」は小室さん本人ではなく、母親の問題である。親と子は、仮に同居していても独立した人格であり、親の不始末を理由に子を社会が非難したり、結婚の自由を否定するという発想も恐ろしい。
こうした常軌を逸した批判は必ず自分にもいつか跳ね返ってくる。自分たちの首を絞め、自分たちの自由をも奪うことになる。そのことを認識した方がいいのではないか。
誹謗中傷は終わりにしなければならない
人生の門出、本来祝福されるべき結婚にあたって、大音量の誹謗中傷で人格を否定され続けなければならない眞子さまと小室さんの心境、精神状態はいったいいかなるものであろうか。
眞子さまは複雑性PTSDを発症されたと報道されている。
20代の若者に対し、社会全体が洪水のような誹謗中傷、人格攻撃を続ければ、それは深刻な心身のダメージを引き起こすことを私たち社会は過去の犠牲から経験しているはずだ。
昨年はプロレスラーの木村花さんが、SNS上の誹謗中傷を苦にして尊い命を自ら断った。誹謗中傷が若い人をどれだけ傷つけ、深刻な犠牲を生むのか、この社会は身をもって経験し、反省したのではなかったのだろうか。
このような誹謗中傷は終わりにしなければならない。
メディアは、バッシングを誘発する過熱報道の姿勢を猛省し、お二人の結婚に向け、人権に配慮した報道姿勢に改めるべきだ。そして今回の一連の騒動を総括し、二度と誹謗中傷をあおるような報道姿勢を繰り返さないことが求められる。
また、誹謗中傷を続ける人たちにもわれに返ってもらいたい。
あなたたちは何のためにそんなことをしているのか、目を覚ましてほしい。
眞子さまと小室さんはニューヨークで新生活を始められるという。
それがうまくいくのか案じる声もあるが、二人がニューヨークで成功しようが、失敗しようが、それが人生だ。まずは自分で決めた人生を自分の足で歩むということそのものがかけがえのないことであり、祝福されるべきだ。
眞子さまが去った後の日本社会の方が私には心配である。
    * 伊藤 和子(いとう・かずこ)
弁護士・国際人権NGOヒューマンライツナウ理事・事務局長
1994年弁護士登録、以後、女性、子どもの権利、えん罪事件、環境訴訟など、国内外の人権問題に関わって活動。2004年に日弁連の推薦で、ニューヨーク大学ロースクールに客員研究員として留学。帰国後の2006年、国境を越えて世界の人権問題に対処する日本発の国際人権NGO・ヒューマンライツ・ナウ(Human Rights Now)の発足に関わり、以後事務局長として国内外の深刻な人権問題の解決を求め、日々活動している。