いったい何が悲しいの?
名づけようのない種類の涙を手の
ひらで拭って、あなたは製氷室か
ら氷の入った容器を取り出し、
ぶあついウィスキーグラス―――
夫が愛用しているもの――に、
あふれんばかりに氷を満たす。
そうして、氷の山の上から、ウ
オッカ――夫の好きな銘柄を常備
してある――を注ぎ込み、グラス
のなかで数回揺らしたあと、ぐい
っと喉の奥に流し込む。
軟体動物のように身をくねらせな
がら、喉から食道を伝わって、胃
袋へと滑り落ちてゆく、苦しみと
渋みと、心の痛みにも似た味。
あなたの背筋はぞくっとする。
背中はひんやりしているのに、
胸は焼け焦げた導火線のように
熱い。
それから、冷たいベットの上に
身を横たえて、あなたは読みかけ
の本を開く。
強いお酒をちびちび舐めるように
飲みながら、好きな作家の書いた
小説を何ページか読んでいるうち
に、まぶたが重くなってくる。
夫のいない夜、あなたはいつもこ
んな風にして、孤独だけれど安らか
に眠りの世界に誘われていくのが
常だ。けれど、今夜はまったくそう
ならない。
読めば読むほど目が冴えてきて、飲め
ば飲むほど意識が覚醒してくる。なぜ
ならその本のなかで、あなたと同じよ
うに夫も子どももいる三十代の主人公
が、道ならぬ恋に落ちてしまっている
から。
ページを捲る手を止められない。こん
なにも主人公に自分自身を重ねてしま
うのは、初めての経験かもしれない。
恋人とベットを共にしたあと、家に
もどって、バスルーム―――そこで
しか、主人公はひとりきりになれない
―――の床にうずくまって泣く女の
姿が、今の自分の姿、そのものの
ように思える。
主人公の吐き出す言葉のひとつひと
つが、心臓に突き刺さるように響く。
やがて、あるページのある一行まで
たどり着いた時、あなたは、そこに
指を挟んだまま閉じた本を胸の上に
のせて、蜘蛛の糸のようなため息を
漏らす。
主人公は真夜中、夫の隣で規則
正しい夫の寝息を聞きながら、恋
人からもらったばかりの愛の言葉
を胸によみがえらせている。
―――毎日、会いたい。
―――毎晩、抱きたい。
―――朝から晩まで一秒も、離れたく
ない。
嘘と真実がきっちり半分ずつ、混じり
合ったような言葉をなぞりながら、
主人公はつぶやく。「彼の言葉はわたし
にとって、ベルベットハンマーの
ようだ」と。
この一行に、あなたもまた、柔らかな
ハンマーで、頭を強く殴られたような
気がしたのだった。
名づけようのない種類の涙を手の
ひらで拭って、あなたは製氷室か
ら氷の入った容器を取り出し、
ぶあついウィスキーグラス―――
夫が愛用しているもの――に、
あふれんばかりに氷を満たす。
そうして、氷の山の上から、ウ
オッカ――夫の好きな銘柄を常備
してある――を注ぎ込み、グラス
のなかで数回揺らしたあと、ぐい
っと喉の奥に流し込む。
軟体動物のように身をくねらせな
がら、喉から食道を伝わって、胃
袋へと滑り落ちてゆく、苦しみと
渋みと、心の痛みにも似た味。
あなたの背筋はぞくっとする。
背中はひんやりしているのに、
胸は焼け焦げた導火線のように
熱い。
それから、冷たいベットの上に
身を横たえて、あなたは読みかけ
の本を開く。
強いお酒をちびちび舐めるように
飲みながら、好きな作家の書いた
小説を何ページか読んでいるうち
に、まぶたが重くなってくる。
夫のいない夜、あなたはいつもこ
んな風にして、孤独だけれど安らか
に眠りの世界に誘われていくのが
常だ。けれど、今夜はまったくそう
ならない。
読めば読むほど目が冴えてきて、飲め
ば飲むほど意識が覚醒してくる。なぜ
ならその本のなかで、あなたと同じよ
うに夫も子どももいる三十代の主人公
が、道ならぬ恋に落ちてしまっている
から。
ページを捲る手を止められない。こん
なにも主人公に自分自身を重ねてしま
うのは、初めての経験かもしれない。
恋人とベットを共にしたあと、家に
もどって、バスルーム―――そこで
しか、主人公はひとりきりになれない
―――の床にうずくまって泣く女の
姿が、今の自分の姿、そのものの
ように思える。
主人公の吐き出す言葉のひとつひと
つが、心臓に突き刺さるように響く。
やがて、あるページのある一行まで
たどり着いた時、あなたは、そこに
指を挟んだまま閉じた本を胸の上に
のせて、蜘蛛の糸のようなため息を
漏らす。
主人公は真夜中、夫の隣で規則
正しい夫の寝息を聞きながら、恋
人からもらったばかりの愛の言葉
を胸によみがえらせている。
―――毎日、会いたい。
―――毎晩、抱きたい。
―――朝から晩まで一秒も、離れたく
ない。
嘘と真実がきっちり半分ずつ、混じり
合ったような言葉をなぞりながら、
主人公はつぶやく。「彼の言葉はわたし
にとって、ベルベットハンマーの
ようだ」と。
この一行に、あなたもまた、柔らかな
ハンマーで、頭を強く殴られたような
気がしたのだった。