Archaic Smile

私的な備忘録です。

2009/6/20

2012-06-10 02:17:40 | Weblog
われ思うゆえにわれあり


傑作(0)2009/6/20(土) 午後 3:51無題哲学 Yahoo!ブックマークに登録


われ思うゆえにわれあり。

生物としての構造から言えば、神経細胞とくに単純な感覚器官であればあるほど、それを知覚している時系列的な刹那が、存在を自覚している瞬間なのかもしれない。

脳みそ、こいつが、神経細胞の集合組織であることを、学校で習ったときは、なるほどと思った。
思う・・・外部の感覚器官から入った情報と接点をもちつつも、神経細胞同士で、電気信号を反芻しあって、記憶(感じたことを、時間を静止した状態で保存)も併せて、割と内的に存在を感じる、保てるようなイメージを感じた。

話は飛躍するが、生物の進化の歩みを振り返ると脳は大きくなっている。単純な生物(動物に限らず)であれば、その生きる行為・パフォーマンスは、限られており(先天的、アプリオリ、単細胞生物は必死に泳いで生きるか遺伝子残して、あと死ぬだけだろうけど、人間だったらいろんなやり方で生きている。)、高等になればなるほど、環境に対して、また同種の固体・組織に対して、その個としての在り様や、そのパフォーマンスを変える、役割分担する(より複雑な社会的な存在でもある)必要が出てくる。状況に応じて価値観も変えて生きていかなくてはいけない。

従って、パフォーマンスも多元的に存在する。個人の多様性は必然的に生じうる。生物の進化とは多様性のインフレーションでもある。

人は、悩むし、形而上学的な存在にもなれようし、ときには、行為として自殺もするし。
(食うに困る貧しい国の人々は、よく働いて、食べていける当たり前のことに、素朴に感謝・感動できるし、自殺しないようですが・・・)

この肉体が気持ちよく生きつづけることを、とりあえず第一に、この世にあるのであれば、自分が食うに困らなくなって、悩む暇があったら、とりあえず、情けは人の為ならず、人助けでもしないといけないのだろう。

でも、最近は種としては、生存することのパフォーマンスが高すぎたのか、結果的に愚かなのか、影響力が大きくなりすぎて、人助け(←途上国を助ける。みんな自動車や電化製品が持てる豊かな工業社会の実現?!)の方法論を間違えると環境が更に破壊され、人類全体の生存も危うくするような雰囲気だし、課題はつきない。

先進国の人口減少を、一方的に悪と決め付けず。そこに案外必然性があるのではと考えるべきだとふと思い始めたりもする。

ちょうど、昨今の世界不況で、資本主義の再点検も始まっているし、GDPやら、国力や幸福の価値観の再点検をしたうえで、向かうべき持続可能な社会を日本という国でも考えていかなくちゃあいけないのだろう。

あと、ちょっと前なら日本も何の資源のない国で、いいもの作って、輸出しまくらないと生きていけないと思ってたけど、太陽光やら技術も上がってきてるし、電気自動車とかもがんばりそうだし、すくなくとも、個人レベルでエネルギーの自給自足とかできないだろうか。

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