Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

【お別れの日】 お兄ちゃんの精神は今もここにある。

ブログは「日記」の役割も果たしてくれている。僕は、このブログで、情報発信をすると共に、自分の生きた足跡を自分のために残そうとしている。

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今日、僕の大好きだったいとこのお兄ちゃんの告別式が行われた。正直、突然すぎて、リアリティーが全然湧かない中での参列だった。ここ10年くらいは、冠婚葬祭の時に顔を合わせることばかりだったが、いつも「こっち側」の人だった。「見送る側」というか。それが、今日は一転して、「あっち側」にお兄ちゃんは立っていた。受け入れがたい事実だった。

まだ若いお兄ちゃん。まだまだこれからというときに・・・ すごく僕自身、くやしくて、やるせなくて、なんともいえない気分だった。残されたご家族のことを思うと、何にも言えなくなる。世の無情(無常)を痛烈に感じる一日だった。

僕の(親の一方の)家系はキリスト教で、お葬式はいつもキリスト教様式で行っている。仏教とは異なるところが幾つもあって、(どちらがよいかは判断留保して)非常に独特な様式で、式を行うことになる。

今回、ずっと式に参列しながら、ミサの流れを見ていると、ふと気付いた。ミサ(告別式やそれに類する儀式)は、死者の弔いでありながら、また同時に生きる者への慰めである、ということに。神父様の言葉は、死にゆく人へと言葉なのだが、間接的に遺族へと向けられてもいる。いや、根本的には生きている者への問いかけなのだ。今回、僕はこれを痛烈に感じた。

死にゆく者のために皆で集い、神への言葉を語り、歌を歌い、パンを食べ、聖書を読む。それは、いずれも彼岸と此岸、双方への語りかけとなっている。もちろんすべてこちら側の世界での出来事ではあるが・・・

僕自身、このミサによって、少し心を落ち着かせることができた。外国人の司祭の方が話してくれた言葉。

「彼の肉体はなくなっても、彼の精神は生き続けます。ずっと、ずっと。あなたたちの心の中で、彼の精神は生き続けます。彼は、多くの財産を残してくれました。目に見えない財産も残してくれました。わたしたちは彼の精神からたくさんのものを得ます。それは永遠に消えることはないでしょう」

僕はこの言葉を聞いて、彼が残してくれた精神について考えた。

お兄ちゃんは僕に(いとこでは僕だけに)「サイクル野郎」という漫画を与えてくれた。この漫画をすべて集めるためにかかった日数は20年を越える。僕は、お兄ちゃんからもらった一冊の本を手がかりにして、全国中の古本屋さんを探し回った。岩手、仙台、茨城、新潟、静岡、愛知、大阪、兵庫、岡山、徳島、愛媛・・・ ありとあらゆるところで、「サイクル野郎」という極めて入手困難な漫画を探し歩いた。

そして、20年。昨年、ようやく全巻が揃い、すべてを読み終えることができた。僕の人生と共にあった漫画とも言えなくもない。そう、お兄ちゃん自身、本当にサイクル野郎だった。かつて、都内から三重県の僕の家に友だちと自転車で遊びに来たことがあった。お兄ちゃんは、サイクル野郎だったし、またライダーでもあった。車が大好きで、仕事も車関係だった。そして、旅人だった。彼の洗礼名も「旅人」を意味する名であった。

お兄ちゃんの「旅人の精神」は、僕の中にはっきりと受け継がれている。お兄ちゃんを真似して、名古屋まで自転車で行ったし、全国旅して歩く習慣も彼から学んだ。ユースホステルという存在も彼を通して知ったし、、、いや、それ以前に最も頼れるいとこだった。

彼の肉体はなくなっても、彼の精神は生き続ける。僕の心の中で生き続けるし、その精神は、「サイクル野郎」の漫画が補完してくれている。サイクル野郎の輪太郎の言葉は彼の言葉だ。彼の精神は、実際の漫画を介して、ずっと僕に何かを与え続けてくれるだろう。(実際、「巨人の星」も「あしたのジョー」も、お兄ちゃんから教えてもらったんだったっけ?!)

正直、まだ現実を受け入れきれていない。まだ手を伸ばせば届くところにいるように思えてならない。まだ受け入れなくてもいいかな、と思っている。まだ、いる。いるんだ。そう思うなら、そう思っておけばいい。彼の精神はまだここにいるんだから。

コメント一覧

kei
ありがとうございます。

でも、一番辛いのは家族だと思います。娘さんが二人いるのですが、見ていて、とても胸がつまりました。

やっぱり、「ストン」と納得する時期ってくるんですよね。

いつ日か、ふとなんとなく納得できる/受け入れられる日が来るんだろうな、と改めて確信しました。

死の受容は、やっぱり僕ら生きる者の大きな課題だと思います。

死と言っても、人の死だけじゃないかな。たとえば、ジキルの解散。

ジキルというバンド生命体は、解散をもって「死」を迎えた。もちろん、メンバーがいれば「復活」もあるだろうけど、やっぱり解散は「終わり」を意味しているし、「死」なんだと思います。だから、ファンは解散に対して、泣き叫び、苦しみ、解散を否定しようとするんだと思います。

死(終わり)とどう向き合うか。

これはやはり考えたいテーマですね。


いとこのお兄ちゃんは僕の傍にいてくれてます。そう思いこんでいます。

そうそう、四日市に住んでいたときに、そのいとこのお兄ちゃんが東京から自転車で遊びに来てくれたんですよ。東京から四日市まで自転車。すごいですよね。。。
なまちゃ
御愁傷様です…
ご冥福をお祈りいたします…

まだいるって思う時は ホントに傍にいてくれてる気がします★
言葉にしずらいんですけど、おじいちゃん、おばあちゃんの時、私も実感がなくて ただ逢えないだけなんだ、まだいるんだ、、てなんか思ってて★
ある日「ぁ~、逝っちゃった。いないんだ」と、ストンと納得したりしました★
月日が流れただけ、自分が受け入れれただけかもしれないですけど、それだけじゃないような気もします★
keiサンの従兄の方も 今は傍にいてくれてるのかもしれないですね★
kei
Livさん

コメントありがとうございます。

14年間も一緒に過ごした飼い犬だったら、もう紛れもなく「家族」ですね。

僕は、今回のいとこの死を通じて、「無理に受け入れなくてよい」ということを学びました。「どこか遠いところに行っているだけ」と自分に言い聞かせています。

よく「死を受容せよ」という言葉を聞きますが、その「受容主義」というか、受容しないといけないかのような言説はダメかなと思うようになりました。

十分に「否認」していいのかな、と。

供養も、儀式としてしなければならないということもあるかと思いますが、それで、すべてが解決される、ということはないですよね。

無理に、自分に肯定(死の受容)を強要しないこと。

今回はこのことを強く実感しました。

Livさんの大切なワンちゃんのご冥福をお祈りします。
Liv
私も…
Keiさんの心中お察しいたします。
私も一週間前に、14年間大切な家族だった飼い犬を亡くしました。
事故で、いきなり旅立ってしまいました。
なぜこんなことに…と自分を責め、後悔し、ただただ泣けてしまった2日間。
3日目にお骨となって帰ってきて、ようやく気持の整理がつき始めました。

お花や好きだったパンを供えたり話しかけたり、そんなことをしながら葬儀という儀式であったり供養というものは、生きている者のために行うものなんだな、なんてことを私も考えたり。
Keiさんのブログに通じるものを感じました。
でもまだまだ辛いですね・・・
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