ラーメンと僕。
一番最初のラーメンの記憶といえば、駄菓子屋でよく食べていた50円の四角いカップ麺だ。その中の一つの「しんちゃんラーメン」は今も食べることができる。この四角い宇宙が僕のラーメンの原点だった。
小学校の頃、千葉県市原市辰巳台というところに住んでいたのだが、そこは当時、様々な団地が密集する団地集合地だった。僕の住んでいた団地の隣の団地の片隅に小さなバラック小屋があって、そこにたくさんの駄菓子が売っていた。おばあちゃんが一人ニコニコと駄菓子を売っているのを今も覚えている。そこでよく50円(くらい)のカップ麺を買って、お湯をもらって、よく食べていた。
また、「ラメック」という10円のラーメン菓子をよく食べていた(現在入手不可能)。ベビースターのパクリのようなお菓子だった。これをお湯で溶かして食べると、格別に美味しかった(ような記憶がある)。また、ラーメン屋さん太郎という10円のラーメン菓子もよく食べたものだった。
だから、外食でラーメンという発想は小学生の頃にはなかったと思う。小学生の頃は八幡宿の「すえひろ5」というお店か、万世か・・・といったお店に行った記憶ばかりだ。
そして、小学校六年生の時に、チキンラーメンに夢中になった。それ以前も食べていたと思うが、小六の時にチキンラーメン病にかかったのをはっきりと覚えている。そして、中学一年生のときに、マルタイラーメンにはまり、チキンラーメンとマルタイラーメンを交互に食べていた記憶がある。外食として、ラーメンを食べた記憶はほとんどない。
中二のとき、僕はよく原宿に通うようになった。ロックに目覚めて、都内に行くようになった。それと同時に不登校になった。不登校になると、昼夜逆転する。夕方から夜のテレビをじっくり見るようになった。だいたい不登校だとテレビを見るか、音楽を聴くか、本を読むかくらいしか(当時は)なかった。
もともと食べ物にはすごく興味があったので、あらゆるグルメ番組をビデオに録画していた。(その当時のラーメン番組で紹介されたラーメン屋さんはこちら!)
そのテレビの中で、「ラーメン屋さん」の存在を知ることになる。その当時、はっきりと覚えているのが、さぶちゃん@神保町だった。行列してまでラーメンを食べるというのが信じられなかった。本当に行列ができているのか、知りたくなった。そして、神保町までわざわざ行って、さぶちゃんを探し出し、本当に行列ができているのを確認した。これははっきりと覚えている。「どうしてラーメンにこんなに行列ができるのだろう?」、と疑問を抱いた。しかし、まだ食べるところまではいっていなかった。
当時(中二~中三)の僕にとって、ラーメンはone of themだった。当時好きだったのは、キッチン南海、キッチンジロー、それから、思い出横丁にあるつるかめのソイ丼、かめやのたぬきそばなどで(渋いでしょ!?)、ラーメンの食べ歩きはほとんどしていなかった。チキンラーメン以上のラーメンなど存在しないとホンキで考えていたからだ。カップラーメンだと、でかまるのコーンバター味が大好きだったかな。
いわゆるラーメン屋さんのラーメンで初めて感動したのは、当時17歳の時(1992年)、千葉にできた元氣一杯活力ラーメンというお店だった(現在は稲毛店のみ)。僕のラーメンの原風景といえば、ここ、活力ラーメンなのだ。
銅鑼が鳴るということで有名なラーメン屋さんだった。そこの背脂たっぷりのラーメンを食べたときに、失神しそうになったのを今でも覚えている。活力ラーメンはいわゆる背脂チャッチャ系ラーメンだったのだが、それを初めて食べたとき、まさに電光石火の如く、しばしば放電状態になってしまった。その後、しばらくはひたすらこのお店に通うことになる。スペシャルを注文して、銅鑼を鳴らすのが幸福の一時だった。
しかし、ラーメン屋を食べ歩くという発想には至らず、数年は活力ラーメンのみしか外でラーメンを食べることはなかった。(食べ物全般に興味があったので、色んなお店を食べ歩いてはいた!) ただ18歳の頃は、バンドのことや、将来のことや、大学受験のことなどで、あまり食べることに気を向けてはいなかったな。
大学時代は埼玉で一人暮らし。当時の元カノの話だと、家でよく料理をしていたとのこと。そういえば、よく家に友だちを呼んで、焼肉パーティーをしていたなぁ。。。あと、洋食が大好きだったので、近所の洋食屋さんによく行っていた。ただ、一軒だけ、よく行くラーメン屋さんがあった。京風スタミナラーメン誠一というお店だ(HERE)。ここのラーメンは豚骨醤油(背脂)のラーメンで、「旨い!」と思った記憶がある。が、活力ラーメンほどにはまることはなかった。
また、大学時代の記憶としては、東池袋大勝軒がある。大学時代、僕はボランティア活動にはまり、よく車椅子の人と一緒に池袋に遊びに行っていた。サンシャインビルに行くこともよくあった。で、その道すがら、ふらりと大勝軒の前を通ったりしていた。すごい行列のラーメン屋さんだなぁという記憶がある。あと、どういうわけか、そこが大勝軒だということは分かっていた。それから、二度ほど、並ぶのが嫌で、3時頃に食べに行ってふられたことがある。興味はあったのだろう。
大学三年生が終わり、ドイツ留学に向けて飛び立とうとしたとき、大量のチキンラーメンを持っていったのを覚えている。やはりラーメンといえば「チキンラーメン」だったのだ。
ところが、ドイツで韓国の友人に「辛」というインスタントラーメンをもらう。この「辛」というラーメンに、韓国のりを入れたのを友人に食べさせてもらった。このときに再び衝撃が走った。「なんだ?!この太い麺は!?なんだこの激辛ラーメンは!?」、と。それから、ドイツにいるのに、この辛ラーメンばかりを狂ったように食べた。インスタントでここまで極太のラーメンというのは見たことがなかった。また、ドイツのスーパーでNISSINのRAMENを買うことができたので、よく買って食べていた。
僕の人生(ラーメンライフ)のターニングポイントは、ドイツ留学から戻ってきた年、1999年だった。ふと父親に誘われて、あるラーメン屋さんに連れていってもらった。そこのラーメンを初めて食べたとき、正直なところ、活力ラーメンほどの衝撃があったわけではなかった。だが、なんとなくじんわりと「旨いなぁ」と感じていた。それとなく「うまいなぁ」と思ったわけだ。
そして、しばらくしてまた父親にそのラーメン屋さんに連れていってもらった。その二回目の時、「なんじゃ、こりゃ。めちゃめちゃ旨いじゃんか!?!?」、と絶句した。甘みと旨味とパンチが効いていて、完全に中毒になってしまった。週に二回は普通に通っていたような気がする。
そのお店こそ、総豊@蘇我であった。このブログでも相当紹介しているお店の一つだ。大学四年生の時は、まさに総豊一色だったと言っても過言じゃない。
それから、ちらりほらりと他のラーメン屋さんも食べ始めた。だが、総豊に匹敵するラーメン屋さんは全く見つからなかった(っていうか、見えてなかった)。
その後、「夢」の大学院に進学し、都内で勉強することになる。そこで、また人生を揺るがす「素敵なラーメン屋さん」と出会うことになる。それが、元祖一条流がんこ十二代目@本郷三丁目だった。ここのラーメンは、完全にはまった。学校帰りにはほとんど必ずと言っていいほどに通った。お店のおじちゃんに、「お兄ちゃん、そんなに毎日うちのラーメン食べてたら、身体壊すよ」、と言われたほどだった。「うちのラーメン、塩分強いからね~」。いわゆるラーメン屋のおじちゃんの魅力に惹かれたのも、ここだった。がんこ十二代目が、ラーメン屋さんの魅力を教えてくれた。
その後、大学院の先輩に大喜@湯島に連れて行ってもらったり、友人と中村屋@高座渋谷、開店したばかりの能登山@藤沢に行ったり、銀座のヤンヤンや共楽に行ったりしているうちに、どんどんラーメンにのめりこんでいった。2000年開業の頑者@川越もチェックしている。石神本と出会ったのもこの頃だった。2001年の「21世紀ラーメン伝説」というタイトルだった。2002年には麺屋武蔵@新宿に行って2時間ほど待ったのを覚えている。
2002年、ただのラーメン好きの僕は「ラーメンコレクター」になった。もちろん99年から狂ったようにラーメンを食べていたが、その頃は普通の「ラーメンリピーター」だった。そして、2002年の暮れ、和屋@千葉寺のつけ麺を食べ、ここを超えるつけ麺があったら食べてみたい!と思い、ただただ食べ歩くことになった。
そんなこんなで、ラーメンにのめり込んだkeiでありました。
おしまい♪