Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

「見る仕事」と「見られる仕事」


僕は、教員養成や保育士養成にかかわっている。

通常の大学教員ならば、学生の服装や態度について
いちいち何かを言うことはないが、
教員養成や保育士養成、あるいは実習に関わると、
色々と学生たちに「指導」しなければいけなくなる。

例えば、「茶髪」。

茶髪で保育園や幼稚園や小学校、乳児院や養護施設に
実習に行こうとする学生をどう考えるか。
(これは、本当に頭を悩ませる問題なのだ)

(僕がかかわる)実習先は本当に多種多様だ。
学校や幼稚園や保育園だけじゃない。
知的障害児施設や母子生活支援施設、
知的障害者更生施設や授産施設・・・

その数は100以上だ。

そうすると、その中で学校に厳しく指導を求めてくる施設もある。
「あなたのところの学生さんはいったい何なのですか?」、と。
「いったいどんな指導をされているのでしょうか?」、と。

「茶髪」というのは、教育や福祉の現場では実に評判が悪い。
茶髪の学生が失敗するのと、地毛の学生が失敗するのとでは、
その後の評価もかなり変わってくる。

では、どうして茶髪はダメなんだろうか。
なぜ「教育や福祉の世界」では、茶髪はNGなのだろうか。
(中には、金髪・茶髪の施設なんかもあるけど・・・
そういう施設には、自分の子どもを預けたくないよなぁ・・・)

変な常識を振りかざさないで、深く考えてみると、
その理由は、仕事の根源に関わることであった。

それは、教育や福祉が、「見られる仕事」じゃなくて、
「見る仕事」であるからだ。(と、僕は考えた)

例えば、芸能界やロック界。
僕なんかもV系時代に髪を結構キレイに染めて、
長髪にして、ムースやスプレーで色々細工をしていた。

芸能界やロック界の仕事というのは、
「見る仕事」じゃなくて、「見られる仕事」である。
人に見てもらってお金を稼ぐ仕事である。

だから、必然的に見た目がどんどん派手になっていく。
見た目やルックスで人をひきつけて、
そして、その人からお金をもらって、生きていくのである。

キャバクラの女性たちがとんでもなく派手にしているのも
同じ理由であろう。お客さんに指名されるために(見てもらえるために)
とんでもなく髪型や匂いやメイクや爪などにこだわるのである。
(すべて、人に見てもらうための懸命な努力なのである)

けれど、教育や福祉の世界は、
見られることを仕事にしているわけではない。
当然、子どもや利用者の方に見られはする。
けれど、見られるために仕事をしているわけではない。
(子どもに見てもらいたいなら、ウルトラマンになればいい)

教育や福祉の仕事は、人を見る仕事である。
あるいは、見られる人を後ろで見る仕事と言ってもいい。
子どもや利用者たちをしっかり見て、
声をかけて、愛情をもって、まなざしを与える仕事である。
そして、子どもや利用者たちが安全に生き生きと生きられる場を
提供することが、この世界の仕事だ。

先の芸能界やロック界の話で言えば、
舞台監督、大道具、小道具、PA、スタイリストなどなど・・・
そういう「表の裏」の仕事に近いのだ。

「どうやってその人を輝かせるか」?
これが大事であって、自分が輝く必要はない。

だから、舞台監督や大道具さんたちが
芸能人やアーチストよりど派手であることはほとんどないのだ。
彼らの仕事は、作る仕事であって、見られる仕事ではない。
(化粧や髪型にこだわるくらいなら頭・体を人のために動かせ!ということだ)

逆に、芸能人やミュージシャンは、
見てくれる人のために「被写体」としての自分にメスを入れていく。
体を張って、見られる仕事をしているのである。
したくなくても、見られるために自分を変えていかなければならないのだ。
茶髪にしたくなくても、どキツイメイクをしたくなくても、
しなければ、見てもらえない。せざるを得ないのだ。
(万人に一人の絶世の美男子や美女はそれだけで見られるが、
そういう人は稀であるし、そのまま老いれば後に捨てられる)

ここまで考えれば、茶髪問題も一つの帰結が見えてくる。

茶髪というのは、他人に自分を見てもらうためのものであり、
自分が他人を見るためには、何の意味もない、ということだ。

だから、僕はよく「茶髪にする時間があるなら、
本を読んだり、ボランティアをしたりして、自分を磨け」
と言うのだ。

それから、教育や福祉の世界に限らないが、
「見た目で茶髪にするよりも、心を茶髪にせよ!」、と。
(中身をギラギラさせよ!、と)

見る仕事は、一見地味だけど、ものすごく集中する必要がある。

医者は、患者を見て、あらゆる可能性を想定しながら、
患者とのやり取りの中で、その患者の状態を特定しなければならない。
(看護師もしかりであろう)

スポーツの監督やコーチは、選手の状態をじっくりと見ながら、
何をどうしたらいいのかを見抜き、そして指導していかなければならない。

スタイリストたちは、芸能人やアーチストのポイントを見抜き、
それが最大限に生かされるような見た目を作っていかなければならない。

人とかかわる仕事とはそういうものである。
人をよく見て、その人の本質を見抜いて、何らかのことを施す。
そういう仕事の中では、茶髪は何の意味ももたない。
(自己顕示欲の強い医者や監督などは別だが・・・)

教師や保育士というのも、同じように見ることが仕事だ。
ただ、若い学生たちはそれを誤解しているか、
理解していないだけなのだ。

茶髪がダメなのではなく、茶髪にしようとする心構えがダメなのだ。
そこを捉え間違えると、「茶髪の自由を認めよ」という
わけのわからない「人権運動」に発展してしまうだろう。

見られる仕事じゃなくて、見る仕事。
聴かれる仕事じゃなくて、聴く仕事。
この部分はしっかりと明確にしておきたいな。

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