泥まみれの教員人生も20周年が終わります。
20年目の教員人生が終わるんだ…
2004年4月に、念願で悲願だった「先生」になって、あれから20年。
それはそれは、本当に色んなことがあった20年でした。
これを語るときりがないので、ここではあまり語りませんが…。
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20年目となる今年度が終わりますが…
この20年目は、これまでにないくらいに過酷な1年になりました。
神様っていないんだな…って思うほどに…(苦笑)
色んな意味で、過酷過ぎた1年で、もう疲れました。
色んな意味で、「もう、いいよな…」って思うに至りました。
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はるか昔、尊敬する先生に教えてもらった言葉があります。
『波に揉まれてなお沈まず』
僕が大学1年生の頃に、教えてもらった言葉です。
この言葉、実はオリジナルの言葉(訳語)があったんですね。
それが、、、
たゆたえども沈まず
Fluctuat nec mergitur
という言葉でした。
パリ市の紋章に刻まれている言葉なんですって。
フランスで愛されているラテン語の言葉。
ドイツ語に訳すと、「Sie schwankt, aber geht nicht unter.」となります。なるほどー。
英語だと、「Tossed but not sunk」になるのかな??
ホント、この言葉をずっと20年間、噛みしめて、「先生」をやってきました。
ガチで、本気で、いつでも全身全霊でやってきたと思っています。
どれだけ揺さぶられても、沈まずに、妥協せずにやるぞ、と。
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ですが、そんな先生をやるのも「限界」を感じる一年でした。
世の中がものすごく変わって、僕みたいな荒々しい先生は、すっかり「厄介者」になってしまいました。(まさに先日まで放送されていた『不適切にもほどがある』みたいな感じで…)
僕はずっと、20年、「普通にしゃべるように、普通の日常的な言葉で語る」ということを重視して、講義やゼミをしてきました。できるだけ砕けた言葉で、できるだけ若者たちの耳に届くように、って。(ふざけた話はふざけた感じで、怒る時はガチで怒る感じで…)
でも、それは、諸刃の剣でもありました。
一方で、「すごく聴きやすい」「分かりやすい」「頭に入ってくる」と言われますが、他方で、「馴れ馴れしい」「バカにしてる」「傷ついた」「腹が立った」と言われるんですね。
それでも、昔は、「まぁ、kei先生だから仕方ないか」っていう感じで、諦めてもらえていました。が、今の時代は、もう何もかもが違います。
「○○先生が、××と言った」「○○先生の××という発言に傷ついた」「××と話した○○先生が怖い」みたいなクレーム?(あるいは嘆願)がそのままダイレクトに、学内に広まるんです。
(僕はまだされていないと思いたいですが)先生に呼び出されて、研究室に入る時に、スマホで会話を録音している人もいるんだとか…(恐ろし過ぎる…💦)
今の時代、「コンプライアンス順守」「法令順守」「ハラスメント撲滅」「不適切発言の根絶」がものすごい威力をもって、社会全体に広がっています。学校だけじゃないです。どこもかしこも、「絶対に容認しない」という強い意志?信念?教義?の下で、その根絶や撲滅に取り組んでいます。言葉狩りを超えた何か恐ろしいものを感じるほどに。
この数年で、本当に時代が、空気が、世界の在り様が変わったなって思います。
狂気的な、神経症的な、不寛容な社会、不寛容な時代。
変わるのはいいけど、あまりにも極端に変わってる気がして、、、
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僕は、20年前から、どこかで「型破りな先生にならなきゃ!」って思って、先生をやってきました。
憧れている先生は、だいたいドラマや映画の主人公たちですし、ドラマチックな先生になって、ドラマチックな教育活動をしたい、という衝動でやってきました。
学生たちをドイツ語圏に連れていって、そこを駆け抜ける!っていうのも、ドラマチックな教育活動=正義だと思っていたからできたことでありました。
私語があれば、「うるせー!」と大声で言ってきたし、寝ている学生がいれば、「このやろー、起きやがれ!」って叫ぶし、教室全体が陰鬱としていたら、わけのわからない話をして、爆笑させるために全知能を駆使したりもしました。自虐的な無駄話(うんち漏らし事件とか、激辛チャーハン失神事件とか)も(恥じらいを捨てて)しゃべってきました。
でも、そういう自由奔放な先生は、「悪い先生」「不適切な先生」「ヤバい先生」と認知されていくようになり、また、「有害な先生」と思われるようになっていきました。
それに抗おうと思っても、時代的な空気や雰囲気もあって、厳し過ぎる…、きつすぎる…と思った1年でした。
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それでも、「たゆたえども沈まず」の精神で、妥協すべきところは妥協して、死守すべきところは死守して、21年目も頑張ってやっていこう…、とは思っていたんですけど、、、
この数か月で、なんか、ぷつんと糸が切れた感じになりました。
「もう、頑張らなくても、いいかな…」
って、僕の中の内なる言葉が聴こえてきたんです。
「keiよ、お前は20年間、腐らず、諦めずに、よく頑張ったよ。ドイツにだって100人近い学生を連れて行ったじゃないか。実習指導だって、夜も寝ないで頑張ったじゃないか。土日だって、自分のプライドを捨てて、頭を下げ続けたじゃないか。ものすごく忙しいのに、本や論文だって、休日や真夜中にいっぱい書いたじゃないか。学生のために、いったいいくらのお金を使ったんだ? いったい何人の学生にラーメンを驕った? もう、いいじゃないか。20年頑張ったんだ。もう、ここで、20年前の「こだわり」を一度捨ててみたらどうだ?!」
って。
この内なる声を聴いて、心の奥底から「もう、いいかな…」って思えました。
プロのアスリートだって、20年間頑張ったら、「引退」するし、「コーチ」や「監督」になっていくし、「現役選手」って、20年くらいが限界なんですよね。
僕は「現役教師」にこだわってきましたが、20年、それを続けて、それに「限界」を感じてきています。
「研究者」としてはまだまだ未熟でこれからですが、「先生」としては、もうそろそろ「現役引退」でいいのかなって。もちろん、お仕事としては続けていけるだけ続けていきたいですが、これまでみたいな「型破りティーチャー」は、すごくしんどいし、疲れるし、波風立ちまくるし、辛いなぁ…って。
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教育っていう仕事は今、「無難に」「波風立てず」「深く追わず語らず」なんですね。
うわべだけでいいんです。表面的でいい。すべきことを淡々とするだけでいい。
生徒や学生のことを思って叱る、なんて、やったら即アウト。
心のどこかでは、「そんなアホな…」って思いますが、そうなんだから仕方ない。
だから、「先生になりたい!」っていう若者や子どもたちももうどこにもいません。
安定した仕事に就きたいなら、先生じゃなくて、公務員が一番だ、と聴きました。
そして、夢と希望に燃える若者たちは、「先生だけにはならない」とも聴きました。
(そういう状況を作ったのは、若者じゃなくて、大人たちであります)
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だから、一度、沈んじゃおうかなって…。
沈んで、一度、海の底にまで堕ちてもいいのかな…って。
ぶっちゃけ、先生って、頑張っても頑張らなくて、成果を出しても出さなくても、生徒や学生たちとガチで向き合っても向き合わなくても、もらえるもの(💰)って変わらないんですよね。むしろ、頑張れば頑張るほど、こっちの立場が危うくなるんです。
それでも、ずっと「若者たちのためになるなら!」「嫌われ者・憎まれ役にもなってやろう」ってやってきたんです。
が、そのこだわりも今は、もう邪魔で弊害でしかないっていうね💦
ってことで、21年目は、何も考えず、熱くもならず、余計なこともいわず、静かに、何も考えないで、「普通のお仕事」と割り切って、頑張らないで、やっていきたいと思います。
これ、ネガティブじゃないんですよ。
むしろ、ポジティブモード✨
お仕事としてやらなきゃいけないこと以外、やらないってことだから。(社会がそれを求めているのだから、仕方ない。われわれは、世界内存在ですからね)
その分のエネルギーを、別の何かのために費やしたいなぁって思っているんです。注ぐべきエネルギーを、全体に向けるのではなく、個々に向けるという意味でもあります。
この数年で学んだのは、「不平不満をいう人やあれやこれやと訴える人は一定数いて、そういう人とは深い関係にはならない」という当たり前の原則でした。そういう学生のことまで考えるのはやめる、ということです。そして、意欲のある、元気のある学生たちともっともっと色んなことをやりたいなって思います。
もう、そんなに長くない人生、その人生の秋。
自分のために、そして自分と共に学びたい学生たちのために、それなりに頑張ります\(^o^)/
僕的には、もっともっと海外に飛びたいな。
せっかくコロナも終わったわけですからね~。
人生も、仕事も、プライベートも楽しまなきゃ、ね💓
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【追記】
この記事を書いていて、一つ気づいたことがあります。
それは、「私語している学生」や「寝ている学生」が問題ではない、ということです。
これまでは、「真面目に講義を受けている学生」を配慮するために、「私語」や「居眠り」を厳しく注意してきたんですけど、その「真面目に講義を受けている学生」の中に、極度に神経質な学生や過敏な学生や不快を感じやすい学生がいて、そういう学生が(僕にとって)大問題なんだ、と気づきました。
で、実際のところ、私語している学生や居眠りしている学生と僕との相性って、そんなに悪くなくて(苦笑)。しかも、そういう学生自体、僕に厳しく言われても、なんとも思ってなくて…。
となると、「私語している学生」や「寝ている学生」を厳しく怒らないということが、僕自身のストレスを消すための道なんだって気づいたんです。
他方で、「配慮されている学生」の方こそが、実はすごくやっかいで、扱いを注意しなければいけないんですね。このことを、今回書いていて、はっと気づかされました。言い方はあれですけど、「守ってあげていると思っていた学生が、実は最も攻撃的なんだ」、ということかな、と。この点、ホントしっかり自覚しないといけないなぁ…💦