近年、人間の尊厳は、法哲学においても、新たなキー概念となっており、公刊された本の数という点でも、正義の概念をはるかに凌いでいる。それには、もろもろの理由がある。時として、「公正な社会はそれ自体は、正義概念に対するわれわれの相違に直面して、そもそも現実的な目的となり得るのかどうか」、「こうした状況下で人はすべての人間の尊厳を、共同生活の(控えめな)最低条件として、関心の中心に動かすべきではないかどうか」という懐疑がその背後にある。
さらには、「物質的な財をうまく公平に配分することが、(もしそれが可能だとしたら)われわれの共同生活の根源的な前提をそもそも十分に満たせるのかどうか」という疑いもある。「まだ何か更なるもの、まさに他者の尊重、他者の尊厳の承認はさらに付け加える必要はないのだろうか」、と問われているのである。
さらに、とりわけ人権についての議論は、人権のための論証的な基盤を求めさせた。その基盤は人間の尊厳の中に見出すことができる、と多くの人が信じている。
ドイツ基本法は、人間の尊厳と人権のふさわしいそれぞれの連関から出発している。「人間の尊厳は、不可侵である。…ドイツ国民は、それゆえに、侵すことのできない、かつ譲り渡すことのできない人権を…認める」(ドイツ基本法第一条(1)と(2))。
ついには、近年、生命倫理学(Bioethik)が、「そもそも人間(Person)とは誰であり、それと共に、誰が権利の主体であり得るのか(初期の胎児はどうなのか?)」という問いでもって、尊厳の問題に極めて具体的で新たな現実性を与えている。