仙台貨物のDVDを見ていて、気付いたことがあった。これは、Visual系を考える上で非常に重要なパースペクティブをもたらしてくれると思う。
その気付いたこととは、「Visual系はそもそも相容れない二つの側面をもっており、それが互いにぶつかり合うことで、独自の変化を遂げている」、ということだ。これはあくまでもkeiの仮説に過ぎないが、かなりの妥当性を有しているように思う。
「Visual系」は、そもそもの起源があいまいであり、そのカテゴリーそのものが非常に流動的である。ただ、そうはいっても、広くカテゴライズすることはできる。最も大きなカテゴリーは、「華やかさ(比喩:白)」と、「ダークネス(比喩:黒)」だ。光と影と置き換えても良い。華やかではじけた仙台貨物とダークなナイトメアの対比は、この二つのカテゴリーに対置させることができる。かつてのラルクと黒夢も、非常に対照的で、まさに白いバンドと黒いバンドだった。hydeの衣装は白がメインだった。清春は黒一筋だった(バンド名も黒だし・・・)。ルナシーも黒服限定GIGというのをインディーズの頃に行っている。「黒服系」という言葉も一時流布した。また、ベーゼやラルクや賛美歌など、白を基調に置いたV系アーチストも多くいた。最近で言えば、シドやアンカフェやメロは白系ヴィジュアルの王道と言えるだろう。シドとガゼット、双方が奏でる音はまったくもって別ジャンルの音楽と言っていいだろう。また、アンカフェとディルアングレイが同じジャンルにくくることに心から同意できる人はいないだろう(ただ音だけを聞かせた場合)。
華やかさとダークネス/白と黒という比喩を用いずに言えば、美と醜、生と死、POPとUNDERGROUND、女性と男性、そういった二項対立の比喩を上げることができる。女性らしさ(=女性美)をどこまでも追及するヴィジュアル系バンドもいれば、男臭さをどこまでも追求するヴィジュアル系バンドもいる。
こうした二項対立は、「Visual系」という概念が登場する90年代初頭以前、つまり80年代後半に、すでに生じていた。東のX、西のCOLORという二軸だ。エクスタシー系とフリーウィル系という二つの柱がすでに存在していた。どちらも激しいロックがベースになっているが、奏でるサウンドは全く別のものであった。一方は「過激」をウリにして、マイナー調の歌を歌い、人間の内的な激しい葛藤を表現していた。他方も「過激」(「激突」?)をウリにしつつも、メジャーコードメインで、ポップでシニカルな歌を歌い、スタイリッシュかつパンキッシュなサウンドをウリにしていた。どちらかというと「軽め」の歌が多かった。その後、XとCOLORの弟子たちは、それぞれの特徴を生かしながら、二大勢力を拡大していった。こうした背景があって、一方に「ダークさ」、他方に「華やかさ」という二項対立が生まれ、90年代のV系が誕生することになる。
また、上述した二つの側面は、同一人物に確認することもできる。例えば、yoshikiは、見た目的には女性的だが、バンド内ではとことん体育会系であった。瀧川一郎も、見た目の美しさとヤンキー魂が共存していた。sugizoもやはり華やかさとダークさを合わせもっていた。マリスミゼルは、まさに美と醜を突き詰めた究極のV系バンドであった。また、ちょっと古いがBY-SEXUALも、フェミニンの香りとヤンキー節が共存していた。
今日、ネオ・ヴィジュアル系ムーブメントが生じており、90年代以上の盛り上がりを見せつつあるが、その背景には、こうしたヴィジュアル系内部の二つの側面の激しいぶつかり合いがあるように思われるのだ。それを見事に体現しているのが、ナイトメア/仙台貨物という「二毛作バンド」だ。ナイトメアという黒色サイドと、仙台貨物という白色サイド。この二つの側面こそ、V系文化が衰退することなく、文化として伝承された理由ではないだろうか。もしどちらか一方でしか存在していないとすれば、きっとかつての「GSブーム」のように一過性のムーブメントで終わっていただろう。だが、ヴィジュアル系は衰退しなかった。それにはロジカルな問題が含まれていて、れっきとした理由があったのだ。
V系の歴史の背後には、クロスカルチュアルな「雑種性」がある。イギリスのニューロマンティック-ポジパン、欧州のゴシックメタル、アメリカのハードロック、日本のBOOWYカルチャー、80年代のジャパメタブームとX Japanの和風ヘビーメタル、こうした背景があって、自然発生的に生まれてきた。だが、それに留まらず、V系は、極めて哲学的なテーマを自ら獲得し、独自の発展形態を保持してきた。その根本には、すでに上述した「白」と「黒」、「光」と「影」が互いに拮抗しあう「振り子運動」があったのだ。世の中が白に偏れば、黒によって軌道修正され、黒が支持されれば、白が反逆にでる。そういう振り子運動がV系の内それ自体に存在していたのだった。
こうした振り子運動は、海外のメディアにおいても確認することができる。海外でのVisual-keiも、やはり二つの側面から語られている。一方では、ニューゴシック系ロックとして語られ、他方では、Anime/MangaのJ-カルチャーとして語られている。欧米のゴシック雑誌では、ディルアングレイ、ムック、Despair's Ray、mana、ex-蜉蝣、最近ではギルガメッシュやプラスティックトゥリーなどが連日取り上げられている。また、後者のAnime/Manga文化では、サイコルシェイム、宇宙船隊Noiz、雅、ex-アニメタル、アンカフェなどが注目されている。どちらも「コスプレ」と連動するものであるが、音楽スタイル、表現される内容、アーチストとしての精神性は全く別のものである。この両者が互いにぶつかり合うことで、J-ROCK、Visual-keiという一つのムーブメントが動いているのである。
この振り子運動こそ、多くのリスナーの心を捉え、飽きさせることなく、新たな音楽スタイルを自ら実現してきたのはないだろうか。これをここでは「V系の振り子理論」と名付けておこう。この理論は、すでに最初に述べたように、「Visual系はそもそも相容れない二つの側面をもっており、それが互いにぶつかり合うことで、独自の変化を遂げている」、というものだ。
V系は、一つの運動体であって、音楽のカテゴリーではない、そう提言して、この記事を終わりにしたい。
*こういう趣旨でV系論を構築しても面白そうだな。。。