Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

お父さん、ありがとう。そして、さようなら。

今日、我が父が天国に旅立っていきました。

享年75歳。

6月5日午前10時20分頃、静かに息を引き取り、

その後、お通夜、告別式を行いました。

今は、そっとお父さんとの別れに悲しみを感じています。

***

このブログを始めた当初、まだ祖父母が三人生きていました。

その後、父方の祖母が亡くなり、2011年に母方の祖父母が共に亡くなりました

それから8年で、父に旅立たれることになるとは…。

75歳と言えば、今の時代、まだまだこれからの年齢です。

75歳まで生きられたんだと思いたいですが、やっぱり早すぎます。

昨年の5月頃に、突然食べることができなくなり、異変を察しました。

病院の診察の結果、「食道がん」が見つかり、その時点で「ステージ4」でした。

手術をすることも可能ではありましたが、父の体力や体の状態を考え、手術は断念しました。

(僕と違って、とにかく細い体で、かつて胃を半分切り取っており、手術も難しいものでした)

手術をすれば、がんは摘出できる。でも、そのリスクもとても高い。

お父さんは、「手術はしたくない」と言いました。

僕ら家族は、それを受け入れました。

この時、医師からは「体を動かして、体力をつけるように」と指摘されました。

しかし、お父さんは、数年前からほとんど静かに寝て過ごす日々を送っており、がん発見後も、同じような生活を続けていました。

その後、放射線治療と抗がん剤治療を開始しました。

放射線治療と抗がん剤のおかげで、がんは小さくなり、再び食べられるようになりました。

昨年12月には、家族みんなで(結果的に外食最後となる)『梅の花』に行き、お父さんもそこでコース料理を食べました。ほぼ全て食べることができました。

今年1月に入り、再び食べられなくなり、緊急入院。

これまで効いていた抗がん剤の効力が弱まり、再びがん細胞が大きくなった、と知らされました。

残る選択肢は、三つの新たな抗がん剤での治療でした。

もう、この時点での「手術」は不可能で、放射線治療ももう不可能で、残る三つの抗がん剤にすがるしかありませんでした。

その中で最もその時点でのお父さんに適したものを医師と家族で選択し、その抗がん剤での治療を始めました。

平成最後の4月までは、たいして副作用も出ず、順調でした。がんも大きくはなっていませんでした。

しかし、がん発覚後から、お父さんの体力はどんどんなくなっていっていました。

ほぼ寝たきりの生活、「運動しよう!」と呼びかけても「いい(結構だ)」の一点張り。

僕ら家族も、お父さんの体力の低下を心配しつつも、無理に体を動かせるのもどうかと悩みました。

2年前くらいに、「仙人の境地に近い」と話していた父。

どこかで「死」を覚悟していたのかもしれません。(でも、同時に、「寝ていれば治るだろう」という考えももっていたようにも思います。その真相は最後まで分かりませんでしたが…)

ゴールデンウィークの頃は、まだお父さんは家の中を歩くことが(ギリギリ)でき、話をすることもなんとかできました。今年に入り、徐々に発声・発語に障害っぽいものが出てくるようになり、聴きにくくはなっていましたが、それでも、しっかりと言葉で人に何かを伝えることはできました。この時点では、まだお父さんの「死」を誰も予想していませんでした。

ゴールデンウィーク明けに、5月の抗がん剤治療を行いました。この投薬の副作用が、その後、どーんと出てきました。肺の機能がどんどん衰退していき、足の筋力も限界にまでなくなっていき、一人で起き上がることも、立ち上がることもできなくなっていきました。

5月の中旬、15日に、自立生活の限界が訪れました。自宅で父が転倒し、母の手を借りても起き上がることができなくなりました。すぐに僕のところに電話があったのですが、仕事の都合で自宅に戻ることができず、とりあえずかかりつけの病院に救急車で運んでもらうことにしました。15日が、お父さんにとっての最後の「我が家」となりました。

それ以降、父の容体はみるみると悪化していきました。

肺機能がどんどん悪化し、酸素マスクを使用するようになりました。担当の医師とも話し合いをいっぱいしました。抗がん剤の治療はとりあえず中止、肺に水がたまっており、それを抜く必要がある、今後どうなるかは医師にも分からない、父の体力との戦い、最善を尽くす、と医師から伝えられました。

この1年、食道がんのため、何も食べることができませんでした。ゆえに、あごの筋肉が低下したのか、発語・発話に困難が生じていましたが、15日以降のお父さんは、もうまわりからすると「何を言っているかよく分からない」という状態に陥っていました。僕は、長年障害をもった人たちと関わってきていて、それなりに聞き取りにくい言葉でもなんとか分かることができるようになっていました。それでも、父の言っていることの多くが理解できないものでした。(それでも、他の人よりは理解できていたようで、お父さんに「おい、通訳しろ!」と言われたりもしました(;;))

あまりにも状態が悪いので、僕も、「もう長くないかも…」と思い、6月2日の日曜日、息子を連れて、病院に行きました。ほとんど朦朧としている状態でしたが、「孫」の顔を見ると、ふわっと表情が柔らかくなって、二コリとしました(できました)。息子が、「じいじ、大丈夫?」とたどたどしく尋ねると、お父さんは、息子の顔を見て、「だい、じょう、ぶ」、とみんなに分かる声で伝えてくれました。この時のこの「だい、じょう、ぶ」が、僕にとっても最後のお父さんの言葉でした。この時のお父さんの目は、しっかりと見開いていて、綺麗な目をしていました。意識のはっきりとした父の目を見るのも、この時が最後となりました。

翌3日の月曜日も、夕方までは、意識もある程度しっかりしていて、問題という問題はありませんでした。母が(いつものように)見舞いに行き、たわいもない話もぽつぽつしたそうです。

しかし、この日の夕方過ぎ、異変が起こりました。母から電話が入り、「今、病院から電話があって、お父さんの容体がおかしい。すぐに来てほしい」、と言われました。心臓がドキッとしました。

タクシーでお父さんのいる病院にかけつけると、酸素マスクをつけ、苦しそうに呼吸するお父さんの姿がありました。目はもう開いておらず、目をつぶったまま、苦しそうにしているお父さんがいました。意識ももはやあるのかどうかも分からない状態でした。(担当ではない)医師から、「今夜が山場です」と告げられました。家族全員、静かに、父の死を覚悟しました。目の前にいるお父さんに、何の「可能性」も感じないほどで、押しつぶされそうな感情に支配されました。

しかし、お父さんは3日の夜を乗り越えました。亡くなることなく、4日の朝を迎えました。でも、お父さんの身体は満身創痍です。血圧も50/30で、いつどうなってもおかしくない状態でした。うっすらと片目だけが開いていました。見えているのか、見えていないのか、それも分かりませんでした。看護師さんからは、「耳の機能は最後まで残る」と言われ、必死に声をかけ続けました。お父さんの脳(こころ)に、僕らの声が届いているのかどうか、分かりませんが、それでも、家族みんな、声をかけ続けました。

4日の夜になっても、お父さんの身体は生き続けました。この日の夜、お父さんがとてもかわいがっていた甥(僕のいとこ)の家族が西東京から駆けつけてくれました。親族の中でも、一番関係の深い家族でした。お父さんは何の反応もしませんでしたが、少しだけ顔の表情が変わったようにも見えました。

3日の夜が山場だと言われましたが、お父さんの身体は4日の夜もなんとか持ちこたえ、5日の朝も迎えることができました。

そして、午前10時20分頃、静かに、ひどく苦しむこともなく、息を引き取りました。

いわゆる「危篤状態」に陥ってから、1日半、お父さんの身体は必死に生きようとし、そして闘ってくれました。この1日半の時間が、僕ら家族にとっては、とても大切な時間となりました。お父さんの死を覚悟し、そして、それを受け入れるための大切な時間となりました。

***

お父さんとは、10代の頃には激しくぶつかりました。取っ組み合いのケンカもしました。

落ちこぼれ以下の僕のことで、お父さんは深く悩んでいたとも後で知りました。

国立大出身で寡黙で真面目なお父さんだったから、あの時の僕に対しては、相当がっかりしたと思います。

自分の子がまさかの「不登校」「高校進学せず」「バンドマンの夢を追う」ですからね。

でも、それでも、お父さんは僕を見捨てず、軽蔑もせず、普通に接してくれました。

お父さんから「落ちこぼれ」とか「クズ」とか「バカ」とか言われたことはありませんでした。

(思ってたかもしれないけど、、、(;´・ω・))

何も言わずに、そっと僕を見守っていてくれたんだと思います。

そして、僕は、その後「勉学」に目覚め、大学に進学しました。当時は「受験戦争」の時代で、どの大学であっても入るのが難しい時代でした。ましてや、僕は「不登校」で「高校普通科」にも進学しておらず、とてもじゃないけれど、大学に行くための最低限の知識もない「受験生」でした。でも、自分が行きたいと思う大学に、合格することができました。(まぐれか、奇跡か、それとも採点ミスか…汗)

その時も、父は感情を外には出しませんでしたが、入学式には喜んで来てくれました。僕が「闇から抜けた瞬間」でもあったと思います。

1998年にドイツに留学する時も、お父さんは(母と一緒に)空港まで来てくれて、送り届けてくれましたし、またその年の夏(9月)には、両親そろって、ドイツにやって来てくれました。あれは嬉しかったなぁ…。お父さんとお母さんに、少しだけ「親孝行」ができたのでは?、と初めて思えた瞬間でした。

20代を過ぎ、大学院を経て、現職に就いてからの僕とお父さんの関係は、気持ち悪いほどに良好でした。「雨降って地固まる」ではないですが、「大嫌いな父親」から「人生の良き先輩・師」に変わっていきました。

お父さんは、僕とは完全に真逆なタイプの人間でした。静かで、寡黙で、思慮深く、目立たず、どこまで献身的で、そして、とても細い人でした(苦笑)。10代の頃は、「なんだ、こいつは!?」と思ったりもしましたが(ごめんなさい)、僕自身が成長していく中で、徐々に(ゆっくりと)「すごい人」「稀有な人」になっていきました。

関係が変わるきっかけとなったのが、このブログでもかつていっぱいレポを上げた「ちゃんこラーメン総豊」でした。総豊の市川さんとお父さんが(どういう経緯でかは不明ですが)仲良しで、この市川さんのラーメンを通じて、「新たな父子関係」に入ったことを強く覚えています。お父さんは、90年代頃から、実は色々なところでラーメンの食べ歩きをしていたようで、96年に創業したちまち超人気店になった「麺屋武蔵」にも既に行っていました。もともと「味にうるさい人」で、「料理教室」にも通うほどで、ラーメンに対してもとてもうるさい人でした。僕が連れていくお店も、「うーん、…」と言うばかり…。僕が見つけたお店で、初めて認めてくれたのが「らーめん和屋」(千葉寺)でした。和屋の伊藤さんと総豊の市川さんが同じ学校の先輩と後輩ということもあり、伊藤さんとも家族ぐるみでお付き合いさせて頂きました。お父さんも和屋のラーメンのことは、しっかりと認めていました。また、土気の「樹幸」も、お父さんが大好きなお店でした。大網の「みたけ」にも、かつて一緒に行列に並んで、「おいしいね」と言って食べました。

ラーメンを通じて、親子関係が再構築されることもあるんだ、と驚いた自分もいました。それ以降、1999年以降は、お父さんとラーメンを食べに行くのが楽しみになりました。2004年に教員養成系の大学教員になり、「(幼稚園や保育園や施設の)実習巡回」も行うようになりました。車のない僕は、お父さんを誘惑して(!?)、巡回に付き合わせ、そして色んなラーメン店をめぐりました。昨年の3月の巡回期間まで、かれこれ13年以上、お父さんと巡回とラーメンめぐりの日々を過ごしました。(今思うと凄いな、、、)

このブログで紹介する千葉県内各地のラーメン店の記事の多くが、(らんちばさんとのツアーを除くと)ほぼお父さんとの食べ歩きによるものでした。お父さんと一緒に行ったお店の数は、もう数えきれないほど…。

なので、2004年から2018年までは、(車の中で)かなりたくさんの話をしました。何の話をしていたのかは、ちょっとはっきりと覚えていませんが、政治、経済、社会、宗教、国際、科学など、多岐にわたる色んな話をしました。もともと「読書家」のお父さんだけに、僕の知らない話をいきなりふっかけてくることもしばしばでした。「おい、●●の「××」という本は読んだか?」、と。で、僕が読んでないと、「あげるから読め」、と一言…。記憶をたどると、かなり古い本だと、堀田力さんの『心の復活―ふれあい社会とボランティア』という本がありました。1997年に出版された本で、2000年頃に教えてもらった気がします。とにかく本が好きなお父さんで、そういえば小さい頃から、「図書館」に連れていってもらっていました。(それ以上に「山登り」が大好きだったのですが、そこはちょっと僕とは…(;´・ω・))

2016年~17年頃からは、日本の思想に強い関心を示すようになり、「無」や「無我」や「空」や「悟り」に関連する(あまり学術的ではないけど、真面目な)本を買い集めていました。今、僕の手元にあるのですが、、、。これらの本をお父さんがどれだけ読んだのかは分かりませんが、晩年の父の生き方から、これらの本の影響を感じ取ることができます。「仙人のような心境だ」と言ったお父さん。もしかしたら、もう「悟りの境地」に近いところまで達していたのかもしれません。(でも、そんなうまい話はなくて、先月の中旬以降、病院では、声にならない声で僕らに色々と話しかけていました。10日ほど前には「メロンが食べたい」と言っていたので、悟りの境地には達していなかったのかな?、と)

お父さんは、今日をもって、天に向かいました。

お別れです。

もう、あのお父さんと話すことは二度とできないんだなと思うと、切なくなります。

でも、「存在者」としてのお父さんは消えてなくなっても、「存在者の存在」としては生き続けます。

存在者(お父さんそれ自体)の身体は灰になっても、その存在は僕の中に留まっています。

存在者の存在を問うことのできる存在者(現存在)としての僕の中で、お父さんは存在し続けるんです。

存在者としては消えてなくなっても、その存在は、僕の中で生き続け、輝き続けるんです。

もちろん、僕が死ねば、お父さんも僕もなく、無に帰するだけでしょう。

僕自身が無になれば、お父さんの存在もまた無となるのでしょう。

でも、僕やお父さんの「存在」は、また残された誰かの中で「存在」し続けるのでしょう。

このブログで書き残しておけば、また誰かの中で「存在」することになり、、、

でも、その全ての人が亡くなってしまえば、また「無」に戻っていくんです…

僕の中で、今日、一つの「基準」ができました。

僕もまた、75歳くらいで死ぬんだろう、と。

とすると、僕の人生はあと残り31年。

そんなに長くは残されていません。

75歳を過ぎたら、父の寿命を超えたと喜びます。

でも、75歳まで生きられなければ、父に「ごめんなさい」と言います。

これからの僕の人生の一つの到達点は、「75歳」に設定されました。

75歳まではなんとか生きよう、という僕自身の「希望」でもあります。

ま、人生など、どこでどうなるかは「神のみぞ知る」、つまり人間は知り得ないんですけどね。

最後に、斎場で食べたお昼ご飯を、、、

豪華でした。。。

涙が出るほどに、、、

お父さんが好きそうなものばかり、、、

晩年のお父さんは「ラーメンより和食の方がいいなぁ」って言ってたっけ??

それでも、ギリギリまでラーメンツアーをしましたけどね、、、(;´・ω・)

お父さん、これまで43年と11カ月、本当にありがとうございました。

お父さんの「意思」「思想」は、僕と弟に引き継がれています。

これだけ息子二人にリスペクトされているというのも、凄いことだと思います。

僕としては、「憧れるけど、絶対に真似することのできない人」です。

これからも、僕らみんなを見守っていてください。

これからも、共に生きていきましょう。

お父さん、好き!!!

2011年に、祖母が亡くなった時に作った曲だけど、、、

今日一日、この曲がずっとリフレインしていました。

僕の最高のレクイエムです。

コメント一覧

KAZ
タイトルでもしかして、、と思いましたが
お悔やみを申し上げます。
涙してブログ拝見させて頂きました。
正直何て言っていいのかわかりません。
言葉が見つかりませんが
共に生きていきましょう。お父さん好き。は私も同じです。
定点観測者
謹んでお悔やみ申し上げます。

お父上との素晴らしい関係が、keiさんとご子息様の間でも引き継がれることを陰ながら祈念申し上げます。
中堅教師
はじめまして。
中学校で教師をしている30代です。
keiさんの今回のお話を見て、二年前に亡くなった父のことと重ねてしました。keiさんのように、もっと父と分かり合えれば良かったなぁと、今でも後悔しています。ただ、父と同じ教職の道をすすんだことで、とても喜んでいたと聞いたことがあります。そこだけが、今の私の誇りです。
この度は、ご愁傷様です。
これからも、keiさんのブログを楽しく拝見させていただきます。
Amamiya
ご愁傷様です。親を亡くす悲しみは、特に辛いですよね。私はKeiさんより大分上ですが、今年父の三十三回忌を迎えました。Keiさんは若い方々と接していられるので、是非若い方々にお伝えください。親孝行は、親が生きている内にしか出来ないと。
先生に生意気な事を言って申し訳ありません。
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