今日は第四土曜日。
というわけで、第四土曜日の会を行ないました。参加者は僕を含め7名。いい人数です。もう少し来てくれてもいいかなー、と思うけど、なかなか、ね。
今回の発表もいろいろでした。
「連絡ノート」、「おたより帳」を通じた母親と保育者(教諭)の関係性についての議論がありました。今回の発表で、こうした「ノート」を通じた親と保育者の関係性という視点は、僕の中では新しくて、「メディアの教育学」としても、結構意義深いものでした。どうしても、常識的に、母親との直接的接触を重視してしまうところがあるけど、こうしたノートやおたより帳による関係づくりも決して無視できないよなー、と。
泥遊びができない子どもができるようになる過程を丁寧に描写した発表もありました。これ、僕、すごい気に入りました。どうしても泥になじめない2歳の子と保育者の死闘(?)がすごい丁寧に描かれていて、実に興味深かった。泥=汚いものなんだけど、それがどうやって、どのような仕方で、どういうかかわりの中で、親しいものに変わっていったかがよく分かりました。が、いったいどの時点で、どんな仕方で、その子が泥を受け入れたのかについては議論があって、おおいにもめました☆
いちご農園に「ありがとう」を伝える手紙の作成をしているなかで、「おいしくなかった」と書いた男児の話もありました。いちごを食べていたときは、「おいしい」と感じていたはずなのに、次の日になって、手紙を書かせたら、「おいしくない」と書いた子がいたんです。この「おいしくない」発言について、かなり議論をしました。子どもは本心で言ったのか、そうでないのか。本心でないとするなら、なぜ「おいしくない」と書いたのか。「~ない」という否定形の文章を書きたかったのか。その日、行事がつまっていたので、それに嫌気がさして、その嫌気を表すために、「おいしくない」と書いたのか。いったいこの「おいしくない」とはいったい何なのか。何を伝えようとしているのか。・・・
昼食で好き嫌いの激しい子。かぼちゃを全く食べようとしない子への働きかけの報告もありました。食育の観点で出発しましたが、話はどんどん拡散していきました。飲食関係の両親ということもあって、普段から味の濃いものに慣れてしまっているようです。また、バナナもその日のメニューにあったのですが、そのバナナに目がいってしまい、かぼちゃを回避したようにも見えました。子どもの好き嫌いにどう向き合うか、というのは、かなり普遍的なテーマだと思います。昔なら、一発ひっぱたいて食べさせていたと思いますが、今はなかなかそんなことはできません。かといって、主体的に自ら食べさせることは至難の業です。さあ、どうしたらよいのか、、、ということで、議論を重ねました。
最後は、ほのぼのした母親の成長記録でした。これは、あえて議論することなく、母親の成長の可能性を感じて、ほっこり報告を聴き合いました。
今回は以上の5つの発表と、僕のお話で終わりました。今回もなかなか濃い3時間でした。だいたい3時間がベストかな。僕的にも、たいへん勉強になる一日でした。
議論の内容は、ここでは伏せておきますね。来た人しか味わえない味がありますんでね(苦笑)。
子ども、親、教諭、保育士、それぞれの視点があり、それぞれに思いがあります。それがうまくマッチすればいいのですが、そう簡単にマッチングはしません。対立したり、葛藤したり、うまくいかなかったり・・・ その中で、いかに丁寧に深く愛情をもってかかわっていくか。それに尽きると思うんですよね。他者を育てたり、教えたり、ケアしたりというのは、理屈抜きで、難しい。決まった方法や理論があるわけじゃないし、その場の状況や環境で、あらゆる帰結が違ってくる、それが「現場」の恐さであり、また魅力なんだと思います。
でも、だからといって、何の理論も視点もないところで、いわば「やっつけ仕事」的に実践しても、何の進歩も発展も成長も変化も展開もありません。具体的に何をどう考えたらよいのかは、きちんと議論を重ねることで、少しは見えてきます。そこに、僕は期待しているんです。
来月はいったいどんな報告があるんでしょうかね。楽しみです。
なお、来月は5月28日(土)、15時00分~です。
時間帯が少し早くなるのでご注意を。
で、終わったら、稲毛のバーデンバーデンに行きます。
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以下、僕の話。
【事例】の描き方
●現在の教員・保育士への教育・研修の多くは、「何をすべきか」「どういう方法でやればよいか」「新たな方法として、~をしたらよい」といったことを学ぶ場所になっていないだろうか。外部の講師やベテラン教師・保育士、大学教員などの話を聴いて、新たなアイデアを学んだり、新たな方法や技能を学んだりしていないだろうか。あるいは、他の実践者の活動や内容を(半ば無理やり)聴かされるだけで、それについて意見をいう時間も十分にない、という感じではないだろうか。しかし、こうした研修では、「自分がいったい何を、どのようにやっているのか」という問いは生まれてこない。「しなければならないこと」ばかりが増え、「していること」「やっていること」への反省はなかなかできない。
研修=「すべきこと」「しなければならないこと」(未来)
研究会=「していること」「したこと」「してしまっていること」(過去)
●「していること」「してしまったこと」を記述する=記録=事例となる。事例は、自分の実践の結果である。ここから、何が見えるのか、何が見えないのか、何を考えるべきか、何が問題なのか、背後にどんな課題があるのか、といったことを考えていくのが、第四土曜日の会のねらいでもある。
●実践の描き方(考え方・方向性)として、以下のようなものがある。
・教師・保育士と子どもの関係性から考えるべきことは何か。どんな関係を生きているのか。よく関係ができているなら批判的に捉え、関係があまりうまくいっていないなら、その中で何が起こっているかを捉える。「私とこの子は今どんな関係を生きているのか」
・日々の実践で、自分が学んでいることとは何か。そして、子どもが学んでいることは何か(あるいは学んでしまっていることは何か)。「学習」「学び」という点で、実践を捉えることはある種定番。「この子は何をいかに学んでいるのか」
・家庭との関係性の中で子どもを捉え、教師・保育士としていかなるケアを行っているのか。ケアという視点で、日々の関わりを捉えることは大いにやってほしい。「私はこういうケアをしたが、それはケアになっているのか」
・衣食住=生活という視点で、子どもの生活を捉え、その生活の一部である学校や園や施設での「子どもの生き方」(振舞い方・行動)を描いていく。
・貧困、差別(いじめ等)、非行といったこれからの問題にかかわる「萌芽」がどのように生成されているか。
・日本文化、あるいは日本人論として、実践を語れないか。集団行動、自己抑制、黙る、笑顔(作り笑い)、KY(「空気を読む」)、・・・
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