Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

5.3 【教養人】を目指そう♪by H.G.Gadamer

今日は、祝日、【憲法記念日】だ。どうして今日が休みかというと、日本で記念すべき【日本国憲法】が発布されたからだ。今日は、日本国憲法の発布を祝う日でもある。終戦から2年後の1947年5月3日に、この憲法は行使されることとなった。この憲法の問題は、学問の問題であるのと同時に、僕ら自身の問題でもある。これは憲法学や法学で取り扱われる問題だが、また「僕ら自身がどう生きるのか」という問題でもある。今日、いよいよ【憲法改正】も具体的に動き出そうとしている。【改正】が本当に実現するのかどうかはまだ分からないが、世論を見ていると、かなり【改憲】は追い風になってきているように思われる。

この憲法の問題は、いわゆる自然科学の問題でもないし、自然科学的な思考で捉えらえてもならない問題である。憲法の問題は、【実践学】の問題であり、【精神科学】の問題であり、【公共性】にかかわる問題であり、【正しい理性の行使】の問題でもある。「憲法を改正すべきかどうか」は、客観的な正当性を有している問いではなく、あくまでもわれわれの【判断】にかかわるヒューマニズムの問題なのである。(どのような判断が下されようとも、それを科学によって正当化することも、否定することも、できないのである)

この問題を僕の興味関心(解釈学、教育学、社会福祉学)にひきつけて言えば、そういう難しい判断をするために必要なのは、精神科学の伝統概念である【教養(Bildung)】である、ということである。人間社会の行動や活動は、科学的理性ではなく、教養によって規定していかなければならない、僕はそう考える。教養ある実践者、教養ある教師、教養ある保育士etc...

だが、【教養】とは、単にいい大学を出ているとか、人よりたくさん勉強しているとか、人よりモノを知っている、ということを言うのではない。教養人は、一般的には、モノをよく知っていて、色々ペラペラ語れる人のことを言うが、実はそうではないのだ。僕の精神の師匠H.G.Gadamerは、ヘーゲルの言葉を借りつつ、教養のある人を次のように喩えている。

欲望の充足や体力の消耗が過度にならぬように、普遍的なものへの顧慮-健康の留意など-によって、歯止めをかける中庸の精神、そして、個々の状況や仕事において、当然のことでもあるが、それとは違ったものが考慮できる冷静さなど・・・

こうしたことを、ガダマーは【実践的教養】と呼んでいる。僕なんかは、ラーメンを食べたいという欲望の充足が過度になっているが、逆に、他の一切の肉料理や油料理を避けていたり、野菜ジュースと水を多量に摂取したり、他の料理に関して相当なブレーキをかけている。こうした【判断】も、ある意味で、教養に関わる問題なのだ。教養あるアスリートは、自分の体力の消耗が過度にならぬよう、自分をうまくコントロールし、無駄な消耗を避けることができる。逆に、教養のないアスリートは、過度な無理を重ねて、早くして身体を壊してしまうだろう。教養にとって問題なのは、「健康」や「バランス」や「オルタナティブ(別の道)」といった普遍的なものへの顧慮がなされているかどうか、である。ガダマーは、ヘーゲルの言葉を借りつつ、教養の特徴を「普遍性への上昇」に求めている。

要するに、自己を普遍的で精神的な本質存在へと作り上げていくことは、人間的教養の普遍的本質である。逆に言えば、部分的なものに自己を委ねてしまうもの、例えば、なんの自制も見境いもなく盲目的な怒りに身を委ねてしまうものは、教養がないということになる(p.16)

人間は、生まれながらにして、自然状態ではないが、かといって、生まれながらにして、普遍的で精神的(知的)であるわけではない。むしろ、部分的なものに対して肉体的(感官的)に対峙しようとするものだ。だが、教養人は、「普遍的なもののために特殊なものを犠牲にする」、そして、「欲望の制御」をする。しかし、これは、「欲望の対象からの自由」であり、欲望から普遍へと上昇することでもある(cf.pp.16-17)。教養人は、個々のものや特殊なものを制御しつつ、全体的な枠組みの中で考えようとする。もっと言えば、個々の考え(例えば「憲法改正の世論」)を制御し、普遍的な視点(例えば「平和」や「世界秩序」など)から憲法という問題を考えることが、教養人の精神的行為なのであろう。

ガダマーは、教養の概念を検討することで、教養の普遍的特徴を次のように示している。(以下のように分類しているわけではないが・・・)

  1. 芸術作品という他者、あるいは過去という異質なものを受け入れること。
  2. 自分とは異なったより普遍的な視点に対して開かれていること。
  3. 自分自身に対する節度と距離をわきまえる普遍的な感覚をもつこと。
  4. 他人の目で見ること(「教養人が開かれた態度でのぞむ普遍的な視点は、妥当性のある固定した尺度のようなものではなく、他人ならばもつかもしれぬ視点として想定されるのである。p.24」)
  5. 五感を超えて、普遍的感覚をもつこと。

このように、【教養】、【教養人】を考えてみると、いわゆる「教養人」が【教養ある人】なのではない、ということは分かるだろう。ペラペラと知識をまくし立てたり、自分の考えを巧みな話術によって説得したり、知ったかぶりばかりの評論家が、本当の教養人なのではない。そうではなく、色々な芸術作品に触れ、過去の歴史や背景を見る人、個別の視点にのみ目がいく人ではなく、普遍的視点に開かれている人、かつての人間の目、別の人間の目で見られる人、そういう人が【教養人】なのである。喩えていえば、外国語をペラペラと話せることではなく、その外国の人間の目線に立てることこそが、教養なのであろう。

憲法の問題もしかりであろう。かつての人間の目で、今の憲法改正を考えたらどうなるだろう。かつての別の国の人間の目ではどうなのだろう。こどもの目ではどうなのだろう。女性の目ではどうなのだろう。あらゆる視点から考えつつ、普遍的な視点で考えようと努める。そういう教養人はどれほどいるのだろうか。

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