Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

「東京ディズニーランド」という聖域について語る!

何年ぶりだろう。正しい記憶としては、1997年~1998年に来たことははっきりと覚えている。その後、ボランティアで何度か来た記憶もかすかにある。でも、それも2000年くらいだったはず。だから、実に14年ぶりとなる東京ディズニーランド。

このブログで、ディズニーランドについて語る日が来ることになるとは。。。

今回は、2歳、11歳、19歳の学生、19歳のハワイの学生(日本語ほとんどできない)と僕、5人でディズニーランドに行きました。すごいハチャメチャな5人組で、面白かったです。誰ひとりとて、交われる人がいない、というグループ。これまでたくさんボランティア等で、色んなグループに属してきたけど、ここまでハードコアな集団でディズニーランドに行ったのは初めて。

…とはいえ、ここで、「ディズニーランドに行きました!」という報告がしたいわけではないんです。14年ぶりくらいにディズニーランドに行き、僕はただただ愕然とすることばかりだった。ある意味で、衝撃的だった。「こんな場所だったのか!?」という驚きも大きかった。そのことをここに書き残しておきたい。

***

ディズニーランドは、とにかく「待つ場所」なんだということに驚いた。とにかく待たされる。待って待って待って、という時間。鷲田さんは、「待てない社会になった」と書いているけれど、ディズニーランドは、もう、「待つ場所」でしかない。これだけたくさんの人が集まっているのだから、仕方ないけれど、これほどまで待たされる場所だったとは、、、。 僕個人の感想としては、「こんなに待ってられるか! こっちも忙しいんだ!」って感じかな。「意味のある待ち」なら、いくらでも待つ。でも、ディズニーランドに来て、これだけ途方もなく待たされるなんて、、、 耐えられない(苦笑)。お金を払って、ひたすら待つ場所…。とにかく、ディズニーランドとは、待つ場所なんだという再発見があった。まぁ、好きな人ならいくらでも待てるんだろうけど、僕には無理。

それから、ディズニーランドというのは、一見、楽しくて、夢あふれる世界ではあるんだけど、そこには、「見えないルール」が無数にあって、それを犯す人は絶対に許されない不寛容な空間だということ。大量のスタッフ(キャスト?)が働いているけれど、その誰一人とて、「自分の意思」で判断できない。文句を言っても、その声が反映されることもない。見えない巨大なルールに、スタッフも客もただただ跪かなければならない。ディズニーランドという空間は、客の声が届かない場所。ただただルールを守り、受け身の姿勢で、ランド側が求めた通りに動いて、求めた通りに行動して、感動しなければいけない。そうでなければ、あっという間に、スタッフ(バイト)に包囲されて、どこかに消されるだろう。それくらい、見えない権力が強烈に働いている場所なのだ。

また、ディズニーランドは、子どもの夢を実現する場所と言われているけれど、スタッフたちの子どもへの対応は、「旧教育」そのもの。あるいは、「監視者」そのもの。子どもの内的な動きを認めることはない。たとえば、ディズニーランドの果てには、ランド内部と外部を隔てる壁があり、その奥に入ることができる。小さな子どもはそこに入ろうとする。今回、2歳の子どもが(悪気なく)その壁の外に出てしまった。そうしたら、どどっと若いスタッフがやってきて、すぐに中に入るように(命令的に)指示してきた。なかなかランド内に戻ろうとしない子どもに対して、「待つ」ということは絶対にしない。「すみやかに戻ってください」という圧力が入る。「待たせること」はいくらでもやるのに、ランドのスタッフは、「待たない」。こういうことは、いたるところで確認できた。全部がマニュアル通り。マニュアル以外のことはしないし、また、マニュアルにそむくことは絶対にしない。完全にコントロールされている(よくもわるくも)。

ゆえに、ディズニーランドは「感情労働」の典型と見なされる。一日中、(移動手段ではなく娯楽として)カヌーやいかだを「笑顔」で運転するスタッフのあの「笑顔」が脳裏に焼き付いて離れない。どんな気持ちで働いているのだろう、と考えずにはいられない。もちろんこれはディズニーランドだけの話ではない。けれど、あまりにも見ていて、胸が苦しくなる(ただ、それが「正社員」であり、それなりの「給与」が与えられていたら、胸は苦しくならないけど・・・)。いかだを操縦する若い女の子は、「いかだの操縦を学び、実際にお客さんを乗せるまでには、相当の努力が必要です」、と話してくれた。その顔には、自信と誇りのようなものを感じた。が、しかし、きっと「正規雇用」ではないのだろう(未確認)。スケールを超える巨大な組織の一端として頑張るスタッフに、何とも言えない悲哀というか、暗い影のようなものを感じずにはいられなかった。

一見、華やかに見える「東京ディズニーランド」。

しかし、その実情は、見えないルールや決まりやマニュアルや規範で満ち溢れている窮屈な場所だった(個人的見解です)。「自由」を感じるどころか、「閉塞感」だらけだった。閉塞感というか、窮屈さというか、ルールに縛られている感じというか。そうした「縛り」の中で、「夢の世界」を構築しているのだと、改めて実感した。何がいいたいのかというと、東京ディズニーランドは、ある程度の知性と忍耐力と従順さがなければ、楽しめない空間だ、ということである。お互いに我慢し合っていることを尊重し、我慢に我慢を重ねて、窮屈な思いをしながら、夢の世界を受動的に味わう。その際に、批判的態度や批判的思考をランド側に見せてはいけない。あくまでも、楽しませてもらっているという敬意を示しながら、かりそめの時間を楽しむだけである。もちろん、客の意見がランドに反映されることもなく、ただただ客にルールを守ってもらうことを求めるのみ。

それからもう一つ。

東京ディズニーランドという場所は、決してノスタルジーを感じる場所ではない、ということ。この場所は、僕にとって思い出の多い場所である。僕が小学生の時に、開園した。それから、何度となくこの場所にやってきた。初めての彼女ともここで遊んだ。僕の人生の節々に、ディズニーランドがあった。色んな人と来たし、ここで色んな経験をした。

…にもかかわらず、この場所に、郷愁(ノスタルジー)を感じない。「あの時、あの子と一緒に来たよな~」という感傷に浸れない。思い出が再現されない場所なのだ。それだけの落ち着きや余裕を、ランドは与えてくれない。「次にこれ、次にこれ…」と、未来へと向かわせようとする。僕らは、思考停止し、欲望的衝動にしたがって、かつ見えない幾銭ものルールに従って、ただただ、回るのみである。これは、なにもディズニーランドに限った話ではないと思うが、顕著にそれが示される場所のように思う。

「絶対的聖域」。

ディズニーランドは、完全なる監視の下で、受け身的に楽しむ場所。楽しい刑務所と言ってもいいかもしれない。それくらい、徹底した規制と管理の下にあるのが、ディズニーランドという聖域なんだと、改めて分かった。

とはいえ、別にディズニーランドを否定する気もない。みんな、そのことを分かって楽しんでいるのだから、それでいいと思う。ある意味で、日本人パーソナリティーに合ったアミューズメント施設なんだろうな、とも思う。調和と同調を重んじる日本人には、最高の娯楽施設なんだとも思う。ひたすら待ち続け、刹那の快楽に酔い、そして、疲れきって帰宅する。それでいて、出ていくお金も半端ない。あれほどまでに混雑した場所に、喜んでいく日本人は、ある意味ですごいと思う。そして、その人気を維持し続けるオリエンタルランドの努力もすごいと思う。

みんなは、いったいディズニーランドをどのように経験しているんだろう?!

本当に心から楽しい場所なんだろうか。僕には分からない。これだけ人の混み合う場所は、正直苦手だし、待つのも好きではないし、落ち着ける場所すらどこにもない。喧噪の中をただ生きるのみ。

でも、そんなディズニーランドを、今もたくさんの人が求めているし、それを楽しんでいる。それが事実。

なぜディズニーランドに人がこれほどまでに集まるのか。本当に不思議だし、謎である。

***

とはいえ、そんな僕も、途中から存分に楽しみました(それ以上に疲労でいっぱいだったけど・・・)

それから・・・

ポテトとドリンク付きで、1000円を超えるハンバーガー。

ミッキーの形をしている点で、面白いかなと思うけど、それ以外は・・・汗

でも、ボリューム満点だったかな?!

中は、まぁ、よくあるタイプのものでした。

***

アニメの世界がそのままリアルになった感じが、またいいのかな?!

もう少し、いや、半分くらいに人が少なくなれば、もう少し夢を感じることができるかな。

あまりにも、人が多すぎるのです。。。

かしこ。

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