「浮世絵類考」の話から脱線してしまいましたが、もう少しだけ大谷鬼次について書きます。
これは前々回に書いたことの訂正ですが、まず鬼次は、鬼治と書くこともあって、どちらも通用していたようです。広次と広治も、同じです。また、写楽の絵には、道化方の大谷徳次(広次の弟子)を描いた絵がありますが、徳次と徳治、どちらでもいいようです。最近私は、早稲田大学演劇博物館のデジタルライブラリーで歌舞伎の番付をよく見るようになったのですが、江戸時代、漢字の当て方はかなりいい加減で、読みが同じなら違う字を当てて、通っていたことが分かりました。
それと、英泉の「无名翁随筆」で書き加えられた「鬼次 仲蔵」のところは、「鬼次仲蔵」と間を空けずに表記すれば正しいことが分かりました。初代仲蔵と区別するために、鬼次の二代目仲蔵は、通称「鬼次仲蔵」と言って、仲蔵の前に鬼次をかぶせて呼んでいたそうなのです。これは「歌舞伎俳優名跡便覧」に書いてありました。
また、これは細かいことですが、「新増補浮世絵類考」(龍田舎秋錦編 慶応4年)では、仲蔵の名を富十郎の後に移し変えて、「富十郎 仲蔵 広治 助五郎 鬼治」の順に書いています。編者が仲蔵を初代と勘違いして、こんな偉い役者を末尾に置くのはいけないと配慮して仲蔵を移動したのでしょうが、余計なことしてしまったわけです。写楽は初代仲蔵の絵は描いていません。
さて、鬼次について、歌舞伎研究家の河竹繁俊は「歌舞伎名優伝」(昭和31年)の「中村仲蔵」の項でわずか5行しか割いていません。引用しますと、
「二世仲蔵をついだのは、三世大谷広次の門弟で、養子にもなった永助であった。永助は春次から鬼次をつぎ、ついで二世中村仲蔵を名のったが、襲名後三年めの寛政八年(1796)に三十八歳で歿して、注目すべき俳優ではなかった」
最後の「注目すべき俳優ではなかった」というコメントは、著者の河竹繁俊が注目する気がなかっただけで、悪役として人気があった役者であることは確かだったと思います。そうでなければ仲蔵を襲名するわけがありません。
そこで私は、写楽が描いた絵のほかに、鬼次を描いた絵がないかと思って、インターネットで紹介されている世界中の美術館の所蔵データから鬼次の役者絵を探してみました。鬼次は、いわば一流の看板役者でもなく、とくに鬼次時代の役者絵はないかもしれないと思っていたのですが、ありました。
写楽の前に、まず勝川春英が鬼次を描いていました。2枚ありましたので、掲げておきます。
春英 三代目大谷鬼次
左の絵はミネアポリス美術館にあるものですが、「Otani Oniji III as Niki Bennosuke 1792」と明示されています。着物にある定紋(○十)と顔付きから見て、鬼次であることは確かです。しかし、仁木弁之介(?)という役名と1792年は、信用できない気もします。役名と制作年代は、推定が誤っていることが多々あるからです。とはいえ、写楽が描いた寛政6年(1794)より以前の絵であることは間違いないと思います。
右の絵はシカゴ美術館所蔵ですが、The Actor Otani Oniji III in an Unidentified Role in the Play Yukimi-zuki Eiga Hachi no Ki (?), Performed at the Nakamura Theater (?) in the Eleventh Month, 1787 (?)という注釈がついています。1787年11月中村座で上演された「雪視月栄花鉢木」の役だと推定していますが、疑問符だらけなので、不確かなようです。鬼次と師匠の広次は、定紋が同じなので、顔を良く見て、判定しないといけないのですが、右側の絵は若い頃の広次なのかもしれません。
春英の絵をもう一枚、これは立命館大学が本の画像(「浮世絵大成」の役者絵)だけ持っているものですが、右側下の役者の顔を良く見ると、鬼次にそっくりです。データでは大谷広次になっていますが、顔の特徴から鬼次に間違いありません(女形は岩井半四郎、左下は市川男女蔵です。制作年代は不明)。
ついでに、この絵の顔の部分と写楽の江戸兵衛の顔の部分図(モノクロにして左右反転)と仲蔵襲名後の部分図を並べて、比較してみましょう。
それぞれ、鬼次の顔の特徴をよくつかんで描いていますが、写楽が描いたとされる仲蔵(一番右側)の絵は、どうもニセっぽい気がして仕方がありません。春英の似顔は写実的で生気があります。写楽の江戸兵衛は、相手をバカにしたような憎々しさがあり、何度見ても見飽きません。それに比べると仲蔵の顔の表情は生きていません。
さて、これまで私が調べた限りでは、鬼次の役者絵は、まず春英が描いて、それから写楽と豊国が同時期に描いて(豊国は全身像です)、仲蔵襲名後は、写楽のほかに、歌舞伎堂艶鏡(写楽の亜流で、役者の中村重助と言われている謎の絵師です)と豊国と歌川国政が大首絵を描きます。その3枚を並べておきますが、前回掲げた写楽の仲蔵の絵と見比べると、何かが分かってくるような気がします。
歌舞伎堂艶鏡 二代目仲蔵
豊国 二代目仲蔵
国政 二代目仲蔵
*上の三枚の絵は寛政8年(1796)に、鬼次仲蔵が「菅原伝授手習鑑」で大役松王丸を演じた時の大首絵です。歌舞伎堂艶境の絵は、体が直立していて動きがなく、迫力が伝わってきません。
豊国の絵は華やかで、歌舞伎の楽しさが伝わってきます。国政の絵は、黒を基調にしたシックな絵で、構図も面白く感じます。
これは前々回に書いたことの訂正ですが、まず鬼次は、鬼治と書くこともあって、どちらも通用していたようです。広次と広治も、同じです。また、写楽の絵には、道化方の大谷徳次(広次の弟子)を描いた絵がありますが、徳次と徳治、どちらでもいいようです。最近私は、早稲田大学演劇博物館のデジタルライブラリーで歌舞伎の番付をよく見るようになったのですが、江戸時代、漢字の当て方はかなりいい加減で、読みが同じなら違う字を当てて、通っていたことが分かりました。
それと、英泉の「无名翁随筆」で書き加えられた「鬼次 仲蔵」のところは、「鬼次仲蔵」と間を空けずに表記すれば正しいことが分かりました。初代仲蔵と区別するために、鬼次の二代目仲蔵は、通称「鬼次仲蔵」と言って、仲蔵の前に鬼次をかぶせて呼んでいたそうなのです。これは「歌舞伎俳優名跡便覧」に書いてありました。
また、これは細かいことですが、「新増補浮世絵類考」(龍田舎秋錦編 慶応4年)では、仲蔵の名を富十郎の後に移し変えて、「富十郎 仲蔵 広治 助五郎 鬼治」の順に書いています。編者が仲蔵を初代と勘違いして、こんな偉い役者を末尾に置くのはいけないと配慮して仲蔵を移動したのでしょうが、余計なことしてしまったわけです。写楽は初代仲蔵の絵は描いていません。
さて、鬼次について、歌舞伎研究家の河竹繁俊は「歌舞伎名優伝」(昭和31年)の「中村仲蔵」の項でわずか5行しか割いていません。引用しますと、
「二世仲蔵をついだのは、三世大谷広次の門弟で、養子にもなった永助であった。永助は春次から鬼次をつぎ、ついで二世中村仲蔵を名のったが、襲名後三年めの寛政八年(1796)に三十八歳で歿して、注目すべき俳優ではなかった」
最後の「注目すべき俳優ではなかった」というコメントは、著者の河竹繁俊が注目する気がなかっただけで、悪役として人気があった役者であることは確かだったと思います。そうでなければ仲蔵を襲名するわけがありません。
そこで私は、写楽が描いた絵のほかに、鬼次を描いた絵がないかと思って、インターネットで紹介されている世界中の美術館の所蔵データから鬼次の役者絵を探してみました。鬼次は、いわば一流の看板役者でもなく、とくに鬼次時代の役者絵はないかもしれないと思っていたのですが、ありました。
写楽の前に、まず勝川春英が鬼次を描いていました。2枚ありましたので、掲げておきます。
春英 三代目大谷鬼次
左の絵はミネアポリス美術館にあるものですが、「Otani Oniji III as Niki Bennosuke 1792」と明示されています。着物にある定紋(○十)と顔付きから見て、鬼次であることは確かです。しかし、仁木弁之介(?)という役名と1792年は、信用できない気もします。役名と制作年代は、推定が誤っていることが多々あるからです。とはいえ、写楽が描いた寛政6年(1794)より以前の絵であることは間違いないと思います。
右の絵はシカゴ美術館所蔵ですが、The Actor Otani Oniji III in an Unidentified Role in the Play Yukimi-zuki Eiga Hachi no Ki (?), Performed at the Nakamura Theater (?) in the Eleventh Month, 1787 (?)という注釈がついています。1787年11月中村座で上演された「雪視月栄花鉢木」の役だと推定していますが、疑問符だらけなので、不確かなようです。鬼次と師匠の広次は、定紋が同じなので、顔を良く見て、判定しないといけないのですが、右側の絵は若い頃の広次なのかもしれません。
春英の絵をもう一枚、これは立命館大学が本の画像(「浮世絵大成」の役者絵)だけ持っているものですが、右側下の役者の顔を良く見ると、鬼次にそっくりです。データでは大谷広次になっていますが、顔の特徴から鬼次に間違いありません(女形は岩井半四郎、左下は市川男女蔵です。制作年代は不明)。
ついでに、この絵の顔の部分と写楽の江戸兵衛の顔の部分図(モノクロにして左右反転)と仲蔵襲名後の部分図を並べて、比較してみましょう。
それぞれ、鬼次の顔の特徴をよくつかんで描いていますが、写楽が描いたとされる仲蔵(一番右側)の絵は、どうもニセっぽい気がして仕方がありません。春英の似顔は写実的で生気があります。写楽の江戸兵衛は、相手をバカにしたような憎々しさがあり、何度見ても見飽きません。それに比べると仲蔵の顔の表情は生きていません。
さて、これまで私が調べた限りでは、鬼次の役者絵は、まず春英が描いて、それから写楽と豊国が同時期に描いて(豊国は全身像です)、仲蔵襲名後は、写楽のほかに、歌舞伎堂艶鏡(写楽の亜流で、役者の中村重助と言われている謎の絵師です)と豊国と歌川国政が大首絵を描きます。その3枚を並べておきますが、前回掲げた写楽の仲蔵の絵と見比べると、何かが分かってくるような気がします。
歌舞伎堂艶鏡 二代目仲蔵
豊国 二代目仲蔵
国政 二代目仲蔵
*上の三枚の絵は寛政8年(1796)に、鬼次仲蔵が「菅原伝授手習鑑」で大役松王丸を演じた時の大首絵です。歌舞伎堂艶境の絵は、体が直立していて動きがなく、迫力が伝わってきません。
豊国の絵は華やかで、歌舞伎の楽しさが伝わってきます。国政の絵は、黒を基調にしたシックな絵で、構図も面白く感じます。
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