大田南畝という偉大な文人について私は今のところ勉強不足で、南畝の書いたものでは、この「浮世絵類考」のほかに下記の書誌に載っている短い引用文をいつか読んだだけです。小池正胤氏の「反骨者大田南畝と山東京伝」(1998年 教育出版)と、加藤好夫氏が「浮世絵芸術」126号に寄稿した「大田南畝に書き留められた浮世絵師達」です。(加藤氏は「浮世絵文献資料館」という素晴らしいホームページを作成している方で、これは大変参考になります)
また、南畝について、詳しい上に分かりやすくまとめてある文章として、ホームページ「日本語と日本文化 壺齋閑話」(引地博信氏執筆作成)にある「大田南畝」が参考になります。
大田南畝のことについてはここでは最小限にとどめるとして、寛政の改革以後の南畝の動向だけを書いておきます。
南畝が、狂歌による世相風刺を自粛し、文筆業から離れるのは、天明7年(1787)、松平定信が老中首座に就いて寛政の改革を開始してからです。田沼政治の腐敗が粛清され、関係者の更迭と処罰が行われましたが、南畝の後援者もその中にいたらしく、南畝は自分に累が及ぶことを危惧したのではないかとも言われています。知り合いでもある武士階級の戯作者二人が幕政批判のかどでお上から咎を受けたことも、南畝にとってショックでした。朋誠堂喜三二の断筆(天明8年)と恋川春町の死去(寛政元年)です。
幕府から次々に倹約令が出され、贅沢の禁止、風紀取締り、出版統制が厳しくなり、安永・天明期の文化的高揚と熱気が、冷や水でもかけられたように冷めて、自由放埓な雰囲気が消え、束縛された重苦しいムードが漂い始めていました。
寛政3年3月、山東京伝の筆禍事件で、京伝が手鎖50日、版元の蔦屋重三郎が身代半減(財産半分没収)の処罰を受け、10月には石川雅望(狂名:宿屋飯盛)が贈賄罪で江戸払いになります。南畝にとって親交の深いこの三人の処罰は第二のショックでした。南畝が狂歌を発表するのを辞め、「浮世絵考証」を書き始めたのはこの頃です。また、南畝は、人生の転換期を自覚し、幕僚として生きる道を模索し始めます。
南畝は寛政5年(1793年)に45歳になりますが、かつて狂歌ブームを巻き起こし、戯作に従事し、かつ遊興にひたり、江戸文芸サロンのリーダー格として著名文化人たちと交友を深めながら歩んできた20代30代を思い浮かべ、懐古気分に浸りながら、自分の今後の人生を考えたのだと思います。松平定信が失脚したのは同年7月です。
寛政6年(1794年)春、南畝46歳の時、幕府の人材登用試験(学問吟味という)を受けて合格します。(寛政4年秋に受験した時は不合格でした) 4月に登城し、出仕するや毎日、山積した公文書の整理に取り掛かかり、休みなしに働いて狂歌をひねる暇もなかったようです。
蔦屋から写楽が役者絵約30枚を引っさげてデビューしたのはこの年の5月ですが、南畝が写楽の絵を見たかどうかは怪しいものです。なにしろ就職して間もない頃ですから、南畝は落ち度のないように仕事に専念していたのではないでしょうか。
その後、膨大な文書の整理や地方出張での調査など、20年以上にわたり幕府の一官吏として勤務に励みました。(文政6年、大田南畝は75歳で大往生します)
再び「浮世絵類考」の話に戻ります。
寛政12年5月あるいはその少し前に、南畝は、笹屋新七邦教が作成した浮世絵師の系譜「古今大和絵浮世絵始系」を入手します。この系譜は、版元の鱗形屋から出版されたものでした。笹屋新七邦教という人は江戸本銀町一丁目の縫箔屋主人とありますが、経歴不詳で、南畝との関係も不明です。南畝はこの系譜を書写し、それを終えると、自らが作成した「浮世絵考証」の後ろにこの系譜を付録として添え、奥書(下記参照)をしたためて、一冊の本として綴じます。これが5月末日のことです。
右の始系は本銀町縫箔屋主人笹屋新七所書なり。写して類考の後に付記す、参考にして其実を訂すべし。猶後考をまつ。
庚申夏五晦 杏花園 (蜀山印)
「庚申夏五晦」は、寛政12年夏五月晦日のことで、「杏花園」は南畝の別号です。「参考にして其実を訂すべし。猶後考をまつ」、つまり「参考にしてそれが事実でなければ訂正しなければならない。今後の検討をまちたい」ということです。この時点で、南畝は「類考」という名称を使っています。
寛政12年(1800年)5月末日に、「浮世絵類考」は一冊の本として完成します。これを後世の「浮世絵類考」研究者たちは「南畝原撰本」と呼んでいます。
その後、南畝自身、折を見て、多少書き加えたり、書き直したりしたかもしれませんが、「南畝原撰本浮世絵類考」は南畝直筆、私家版のこの一冊だけです。
この原本を南畝の知人や関係者たちが、手書きで写し始めるわけですが、この原初段階の写本から、それをまた書き写した写本が生まれ、普及していきます。現在、「南畝原撰本浮世絵類考」は未発見で、おそらく今後も出てこないと思われます。
また、南畝について、詳しい上に分かりやすくまとめてある文章として、ホームページ「日本語と日本文化 壺齋閑話」(引地博信氏執筆作成)にある「大田南畝」が参考になります。
大田南畝のことについてはここでは最小限にとどめるとして、寛政の改革以後の南畝の動向だけを書いておきます。
南畝が、狂歌による世相風刺を自粛し、文筆業から離れるのは、天明7年(1787)、松平定信が老中首座に就いて寛政の改革を開始してからです。田沼政治の腐敗が粛清され、関係者の更迭と処罰が行われましたが、南畝の後援者もその中にいたらしく、南畝は自分に累が及ぶことを危惧したのではないかとも言われています。知り合いでもある武士階級の戯作者二人が幕政批判のかどでお上から咎を受けたことも、南畝にとってショックでした。朋誠堂喜三二の断筆(天明8年)と恋川春町の死去(寛政元年)です。
幕府から次々に倹約令が出され、贅沢の禁止、風紀取締り、出版統制が厳しくなり、安永・天明期の文化的高揚と熱気が、冷や水でもかけられたように冷めて、自由放埓な雰囲気が消え、束縛された重苦しいムードが漂い始めていました。
寛政3年3月、山東京伝の筆禍事件で、京伝が手鎖50日、版元の蔦屋重三郎が身代半減(財産半分没収)の処罰を受け、10月には石川雅望(狂名:宿屋飯盛)が贈賄罪で江戸払いになります。南畝にとって親交の深いこの三人の処罰は第二のショックでした。南畝が狂歌を発表するのを辞め、「浮世絵考証」を書き始めたのはこの頃です。また、南畝は、人生の転換期を自覚し、幕僚として生きる道を模索し始めます。
南畝は寛政5年(1793年)に45歳になりますが、かつて狂歌ブームを巻き起こし、戯作に従事し、かつ遊興にひたり、江戸文芸サロンのリーダー格として著名文化人たちと交友を深めながら歩んできた20代30代を思い浮かべ、懐古気分に浸りながら、自分の今後の人生を考えたのだと思います。松平定信が失脚したのは同年7月です。
寛政6年(1794年)春、南畝46歳の時、幕府の人材登用試験(学問吟味という)を受けて合格します。(寛政4年秋に受験した時は不合格でした) 4月に登城し、出仕するや毎日、山積した公文書の整理に取り掛かかり、休みなしに働いて狂歌をひねる暇もなかったようです。
蔦屋から写楽が役者絵約30枚を引っさげてデビューしたのはこの年の5月ですが、南畝が写楽の絵を見たかどうかは怪しいものです。なにしろ就職して間もない頃ですから、南畝は落ち度のないように仕事に専念していたのではないでしょうか。
その後、膨大な文書の整理や地方出張での調査など、20年以上にわたり幕府の一官吏として勤務に励みました。(文政6年、大田南畝は75歳で大往生します)
再び「浮世絵類考」の話に戻ります。
寛政12年5月あるいはその少し前に、南畝は、笹屋新七邦教が作成した浮世絵師の系譜「古今大和絵浮世絵始系」を入手します。この系譜は、版元の鱗形屋から出版されたものでした。笹屋新七邦教という人は江戸本銀町一丁目の縫箔屋主人とありますが、経歴不詳で、南畝との関係も不明です。南畝はこの系譜を書写し、それを終えると、自らが作成した「浮世絵考証」の後ろにこの系譜を付録として添え、奥書(下記参照)をしたためて、一冊の本として綴じます。これが5月末日のことです。
右の始系は本銀町縫箔屋主人笹屋新七所書なり。写して類考の後に付記す、参考にして其実を訂すべし。猶後考をまつ。
庚申夏五晦 杏花園 (蜀山印)
「庚申夏五晦」は、寛政12年夏五月晦日のことで、「杏花園」は南畝の別号です。「参考にして其実を訂すべし。猶後考をまつ」、つまり「参考にしてそれが事実でなければ訂正しなければならない。今後の検討をまちたい」ということです。この時点で、南畝は「類考」という名称を使っています。
寛政12年(1800年)5月末日に、「浮世絵類考」は一冊の本として完成します。これを後世の「浮世絵類考」研究者たちは「南畝原撰本」と呼んでいます。
その後、南畝自身、折を見て、多少書き加えたり、書き直したりしたかもしれませんが、「南畝原撰本浮世絵類考」は南畝直筆、私家版のこの一冊だけです。
この原本を南畝の知人や関係者たちが、手書きで写し始めるわけですが、この原初段階の写本から、それをまた書き写した写本が生まれ、普及していきます。現在、「南畝原撰本浮世絵類考」は未発見で、おそらく今後も出てこないと思われます。
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