背寒日誌

2024年10月末より再開。日々感じたこと、観たこと、聴いたもの、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

写楽論(その34)~「浮世絵類考」(8)

2014年05月24日 23時15分21秒 | 写楽論
その後の「浮世絵類考」の変遷史と写楽についての補記は以下の通りです。

 享和2年(1802)、山東京伝が「浮世絵類考追考」を書く。これは、京伝が手書きして綴った私家版と言えるもので、「浮世絵類考」を参照しながら、さらに初期の浮世絵師を付け加え、考証的な文を書き足したもの。菱川氏および英氏の系図も作成。同年10月に、京伝は「浮世絵類考追考」を脱稿する。
 ただし、京伝は写楽について一言も加えていない。

 文政元年(1818)、大田南畝が京伝(文化13年=1816年に死去)の私家版「浮世絵類考追考」を巻末に加え、「類考」本文、笹屋邦教の「付録」と合わせ、三部作として完成させる。
京伝の「追考」の後にある南畝の奥書は、

右追考 山東京伝手書本
    文政元年戊寅六月晦日            七十翁蜀山人


 文政元年(1818)から文政4年(1821)頃までに、式亭三馬(1776~1822)が本文、付録、追考の三部作に補記を書き込む。三馬が参照した「浮世絵類考」三部作は、南畝の稿本なのか、それとも誰かがそれを書写した写本だったのか、不明である。ともかく、三部作が完成して間もなく、それが三馬の手に渡ったことは間違いない。しかも、三馬は、時間をかけて、調査し、念入りに書き込んでいる。また、絵師によって書き足りないことは、「委シクハ別ニ記ス」と加えているように、別原稿を用意していたことは明らかである。三馬の自筆本は現存せず、おそらくかなりの分量の別原稿も、三馬の死(文政5年1月)によって、未定稿のまま消失したようである。
 写楽について、三馬の補記は、「三馬按、写楽号東周斎、江戸八丁堀ニ住ス、僅ニ半年余行ハルゝノミ」(写本によって記述の多少の違いあり)である。
 「類考」研究者の由良哲次は、三馬の補記のある「類考」三部作で、最も原初段階に近い写本として、「スターン氏本」を挙げ、三馬の補記は、「三馬按るに写楽号東周斎江戸八町堀に住す僅に半年余行るといふ」とあると述べ、最後の「といふ」という伝聞表現を重視しています。つまり、三馬は、写楽の住所について、町の風聞を記したのであり、写楽のことを三馬はよく知らなかったという説を由良哲次はとっているわけです。また、句読点で区切るのも、原文に忠実ではなく、良くないと主張しています。
 由良哲次には遺作とも言える大著「総校日本浮世絵類考」(画文堂 昭和54年)があるが、私はまだ読んでいません。季刊「浮世絵」35・36号所収の由良哲次の論文によってその一端を知るだけです。また、文献学者の北小路健氏が美術雑誌「萌春」197号~246号(昭和46年3月~50年8月)に連載した「浮世絵類考論究」も類考研究にとっては定評のあるものらしいのですが、これも未読です。

 前回書いた古い写本に以下の二つを追加しておきます。
五、「神習本
 井上頼国旧蔵、現在神宮文庫所蔵。「浮世絵人名考」とあり、奥書に、
文化十年八月 以南畝翁蔵本写、野木瓜亭主人
 これは野木瓜亭こと大草公弼という幕臣で考証家だった人が所蔵していた写本だそうです。「曳尾庵本」(文化12年書写)より2年前の写本です。(前回書いた「曳尾庵本」について、曳尾庵は此君亭という人の写本を転写したことが分かりました。此君亭は、文化5年に写本を作成したとのこと)
「神習本」は「野木瓜亭本」とも呼ばれている写本で、その異本には写楽について次のような補記があることが知られています。

以画俳優肖像得時名又能油画号有隣享和元年卒

 後半が問題で、「また油絵をよくし、号を有隣、享和元年死去」という内容です。これは浮世絵研究者の井上和雄が雑誌「浮世絵」48号(大正8年6月)で紹介したもの。しかし、写本の転写本だそうで、本文と同一筆者が記入したのか、後の人の筆か判明しない(原本は所在不明)。(鈴木重三編、講談社版・浮世絵美人画役者絵6「写楽」より)

六、「坂田文庫本
 坂田文庫蔵、南葵文庫蔵、現在東京大学総合図書館所蔵。明治初期の外務省役人で古書収集家の坂田諸遠(もろとお)が所有していた写本。表紙に「浮世絵類考」、内題に「浮世絵師の伝」。奥書には、文政4年4月、不二の屋が写したといったことが書かれている。写楽については、朱筆で「イニ写楽斎トモ阿リ」と「東洲斎ト云」とある。また、その前ページに、国政の項があり、その次に、朱筆で「画名何ト云哉 俗名金次」とあり、その下に「薬研堀不動前通り、隅田川両岸一覧の筆者」と書いてある。これは葛飾北斎(文化3年に「隅田川両岸一覧」の画本を出している)の記述が混入したのではないかと言われている。

七、「風山本
 神宮文庫の木村黙老「聞ままの記」十六巻収録の「浮世絵師考」。奥書に「右者己が心覚えのために写し置くもの也 文政辛巳年季南呂初旬 風山漁者筆」とある。文政4年8月の写本である。
 写楽について、「東洲斎と号す俗名金次」と「隅田川両岸一覧の作者にてやけん堀不動前通りに住す」が書き加えられている。「坂田文庫本」(風山漁者という書写した人がこの元本を参照したのではないかと由良哲次は推測している)の不明確な記述が写楽の中に紛れ込んでいる。

 以上は、三馬の補記のない写本。
 次に三馬の補記のある写本は、数多くあるそうですが、代表的なものを以下に挙げておきます。

一、「スターン氏本」(季刊「浮世絵」35号所収の由良哲次「写楽と稗史億説年代記および浮世絵類考」に紹介がある)
 アメリカ人のスターン博士(ワシントン市、国立フリアガレリー副館長)所蔵の写本。最後のページの奥書に「天保二竜春三月十一日写之 相徳 蔵本」とある。つまり天保2年に書写されたもの。この写本の所有者は、転々と変わり、浮世絵師の国周、達磨屋五一、書店三原堂などを経て、スターン氏に渡ったという。現在この写本が所蔵場所、またコピーを閲覧できるのかも不明。

二、「松平本
 大曲駒村編「浮世絵類考」(近代デジタルライブラリーで閲覧可)が底本にしたもの。歌舞伎作者の奈河本助が蔵前の書店田中長次郎から購入し(天保2年4月8日)、美作津山藩主の松平確堂の所有になった写本。

三、「静嘉堂文庫本
 岩崎弥之助・小弥太の父子二代にわたるコレクション(静嘉堂文庫)に納められている写本。世田谷の静嘉堂美術館で閲覧可。

四、「酉山堂本
 酉山堂(ゆうざんどう)は、江戸時代後期の書肆で、主人は酉山堂保次郎。斎藤月岑が書き写して参照した「浮世絵類考」の写本は、この「酉山堂本」と呼ばれるもの。現在横浜市図書館が所蔵していて、その複製が国立国会図書館にある。狩野亮吉博士、三田村鳶魚が一時期所有していたと言われる。

五、「奈河本助本
 二と同じく奈河本助の所蔵本。現在内閣文庫にある。閲覧可。
「写楽は阿州侯の士にて俗称斎藤十郎平というよし、栄松斎長喜老人の話なり(改行)周一作洲」という朱書の頭注がある。

六、「達磨屋吾一本
現在天理大学図書館所蔵。
「写楽は阿州侯の士にて俗称斎藤十郎兵衛というよし、栄松斎長喜老人の話なり(改行)周一作洲」という朱書の頭注がある。

ほかに、三馬の補記がある写本かどうか、今のところ未調査ですが、
故法室本」というのがあります。鈴木南稜の蔵書。内容も所蔵場所も私は未調査です。

 さて、その後の「浮世絵類考」増補本としては、
●渓斎英泉の「無名翁随筆」(=「続浮世絵類考」)
 天保4年(1833年)、浮世絵師・渓斎英泉が概説「大和絵師浮世絵之考」と「吾妻錦絵之考」を巻頭に置き、新たに浮世絵師(合計86名)を加え、本文も大幅に補記したもの。上下二巻。良写本見当たらず、国立国会図書館蔵の「燕石十種」所収の翻刻本があるのみ(ただし、「燕石十種」は昭和54年発行の中央公論社版がある)。写楽に「五代目白猿……」以下、描いた役者の名前の列記が加わる。ただし、「奈河本」「達磨屋五一本」に書き込まれた長喜からの伝聞の頭注はない。

●斎藤月岑の「増補浮世絵類考
 天保15年(1844年)、斎藤月岑(1804~1878)が「浮世絵類考」の写本と友人の石塚豊芥子所蔵の「無名翁随筆」を補記したもの。天地人の三巻。「ケンブリッジ本」(ケンブリッジ大学図書館所蔵)は、月岑の自筆本であり、増補版発行のための原稿というべきもの。「近世文芸 資料と考証」2号3号(七人社 板坂元編・棚町知弥翻字)に翻刻がある。ところどころに空白部が残っているようだが、月岑はまだ書き加えるつもりだったらしい。この原稿は月岑の生存中は、出版されなかった。途中で版元に渡さず、出版を断念したのではあるまいか?しかし、下記の新増補版がこの本をもとに作られたということは、この写本が出回ったことは確かである。
 斎藤月岑によって、写楽について、以下の記述がなされる。

○写 楽      天明寛政中の人
   俗称 斎藤十郎兵衛 居 江戸八丁堀に住す 阿波侯の能役者なり
 号 東洲斎
歌舞伎役者の似顔を写せしが、あまりに真を画んとて、あらぬさまに書なせしかば、長く世に行れず、一両年にして止む 類考
  三馬云、僅に半年余行はるゝのみ
    五代目白猿 幸四郎(後京十郎と改) 半四郎 菊之丞 富十郎 広治 助五郎 鬼治 仲蔵の類を半身に画、廻りに雲母を摺たるもの多し

 また、月岑の「増補浮世絵類考」は、明治24年刊「温知叢書」第四篇に収録されたものがあるが、この元本はケンブリッジ本より古いものらしく、写楽の「俗称斎藤十郎兵衛」と「阿波侯の能役者なり」の記載が入っていない。岩波文庫版の仲田勝之助編「浮世絵類考」によると、写楽の項は「無名翁随筆」と同内容だったらしく、岩波文庫の表記では、その記載は下記の「新増補浮世絵類考」初出となっている。戦後の写楽研究にとって、この岩波文庫版(戦後も続刊されたのだろうか?)の普及とその影響の大きさを考えると、写楽に関する「俗称斎藤……」以下の箇所が、【新】という表記で掲載されたことは、「新増補浮世絵類考」の信頼度の低さ(仲田もはしがきで、その編者を「龍田舎秋錦なるもの」と書いて、軽視している)を考え合わせると、その信憑性を不確かなものにした元凶だったといえるのではなかろうか。

●龍田舎錦秋の「新増補浮世絵類考
 慶應4年、龍田舎秋錦(この人物は不詳)が斎藤月岑の「増補浮世絵類考」を参照し、新たに絵師を加えて再編集し、序をつけて完成したもの。明治22年(1889年)、この「新増補浮世絵類考」は単行本化され、再版。近代ライブラリーで閲覧可。

 ほかに、書き込み入りの写本として、関根只誠の写本、三代目柳亭種彦の写本などがあるそうです。


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