「写楽は、浮世絵史上、突然変異的に出現した」「写楽は、役者の顔や手をデフォルメして描いた」、また、梅原猛氏のように、「写楽の絵は写実主義的ではなく表現主義的である」などなど、写楽の絵のユニークさを強調するあまり、ちょっと行き過ぎではないかと思われる意見を述べる評論家がいます。
「突然に」なら良いでしょうが、「突然変異的に」と言うと怪物でも現れたような印象を受けます。写楽という浮世絵師は、当時も怪しげな人物だったことは間違いないでしょうが、彼の役者絵自体を突然変異的なものとする評価はどうかと思います。また、「デフォルメ」も、それほどでもないと思います。役に成りきった役者の表情や姿をできる限り忠実に描こうとして、少し誇張して描いた程度です。
梅原猛氏がその著「写楽 仮名の悲劇」で力説している表現主義的という言葉は、日本の芸術を西洋の芸術観で解釈する日本の文化人(?)特有の悪弊で、なんとか主義と決めつけるのは良くないと思います。この本は、面白い部分も多々ありますが、梅原氏独特の決めつけと自信過剰で強引な論法が目立ちすぎ、今思うと、「写楽=豊国」説は、彼の血迷った暴論だったと言わざるを得ません。(最近またこの本を再読してみた私の感想です)
一方、写楽の絵を好まない人たちは、「絵に品がない」「ゲテモノ趣味だ」「過大評価されすぎる」と言います。三番目の写楽の絵は「過大評価されすぎる」という点だけは、私も同感です。
写楽をベラスケス、レンブラントと並ぶ世界の三大肖像画家の一人として絶賛し、「SHARAKU」という研究書を書いたのはドイツ人のユリウス・クルトJulius Kurth(1870-1949)という美術史家だったのですが、このドイツ語の著書は1910年(明治43年)にミュンヘンで発行され、すぐに日本に輸入されて翻訳されたそうです(原書は1922年再版)。クルトは、その3年前に歌麿の研究書を、写楽を出すすぐ前に春信の研究書を出しているほどで、当時西欧で浮世絵研究の第一人者でした。これが日本の美術界でセンセーションを巻き起こし、知識人から一般人の間にまで波及して、大正時代半ばからに写楽ブーム、そして、浮世絵ブームが起っていきます。それまでは、写楽という絵師すら知らず、彼の絵などに見向きもしなかった日本人が写楽に目を向け、江戸時代にもこんな凄い画家がいたと再認識するわけです。私は、クルトの「SHARAKU」をまだ読んでいませんが、ぜひ読んでみたいと思っています。最近アダチ版画研究所から新しい翻訳書が発行されたようなので購入するつもりです。写楽を勉強する上で、その原点となるべき本だと思うからです。
クルトのこの本をいち早く日本に紹介したのは、詩人で英文学者の野口米次郎(1875~1947)でした。以前私は『レオニー』という映画をDVDで見た時に、彼のことを調べたことがあります。野口米次郎は、有名な彫刻家のイサム・ノグチの父で、レオニーというのは野口米次郎のアメリカ人の妻で、映画は彼女を主人公にした作品でした。米次郎は中村獅童が演じました。このブログに手厳しい映画評を書いたのですが、それはともかく、この時は、クルトの「SHARAKU」を野口米次郎が紹介したことは知りませんでした。それを最近知って驚きました。
野口米次郎は、大正期前半に日本の偉大な浮世絵師についてさまざまな論文を発表し、それを「六代絵師」(大正8年6月 岩波書店)という本にまとめ、発行します。六代絵師とは、春信、清長、歌麿、写楽、北斎、広重です。
写楽以外の5人は、彼らが生きている当時もその後も有名で、評価も非常に高い画家だったのですが、写楽だけが特別でした。作画期間も極端に短く(クルトは数年間と考え、その後2年になり、さらに10ヶ月と狭まっていきます)、描いた絵の数も少なく、業績の上では問題にならない画家でした。当時の評価も他の絵師に比べれば数段低く、その後はまったく忘れられた画家だったのです。野口は、クルトに影響されて、写楽に惚れ込み、写楽ブームのいわば火付け役になった日本人です。
野口が取り上げた浮世絵の六大絵師という評価は、現在では定着した感があります。野口のこの本は、国立国会図書館のデジタルライブラーにあるので、「驚異の大写楽」の章だけ読んでみました。なかなかの名文でした。最初に写楽と野口の対話があり、ゲーテのメフィフトとファウストの対話のようになっています。
写楽が「人は誤って天才などというが、僕自身は熟慮なる科学者をもって任じている。僕の芸術は、身振りの均合――二つの眼と二本の手、湾曲した顎と額――が生命で、この感激的な身振りを同時に響く高音的色彩の調諧で肯定したものだ」
と言うと、野口が「君は題材――五代目団十郎にせよ又瀬川菊之丞にせよ又嵐龍蔵にせよ――を科学的に取り扱っても詩を忘れたのでない。真赤な想像を軽視したのでない。君が作ったエフェクトの鋳型、生きた感激を二度と来ぬ最も適当な瞬間を見計らって力一杯注ぎ込んだものである――僕は君をそう了解している」
といった具合です。この論文の後半には、野口の写楽絵との出会いと感銘、クルトの著「写楽」に対する批判、また野口自身の推論も書いてあって、興味深く読みました。
写楽に関する日本側の研究は、ここからずいぶん進んでいくのですが、その成果と言えば、140数点に及ぶ写楽の絵の集約と整理、すなわち、制作時期と舞台別の分類、役者と役名の特定といったことなのですが、写楽の実像に関しては推測の域を脱せず、堂々めぐりしていたことが分かります。
「突然に」なら良いでしょうが、「突然変異的に」と言うと怪物でも現れたような印象を受けます。写楽という浮世絵師は、当時も怪しげな人物だったことは間違いないでしょうが、彼の役者絵自体を突然変異的なものとする評価はどうかと思います。また、「デフォルメ」も、それほどでもないと思います。役に成りきった役者の表情や姿をできる限り忠実に描こうとして、少し誇張して描いた程度です。
梅原猛氏がその著「写楽 仮名の悲劇」で力説している表現主義的という言葉は、日本の芸術を西洋の芸術観で解釈する日本の文化人(?)特有の悪弊で、なんとか主義と決めつけるのは良くないと思います。この本は、面白い部分も多々ありますが、梅原氏独特の決めつけと自信過剰で強引な論法が目立ちすぎ、今思うと、「写楽=豊国」説は、彼の血迷った暴論だったと言わざるを得ません。(最近またこの本を再読してみた私の感想です)
一方、写楽の絵を好まない人たちは、「絵に品がない」「ゲテモノ趣味だ」「過大評価されすぎる」と言います。三番目の写楽の絵は「過大評価されすぎる」という点だけは、私も同感です。
写楽をベラスケス、レンブラントと並ぶ世界の三大肖像画家の一人として絶賛し、「SHARAKU」という研究書を書いたのはドイツ人のユリウス・クルトJulius Kurth(1870-1949)という美術史家だったのですが、このドイツ語の著書は1910年(明治43年)にミュンヘンで発行され、すぐに日本に輸入されて翻訳されたそうです(原書は1922年再版)。クルトは、その3年前に歌麿の研究書を、写楽を出すすぐ前に春信の研究書を出しているほどで、当時西欧で浮世絵研究の第一人者でした。これが日本の美術界でセンセーションを巻き起こし、知識人から一般人の間にまで波及して、大正時代半ばからに写楽ブーム、そして、浮世絵ブームが起っていきます。それまでは、写楽という絵師すら知らず、彼の絵などに見向きもしなかった日本人が写楽に目を向け、江戸時代にもこんな凄い画家がいたと再認識するわけです。私は、クルトの「SHARAKU」をまだ読んでいませんが、ぜひ読んでみたいと思っています。最近アダチ版画研究所から新しい翻訳書が発行されたようなので購入するつもりです。写楽を勉強する上で、その原点となるべき本だと思うからです。
クルトのこの本をいち早く日本に紹介したのは、詩人で英文学者の野口米次郎(1875~1947)でした。以前私は『レオニー』という映画をDVDで見た時に、彼のことを調べたことがあります。野口米次郎は、有名な彫刻家のイサム・ノグチの父で、レオニーというのは野口米次郎のアメリカ人の妻で、映画は彼女を主人公にした作品でした。米次郎は中村獅童が演じました。このブログに手厳しい映画評を書いたのですが、それはともかく、この時は、クルトの「SHARAKU」を野口米次郎が紹介したことは知りませんでした。それを最近知って驚きました。
野口米次郎は、大正期前半に日本の偉大な浮世絵師についてさまざまな論文を発表し、それを「六代絵師」(大正8年6月 岩波書店)という本にまとめ、発行します。六代絵師とは、春信、清長、歌麿、写楽、北斎、広重です。
写楽以外の5人は、彼らが生きている当時もその後も有名で、評価も非常に高い画家だったのですが、写楽だけが特別でした。作画期間も極端に短く(クルトは数年間と考え、その後2年になり、さらに10ヶ月と狭まっていきます)、描いた絵の数も少なく、業績の上では問題にならない画家でした。当時の評価も他の絵師に比べれば数段低く、その後はまったく忘れられた画家だったのです。野口は、クルトに影響されて、写楽に惚れ込み、写楽ブームのいわば火付け役になった日本人です。
野口が取り上げた浮世絵の六大絵師という評価は、現在では定着した感があります。野口のこの本は、国立国会図書館のデジタルライブラーにあるので、「驚異の大写楽」の章だけ読んでみました。なかなかの名文でした。最初に写楽と野口の対話があり、ゲーテのメフィフトとファウストの対話のようになっています。
写楽が「人は誤って天才などというが、僕自身は熟慮なる科学者をもって任じている。僕の芸術は、身振りの均合――二つの眼と二本の手、湾曲した顎と額――が生命で、この感激的な身振りを同時に響く高音的色彩の調諧で肯定したものだ」
と言うと、野口が「君は題材――五代目団十郎にせよ又瀬川菊之丞にせよ又嵐龍蔵にせよ――を科学的に取り扱っても詩を忘れたのでない。真赤な想像を軽視したのでない。君が作ったエフェクトの鋳型、生きた感激を二度と来ぬ最も適当な瞬間を見計らって力一杯注ぎ込んだものである――僕は君をそう了解している」
といった具合です。この論文の後半には、野口の写楽絵との出会いと感銘、クルトの著「写楽」に対する批判、また野口自身の推論も書いてあって、興味深く読みました。
写楽に関する日本側の研究は、ここからずいぶん進んでいくのですが、その成果と言えば、140数点に及ぶ写楽の絵の集約と整理、すなわち、制作時期と舞台別の分類、役者と役名の特定といったことなのですが、写楽の実像に関しては推測の域を脱せず、堂々めぐりしていたことが分かります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます