凛とした佇まいで彼女は自分の名を告げた。
中世的な顔立ちで、切れ長のすっきりとした瞳。細い鼻筋。キュッと閉じた薄い唇。肩まで伸びた真っ直ぐな黒髪を、春のぬるくて、でもまだ冷ややかな風がゆるくさらった。
忘れたと思っていても、引き出しの奥にちゃんとある。
意味を成さなくなっていても、誰のものか思い出せなくても、その場所にはたしかにある。あるんだ。
ベルが鳴る。アナウンスが流れる。
『列車が発車します。ご乗車の方はお急ぎください』
「はやくはやく」と彼女が俺の腕を引っ張る。
「もう間に合わないよ」
「駄目だよ。終電だよ。帰れないじゃん」
俺たちは列車から降りる人の群れに逆らい階段を駆け上がりホームに立ち、無情にも立ち去る四角い後ろ姿を見送った。
「金はないし諦めてベンチで寝るか、コンビニの酒ならちょっと買えるか、とにかく行こうぜ」
「寒いよ。毛布とかに包まりたい気分」
「今度埋め合わせするからさ」
「約束?」
「もちろん」
彼女は少しだけ唇をゆがめ、でも、仕方ないとしか言えない状況が彼女の言い訳になったのか、機嫌を直し「じゃあ、走ろう」と俺の手を引き笑った。「あったまるよ」
俺たちは手を繋ぎ知らない夜の街を、たぶんこっち、といい加減に走り出した。
そのうち汗が出る頃には足がもつれてふたりですっ転んだ。
とっくに酒は抜けてたけど、路上に転んで大の字に空を見るうち、そんな自分たちがだんだん可笑しくなってきて、くすくすとどちらともなく笑い出すと、もう止まらなくなって、夜中の真っ暗な道端でしばらくふたりで笑い転げた。
懐かしいな、若い頃はわけもなくよく笑ったよな。
「ご飯にしましょうね」
俺はその声に振り返る。あれ、この人誰だっけ、ここはどこだ? でもこの人、あいつに似てる。黒髪が綺麗でシュッと鼻筋が通って。なんだ、そうか、俺、この人好きだな。だってあいつにそっくりだもの。
「今日は機嫌がいいのね」
くすりと笑うその顔が、だから昔のことを思い出してたんだな、俺。あれ、今なにしてたっけ、この人、誰だっけ。この人、あいつとそっくりじゃん。
彼女は慣れた手つきで車いすを操り、彼の膝に薄手の毛布を掛け、食卓に連れて行く。もう何年も続く日常の穏やかな朝の繰り返しだった。
俺、この人のこと好きだな。だってあいつにそっくりなんだもの。
「ねえ」俺は思い切って声をかけた。
「なあに?」彼女が背後で笑うのを感じる。
「俺、君にずっといて欲しいな」
「わかってる。ずっといるよ。今までもこれからも、ずっと一緒だよ」
「約束?」
「もちろん」
意味を成さなくなっていても、誰のものか思い出せなくても、その場所にはたしかにあるんだ。今は引き出しの奥に引っかかってうまく取り出せないだけなんだ。
俺は君のこと、忘れてなんかいないんだよ。
中世的な顔立ちで、切れ長のすっきりとした瞳。細い鼻筋。キュッと閉じた薄い唇。肩まで伸びた真っ直ぐな黒髪を、春のぬるくて、でもまだ冷ややかな風がゆるくさらった。
忘れたと思っていても、引き出しの奥にちゃんとある。
意味を成さなくなっていても、誰のものか思い出せなくても、その場所にはたしかにある。あるんだ。
ベルが鳴る。アナウンスが流れる。
『列車が発車します。ご乗車の方はお急ぎください』
「はやくはやく」と彼女が俺の腕を引っ張る。
「もう間に合わないよ」
「駄目だよ。終電だよ。帰れないじゃん」
俺たちは列車から降りる人の群れに逆らい階段を駆け上がりホームに立ち、無情にも立ち去る四角い後ろ姿を見送った。
「金はないし諦めてベンチで寝るか、コンビニの酒ならちょっと買えるか、とにかく行こうぜ」
「寒いよ。毛布とかに包まりたい気分」
「今度埋め合わせするからさ」
「約束?」
「もちろん」
彼女は少しだけ唇をゆがめ、でも、仕方ないとしか言えない状況が彼女の言い訳になったのか、機嫌を直し「じゃあ、走ろう」と俺の手を引き笑った。「あったまるよ」
俺たちは手を繋ぎ知らない夜の街を、たぶんこっち、といい加減に走り出した。
そのうち汗が出る頃には足がもつれてふたりですっ転んだ。
とっくに酒は抜けてたけど、路上に転んで大の字に空を見るうち、そんな自分たちがだんだん可笑しくなってきて、くすくすとどちらともなく笑い出すと、もう止まらなくなって、夜中の真っ暗な道端でしばらくふたりで笑い転げた。
懐かしいな、若い頃はわけもなくよく笑ったよな。
「ご飯にしましょうね」
俺はその声に振り返る。あれ、この人誰だっけ、ここはどこだ? でもこの人、あいつに似てる。黒髪が綺麗でシュッと鼻筋が通って。なんだ、そうか、俺、この人好きだな。だってあいつにそっくりだもの。
「今日は機嫌がいいのね」
くすりと笑うその顔が、だから昔のことを思い出してたんだな、俺。あれ、今なにしてたっけ、この人、誰だっけ。この人、あいつとそっくりじゃん。
彼女は慣れた手つきで車いすを操り、彼の膝に薄手の毛布を掛け、食卓に連れて行く。もう何年も続く日常の穏やかな朝の繰り返しだった。
俺、この人のこと好きだな。だってあいつにそっくりなんだもの。
「ねえ」俺は思い切って声をかけた。
「なあに?」彼女が背後で笑うのを感じる。
「俺、君にずっといて欲しいな」
「わかってる。ずっといるよ。今までもこれからも、ずっと一緒だよ」
「約束?」
「もちろん」
意味を成さなくなっていても、誰のものか思い出せなくても、その場所にはたしかにあるんだ。今は引き出しの奥に引っかかってうまく取り出せないだけなんだ。
俺は君のこと、忘れてなんかいないんだよ。